腫瘍かもしれない。

あきたけ

前編 「出会いについて」

<1>


 紺碧の空に浮かんだ三日月は、まだその生き生きとした黄金の力強さを下界に解き放っていた。


 湿った夜風に草木が靡いて、その下の土や虫や、小さな花たちの存在を微かに示唆しているようにも思えた。


 春雨が上がった後の住宅地の臭いは、都会に僅かに残る街路樹や、花壇などの人工的な自然の香りと、排ガスや下水等の汚濁の臭いを混合させた非常に奇妙なものだった。




 俺は夜中に家を抜け出してきた。父も母も寝ていたし、すぐに帰る予定だったから、しばらく春の夜の風に当たっていたかった。中央公園の、ちょっと小高くなった丘の上から見える景色は、いつも静まり返った町の小さな息遣いが聞こえてくるような気がした。




 俺は近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに座って少女が来るのを待った。




 その少女とは中学の頃に出会った。一つ年下の色白の子で、特別支援学級に通っていたのだったが、高校受験を間近に控えたある日のこと、面白い出会い方をしたのだ。




 俺は仲間たちと勉強もせず校庭でサッカーを楽しんでいた。仲間が蹴り上げたボールは不意にコートを離れ、そのまま特別支援学級がある建物の窓の下にぶつかり、鈍い音をたてた。




「俺が取りに行く」


 仲間たちにそう告げて、俺は学級の近くまで走った。ボールのすぐ近くまで来たとき、建物の影からふっと少女が現れて、今しがた俺が取ろうとしたボールを彼女が拾い上げたのだ。俺はその女の子が、特別支援学級に通っている生徒であるとすぐに分かった。どことなく世界に馴染めずにいるような特殊な雰囲気を有していたのだ。




「ありがとう」


 と俺は言った。しかし彼女は俺にボールを返そうとはぜずに、ただただ、その柔らかい微笑みを浮かべていた。この子には言葉が喋れないのだろうか、と直感した。しかしその割には、彼女の目付きはしっかりしていたし、冷静沈着なオーラを身に纏っていた。まるでこちらが何かを試されているみたいだった。




 少女ががボールを返してくれるまで、俺は彼女の顔を見つめる事にした。普段、俺もみんなも可愛い女の子の顔をまじまじと見つめたりなんかしない。そんなことをすれば、茶化される可能性があったからだ。


 例え好意を抱く異性がいても、その感情を悟られまいと顔を背けるのだか、今の状況であれば何とでも言い訳ができると感じ、少女と十数秒、目を見つめ会う形となった。十数秒……長いようでもあり、短い時間でもあった。



「また来てくれる?」


 と少女は言った。はっきりした口調だった。俺はその瞬間に恋に落ちた。あり得ないような衝撃と共に、俺は混沌の渦中に巻き込まれた。その衝撃的な蠕動と、心臓の鼓動にうちひしがれ、俺を取り巻く世界の一切が黄金の輝きへと変貌した。



「何やってんだよ、史郎!」


 快晴の空に、仲間の威勢の良い声が響き渡った。つぼみを纏った桜の木に、二羽のヒヨドリが止まって、ぴよぴよ鳴いている。あの桜の木は、幾日もしない内に満開になり、特別支援学級の窓の下を桃色の花弁に染め上げるはずである。



「悪い!」


 俺はすぐさま意識を現実へと引き戻したが、心は目の前の少女を捉えて離さなかった。頭の中が混乱していて、ほとんど目眩に近いような気がした。



「返してくれる?」


 と俺は言い、彼女からボール取り上げた。わざとでは無かったが、その時、少女の指先と俺の指先が触れた。不意の出来事に俺は驚き、全身の鳥肌が立つような強い喜びに満ち溢れた。



<2>



 少女との出会いは、俺の生活に、決定的な変革を与えた。少女が口にした「また来てくれる?」という言葉の元に、俺は毎日欠かさず、昼休みになると桜が散る特別支援学級の校舎に足を運び、彼女と密会した。



 俺は彼女と話をしている内に、ある疑問にぶち当たった。彼女はどう見ても頭脳明晰で、どうして学級に通っているのかが分からないのである。



 俺の心には不思議さと共に、ある種の怒りのような感覚が芽生えた。彼女をあんな学級へと追いやるほどの「何か」がそこにはあるのだ。彼女を一般の生徒ではなく、その「特別」を「特別」たらしめる「何か」の存在を、俺はこの目で確かめたかった。



 それを知るために、俺は次の土曜日、二人きりで会わないかと、伝えたのだが、彼女は複雑な表情を浮かべていた。



「夜中なら、いいよ」


 と彼女は言った。両親に知られたくないから、彼らが寝静まった深夜に家を抜け出し、秘密で俺に会いたいのだと言った。


 その言葉を聞いたとき、俺は非常に驚いた。少女は俺に対して、かなりの好意があるのではないかと感じた。そしてその俺の直感は、恐らく正しいはずだった。



 俺は土曜日が来るのを待った。焦る気持ちを抑えつつ、周囲には俺の恋心を悟られまいと平静を装った。二日に一回は連絡を取り合ったし、時間は短いけれど電話もした。その都度、俺たちの心の距離は縮まっているような感覚を抱いた。



 幼い少女は、スミレという名前だった。俺がその名前を可愛らしいね、と誉めると「史郎って名前もカッコいいよ」と言ってくれた。俺は自分の古めかしい名前にコンプレックスを抱いていたから、少し恥ずかしい気持ちになったが嬉しかった。



<3>



 約束の土曜日の真夜中に、俺は家を抜け出した。玄関を開ける音に両親が起きてくるんじゃないかと不安を感じたが、割りとあっさり成功した。春の夜の風が、俺の頬を撫でた。オレンジ色の外灯が淡く光って暗闇の住宅街を照らしている。



 俺は静まり返った住宅街の淡い家々の光をぼんやりと見つめていた。社会活動の歯車の一つとして、小さなダイナモを象徴するように街は輝いている。仕事に疲れ果てて、ぐったりと横たわった人々の、脆弱な寝息がそこに潜んでいるような気がした。



 木の葉を踏む小さな足音が暗闇に響いた。それがスミレの足音だと気付いたとき、俺は心臓の鼓動が強く跳ね上がるのを感じた。外灯の光が、彼女の白い服を照らしていた。



「こんばんは」


 声を掛けたのは俺だった。今はスミレの何もかもが愛しかった。この世界の姿が果たしてどれだけ醜悪な形相だとしても、彼女の純情さを胸に描くだけでそれは緩和されたし、俺の見ている全ての宇宙が、輝きを得るような気がした。



 それほどにまで俺は彼女に惹かれていた。


 しかしスミレが特別支援学級に通っているという事実は、中学生の彼女の、人間としてのある種の欠落を象徴するようでもあった。


 闇の反対が光であるかのように、スミレの内面の、何かしらの欠落は、同時にこの世の全ての穢れや醜悪さの欠落を示しているとでもいうかのようだ。




「史郎、ごめんね。こんな夜中に呼び出して」


「いいよ。俺は君が好きだから」




 俺は君が好きだから、という愛の告白の言葉が、それこそ何の躊躇も無くあっさりと声に出た。自分が発したその言葉のニュアンスは、どうしてか不自然に思えた。



「嬉しい」


 と彼女は言う。儚い表情で、すがるような声色で声に出す。もしかすると、自分が感じているこの焦燥感や心臓の鼓動は、恋愛感情ではないのかも知れない。恋愛的な感覚などではなく、もっと別の意味を含んだ……俺とスミレの決定的な違い、例えば世界に対するがん細胞的な何かを示唆しさしているのかもしれない。



「何でも聞いていいよ」


 そう言ってから彼女は、驚くべきことに、俺の手を握ったのだ。しかも両手で……さも大切な宝物でも握りしめるかのように。俺はその細い指先と、ちょっと温もりを感じる手のひらの感触に触れて幸福だと思った。



 しばらくして、俺は彼女にどんな質問をするべきか思い出した。彼女を特別たらしめる何か……の正体をつかむべく、




「君は、どうしてあんな学級なんかに通っているんだい?」



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