後編 「語らい」


<4>




 なぜ、どうして君のような人が。という疑問が確かに俺のなかにあって、それが腹の中で黒い渦のような塊となって仕方なかった。彼女をその世界に閉じ込めておく、しかるべき事情というのがあるはずだ。




「例えばね」


 と彼女はすこぶる元気な様子で話し始めた。夜は深く、俺たちの目の前にある街灯は、花を散らしきった巨大な桜の木を神々しくライトアップしている。




「例えば、魚は海にいるし、鳥は空を飛ぶの。それと同じで私は学級にいるんだよ」




 不思議なことに、スミレのこの抽象的な話は、俺の頭の、奥のほうに、ストンと抵抗なく入った。確かに魚は海にいるし、鳥は空を飛ぶのだ。何も問題ないような気がする。しかし一見、なんの綻びもないような彼女の理論こそ、俺をより困惑させるのだ。




「だって、あの学級は、アスペルガーとか軽度の知的障害とか……そういう人たちが集まる場所でしょう」




「私は特別な考え方をしているんだって。だから普通を学ぶために学級に行くの。学級は匂いが違うんだよ。扉を開くと、なんだが幼稚園のお昼寝の時間みたいな、優しい匂いがするんだ」




 心なしか俺はその時、心底ゾッとした。彼女の匂いの表現が、なかなかに生々しかったからである。なるほど、確かに中学時代は、よくあの学級の前を通ったな。あの……他とは毛色の違う教室には、そういう優しい匂いが立ち込めているのかもしれない。そしてスミレは定期的にその学級に通っているのだ。中学という過酷な環境の中に隣接された、まるで未熟な者を育成する施設。無能であることを肯定してくれる施設。そこには、あどけなさを象徴するような、それこそ幼稚園や保育園のような匂いがあるかもしれない。




 本題からはそれている。今俺が彼女に聞くべきことは、なぜ君があの学級に入っているのか、ということであり、決して匂いについて訪ねた訳ではない。だけれどもスミレの表現は、俺が聞きたかった本質を、あながち外してはいない気がする。つまり彼女は「特殊を起因させる特殊な匂い」を常日頃から身に纏っていて、それが学級への入級を促す起爆剤みたいな役割を有しているのだと、俺は解釈してみた。




「匂い、か」


 と俺はスミレを見つめながら言った。彼女は何も言わずにこちらを見つめ返している。「特殊を起因させる特殊な匂い」というのを、俺は残念ながら感じることはできない。あるいは彼女と常に同じクラスにいて、彼女の言動を一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに至るまで見物していれば、分かるのかも知れなかったが、そこまでしてスミレに特殊性を見いだしたいとは思えない。




「世界には、いろんな匂いがあるからね。でも、普段嗅ぎ慣れない匂いがあると、分かっちゃうんだよ」




「分かっちゃうって、何が」


「この人って世界にとって異物なんだな。って」


「なるほど」




 分かるような気がした。きっとスミレは人よりも敏感に、そういう匂いに詳しくて、また、だからこそ自分が世界にとって異物のような雰囲気を醸し出していることも、理解しているのだ。




 夜中、煌めく住宅街の光を受けながら、俺はこの瞬間が延々と続けばいいと願った。それは男女の恋愛観としてはごくありふれた感情かもしれない。しかしシンプルな感情こそ、人を最も強く煽動せんどうさせる。




 特別支援学級は、世界にとっての異物と認定された子供たちが通う場所なのだろうか。俺からしたら、それは甚だはなは疑問である。彼らは皆、生き生きとしている。






<5>






 明け方になる。空はだんだんと濃い青色に変わる。恐ろしく時が過ぎるのが早かった。そろそろ帰らないとまずい。俺はスミレにありがとうと言った。




「こちらこそありがとう」


 と彼女は言う。俺が聞きたかったスミレの本質については、結果的にうまく聞き出すことができなかった。今後、スミレとの接触回数が増えるにつれて、おそらく新密度は上がるだろうし、彼女があの学級に通っている本質的な理由も見えてくるだろう。




 俺は家に帰り、冷蔵庫からココアを取り出して牛乳に溶かして飲んだ。リビングのカーテンの隙間から青白い光が溢れている。甘くて優しいミルクの味と、白いレースのカーテンの揺らめきを感じているうちに、また、ふとスミレの顔が浮かんできて、俺の胸の奥がカッと恋愛感情で満たされ、苦しいほどに高鳴った。




 スミレとは夜通し話をしていた。しかし自分のベッドに入って目を瞑っていても、全く眠れやしない。すでに窓の外は青白かった。身体が少し熱い。あの時、もし突然にスミレをぎゅっと抱き締めたとしても、多分彼女は嫌がらなかったはずだ。と思いながら眠気が来るのをジッと待った。しかし眠れないまま朝が来た。






<6>






 スミレの通う中学で、風船が飛んだらしい。犯人は彼女だ。どうやら鞄の中に風船とヘリウムガスを詰め込んで登校し、廊下で風船を飛ばしたようである。




 中学時代の後輩からの知らせで、犯人がスミレであるとすぐに気が付いた。




 校舎の中には色とりどりの風船が浮かび、さらにはシャボン玉も飛び、騒ぐ生徒たちの喧騒で、授業は混迷を極めようだ。俺はもう高校に通っていて、母校の景色を直接的には見たわけではないがおおよそ想像がつく。




 その知らせを聞いたとき、まず俺が思ったのは「あぁ、やっぱりか」という諦めだった。とうとう彼女は本性を現してしまったのだ。中学校の校舎内でたくさんの風船を飛ばすなどという行為は……なるほど、普通ではない。確かにそのような事を実際にしたのならば、スミレには「異様」というレッテルを貼られるのも頷ける。だがしかし、少々あからさまではなかろうか。




 彼女の……スミレの異様さはそのような分かりやすい異様さではなく、もっと内在的な物だ。と、俺は信じたい。




 しかし現実問題として、やはりスミレが中学の校舎内に大量の風船を飛ばしたいう事実はあるのだ。彼女のこの行為によって、俺は自分がスミレに抱いている「特殊を起因させる特殊」の存在を疑わざるを得なくなった。というのも、彼女の特殊性は、もしかしたら、ごくありふれたものなのかもしれない。と思い始めてきた。それは俺にとって少し残念なことだった。




 俺はぼぉっと、そのことを考え続けていた。授業中、窓の外に見える桜の木はもう花を付けていない。その代わり、青々とした緑の葉が一面にくっついている。




 教師の声が遠く聞こえていた。俺はノートを取るふりをしていた。スミレは……スミレは、ほんとうに「特殊」なのだろうか。おれはずっと疑問だった。少し開いた教室の窓からは初夏の匂いが入り込んでいる。俺はノートの端にスミレの顔のイラストを描こうとしたが、絵が下手なのでやめた。その代わりに彼女のフルネームを漢字で書いて、それをウットリ眺めていた。それは俺にとって非常に幸せな時間だった。あの子は本当に異常なのだろうか。彼女の特殊性は、神秘性だった。






<7>






 その数日後、俺は再びスミレと会った。土曜日の朝のことだ。図書館の近くの公園のベンチに座り、ボール遊びをする子供たちを眺めながら、俺はスミレの手を握ってみた。




 リードに繋がれた犬が走り回っている。ボールを蹴る音が遠くで聞こえる。子供たちの喧騒、木々のざわめき。広い快晴の空と、真っ白な月。その月を見ているうちに、俺は彼女にまた質問したくなった。




「ねえ、どうして風船を打ち上げたの?」


「祝福だよ、私を認めてくれたアナタへの祝福」




 面白い答えだと思った。




「祝福をしてくれたんだね」


 感謝の気持ちを込めて、俺は言う。あの風船事件は、校内を騒がせたあの例の風船事件は、俺の……俺を祝福する為に行われた行為なのだ。彼女の異常性の一端を、俺が担ってしまったのだ。という焦りとも感動ともつかぬ胸の高まりを確かに俺は感じた。そしてその主犯各が、いま俺の側にいる。俺の側にいて、女神のように美しい顔立ちで俺の手を握っている。




「あのね、私、医療センターに行くことになったんだ」


「医療センター? どこか悪いのかい?」




 唐突にそんなことを言うから、俺は心配だった。しかし少し時間が経ってから、彼女の言う医療センターというのは発達系統の療育施設のことだろうと予想が立った。




「私の悩みを、センターの先生が聞いてくれるんだって。不思議だよね。私、悩んでいることなんて無いのに。私の心のどこか治さないといけないなんて、私は思ってない」




「全くだよ。君に発達障害者のレッテルを貼りたいのは大人たちの勝手な都合だ」




 俺は少し強い口調で言った。大人たちが潜在的に抱えている「異質をかぎ分ける嗅覚」というのは、愚かしいと俺は思う。




<8>




「全部さ、大人たちのエゴなんだよ」


「そう言ってくれて嬉しいよ」




 俺は、俺よりもずっと彼女のほうが大人びているような気さえ感じていた。しかし、未だに俺は、スミレの内面の……歪な形をした特殊性について自分自身が納得できる答えを提示できてはいなかった。それは数ヶ月も前から変わらずに、彼女の内面の「不思議さ」として確かに俺の心に根付いていた。




「認めてくれて、嬉しいよ」


「うん。認める」




 俺はいったい、彼女の何を認めているというにだろう。特殊性か、歪さなのか。特別支援学級に通っているという事実のことか。もしくはスミレという女性そのものなのか。彼女は社会にとっての腫瘍かもしれない。歪んだ社会、醜悪な社会に生まれた、純粋な腫瘍。その意味を俺はずっと理解できない。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

腫瘍かもしれない。 あきたけ @Akitake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ