10."Cupid shoots to kill"

 ベラとサッドネスのショウは、そこに至るまでの経緯を考えれば十分な成功を収めることができた。歌唱も演奏も選曲も、そのどれもが完璧とは言い難かったし、観客の反応も必ずしも上々とはいえなかった。しかし、最初から全てが上手くいくことなどあり得ない。ビルの昔話を聞いたベラのみならず、これまでにいくつかの舞台に立ってきたサッドネスの面々もそのことを過不足なく理解しているから、楽屋に戻ったときには笑顔でお互いを褒め称えることができた。ドラムのマットは、

「今日はスティックが飛んでいかなかったな。念のためにストックを用意していたんだが……」

 などと自画自賛していたし、ベースのニックも、

「まあ、こんなものだろう」

 と彼にしてはいつになく満足した様子だった。

 楽屋を訪れたジェームズとビルもまた、ベラたちの演奏を称賛した。

「ベラ、よくやったな。初めての舞台としては上々だ」

「あまり褒めるのもどうかと思うが……、私もジェームズの言う通りだと思う。よくやってくれたな」

 二人に続いてツインズのメンバーも加わり、楽屋の騒がしさは抑え難いものとなりつつあった。ベラは祝福の中心にいるべきはずだったが、気付かれないようにそっと楽屋を抜け出した。最初は薄暗く思えたはずの照明も今はうるさく思えて、どこをどう通っているのか分からないままに通路を進み、重い扉を開けて外へ出た。

 ようやく一人になることができた。

 思わずため息が漏れ出る。疲労感と充足感とがない交ぜになった、不思議な感覚。生ゴミや煙草の臭いが混じったホテルの裏口で、たった今まで舞台の上でスポットライトを浴びていた歌手が立ち尽くしている。

 ふと、何かが動く気配がした。ベラは驚きながらも声を上げるだけの体力も残っていなかったので、暗闇の中で動く何かを慎重に見極めながら、静かに後ずさりしていく。

「ご、ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで」

 暗闇から現われたのは、初めてこのホテルを訪れたときに玄関で苦闘していた清掃員の少年だった。その顔のニキビの激しい分だけ、ベラの恐怖心は素早く衰えていった。ベラは彼の足元で息絶えようとしている煙草の火を見ながら、問いかけた。

「何だか懐かしいわ」

 ベラは母親の飲食店のことを思い返していた。酒と煙草とは切っても切り離せないものなのか、常連客たちは皆が煙草を吸っていた。そのせいだろうか、店の空気はいつも澱んでいたように記憶している。ベラはそうした環境で育ったものだから、酒と煙草の匂いは嫌いではない。けれど歌手を目指すようになってからというもの、周囲では煙草を吸わせないようにしていたし、言うまでもなく自分で嗜むこともなかった。だから、煙草の匂いをここまでしっかりと嗅ぐのは、本当に久しぶりのことだった。

 ベラの発した言葉の真意はそこにあるのだが、少年にはもちろん何のことだか分からない。

「あの、さっきまでラウンジで……」

「ええ、私が歌っていたの。聴いてくれていたの?」

「いえ、自分は仕事があったから……。でも、いつも自分があのラウンジの清掃をしているんです」

「そう、あなたが……」

 興奮から冷めるにつれて、疲労の度合いが強まってくるようだった。それでも今は夜風を浴びていたかった。

「ここで舞台に立つのはどんな人なんだろう、どんな歌や演奏を披露するんだろうって、いつも想像しながら掃除機をかけたりするんです。今日の舞台は、どうでしたか……?」

 少年のあまりにも直線的な質問に、ベラは思わず笑い声を上げてしまった。少年は狼狽する。

「ごめんなさい、ちょっと質問の仕方にびっくりしてしまって。……そうね、悪くなかったわ。あなたが良ければ、ここで聴かせてあげたいくらい」

「えっ、本当ですか」

 少年は瞳を輝かせながら、ベラを真っ直ぐ見つめてくる。ベラも最初は冗談のつもりで言ったのだが、次第に気が変わってきて、彼のために歌おうと思うようになってきた。

「誰でもない誰かのために歌うよりも、誰でもないあなたのために歌うほうが、ずっと私のためになるような気がするわ」

「じゃあ……!」

「――いえ、やっぱり違う。ごめんなさい」

 咳払いをあえて一つして、ベラは間を置いた。その空白を埋めるだけの積極性は、少年にはない。

「昨日までの私ならそうしたかもしれない。でも、今の私にはそれは違うように思えるの。この歌声をあなたに贈るとして、あなたは私に何を差し出せる?」

「僕には……何もないな」

 気まずい沈黙が生まれかけたが、しかしそうなることはベラの望むところではなかった。

「ねえ、あなた……あなたの名前は何だったかしら」

「マイルズです」

「ねえマイルズ、世の中の全てがそうやって成り立っているように、私はもう無償で歌声を贈ることはできないの。ここであなたのために歌うことは、もちろん不可能なことではない。けれどそうしてしまえば、何かが崩れてしまう。そういうふうに思うことはおかしくないわよね?」

「それは……そうです」

「あなたは今ここで私の歌声を受け取ることはできないかもしれない。けれど、いつか必ず、あなたは私の歌声を受け取ることができるはず。今までに私が口にした考えは、必ずしも確かな根拠を持たないかもしれない。でもこれだけは言い切れるの、あなたはいつか私のとても大切な観客の一人になってくれるって」

 マイルズは悲しげな表情を変えはしなかった。ベラは思わず天を仰いだが、ややあって再び視線を戻すと、マイルズの眼差しには新たな光が宿っているように思われた。

「いつか、必ず」

「ええ、そのときが来たなら……」

 ベラは真っ直ぐにマイルズを見つめてこう述べた。

「あなたの心臓を射抜くために歌うわ」

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Cupid shoots to kill (Definitive Edition) 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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