Cupid shoots to kill (Definitive Edition)
09.Summertime, Can't Take My Eyes Off You, Heartbreak Hotel, Over the Rainbow...
09.Summertime, Can't Take My Eyes Off You, Heartbreak Hotel, Over the Rainbow...
少し前までひっそりとしていたラウンジは、公演が始まる頃には人の気配で満ち満ちていた。カクテルを片手に談笑する男女、四人で卓に向かい合って何かひそひそ話をしている男性たち、舞台に近い席でショウが始まるのを待ちわびている幾人か。やがて時間がくると、四人のメンバーで構成されるバンド、サッドネスがまず舞台に上がった。手短で簡単な音合わせに続いて、最年長のニックからの挨拶。
「どうぞよろしく、楽しんで下さい」
ニックらしい簡潔な挨拶にバンドメンバーの緊張が和らいだ。続いて舞台衣装の赤いドレスを身につけたベラが登場すると、それまでやや騒がしかった会場の雰囲気も落ち着いてきた。静まり始めた観客を前に、ベラもまた簡単な挨拶をすることにした。
「こんばんは。今日、この舞台に立つことができて光栄です。皆さんのために、これまでに培ってきた全てをぶつけます。そして私たちの演奏を聴いてくれるあなたのために歌います」
ニックの挨拶とは対照的ともいえる挨拶を述べた。実はベラには心に温めていた言葉があったが、大見得を切るだけの余裕はなかった。何しろ、初めて観客を前にして歌うのである。思いの丈を語ることはできなかったが、今必要なものは十の言葉よりも一の音楽だ。ベラがそうした覚悟を以てバンドを振り向くと、彼らなりの笑顔で応えた。
いよいよ、演奏が始まる。
まず、マットがリズムを刻み始めた。ややあってニックのベースが登場し、やがてリズムへと絡みついていく。続いてジェイミーのアコースティックギターが簡単にメロディを奏でると、ベラの歌唱が始まった。甘く柔らかい、ベラの持ち味が発揮された歌唱だ。その曲は、レイがツインズの演奏で歌っていたジャズのスタンダード・ナンバーだった。元々は予定になかった曲だが、ベラの意向で急遽リストに加えられたものだ。練習する時間に乏しかったこともあり、アレンジ自体は凝ったものではない。シンプルである分だけ、ベラの歌唱が際立つようにもなっている。
この曲には哀愁があった。どうしてレイがこの曲を歌おうと考えていたのかは分からない。単に広く知られている名曲であるから、というだけかもしれない。一方のベラは、この舞台に立てなかったレイへの想いを込めて歌っている。ベラが最後まで歌い上げると、待ち構えていたアレックスがエレキギターでソロを奏で始めた。ベラはその演奏の間、今の自分の歌唱に点数をつける。大見得を切らなくて良かった、そう思えるくらいに声の震えは隠せなかった。それを感情の発露と捉えれば声の震えが良い効果を生んでいた面も否定はできないが、それ以上に逆効果となっていた面の方が大きい。ベラは反省をしながらも、バンドの演奏が終わったときには次の曲に向けて気持ちを切り替えていた。
間髪を入れずに次の曲が始まる。アレックスのギターから始まったのは、やはりスタンダード・ナンバーとして知られるゆったりとしたリズムの曲だ。最初の曲に哀愁があったとすれば、この曲には安息を感じさせるものがあった。ベラも最初の緊張からはやや脱して、落ち着いた気分で歌い上げていく。
ラウンジの雰囲気は徐々に喧騒を取り戻しつつあった。舞台に近い客の多くは演奏に聴き入っているが、後方では大声で会話をしている者たちもいる。静かな曲を演奏している分だけ、会場の落ち着かない雰囲気は舞台に届く。それでも無事に二曲目を歌い終えたベラは、間を取ってバンドにある提案をした。
「予定を変えて、次は力強い曲をやりましょう」
改めて観客の注意を引くためにはそうした方が良いとベラは言うのだ。
ベラが三曲目に選んだのは、これまた元々は予定にはない曲だった。今朝ラジオから流れてきたというだけで、ベラはその曲をリストに組み入れたのだ。十分な練習をした訳ではないので大きなリスクを伴うものの、四人とも演奏できるだけの大ヒット曲だったし、雰囲気を壊さない程度に力強い曲としてはこれ以上に適当なものは浮かんでこなかった。
「ベラ、大丈夫か」
心配の色を浮かべるニックは、そのリスクを誰よりも理解している。一曲目と同じように、単純なアレンジになる分だけベラの歌唱が際立つ。裏返して言えば、これまでの曲以上にベラの力量が問われることになるのだ。
しかし、ベラは顔色一つ変えずに頷いた。もちろんリスクは承知の上だ。最も重いものを背負うはずのベラが平然としている以上、バンドとしては最高の演奏をするだけのことだ。
「分かった、やろう」
ニックはいつになく出過ぎた真似をしたと反省したが、ベラは笑顔でそれに応じるのみだった。
小休止を終え、バンドは三曲目の演奏を始めた。まずはニックのベースから始まる。しばらくはニックの独奏に委ね、やがて機を捉えてドラムが、続いてギターが起き上がる。旧き良き日を想起させるようなギターの音色を受けて、最後にベラの歌唱が始まった。これまでの曲にはなかった力強い歌唱に、会場の雰囲気がやや変わったようだった。それが肯定的な反応なのか、それとも否定的なものなのか。そんなことはどちらでも構わない、注目させればこっちのものだとばかりに、ベラはより感情を込めて歌唱を続けていく。甘く柔らかな、どちらかといえば気怠げな印象を与えるばかりだったベラの歌唱は、ここにきて新たな彩りを備えたようにも思われた。ギターの音色が終わりを告げたとき、ドラムのマットは思わず雄叫びを上げていた。
「ベラ、最高だ!」
ベラはマットの興奮を苦笑いしながら抑えつつ、ここで初めて一度客席の方へ向けてお辞儀をした。
「次に歌うのは私が母から授かった曲です。とても大切な思い出のこもったこの曲を、どうぞ聴いて下さい」
万雷の、とはならなかったものの、明らかに熱を帯びた拍手が起こった。
四曲目もやはり有名な曲だった。派手な演奏のある曲ではなく、やはり歌唱に比重の置かれたものだ。ベラの歌唱は、今までになく安定していた。最初の曲で感じられた過度な歌声の震えもなく伸びやかな歌唱は、観客の心を掴むのには十分といえた。勢いを得たベラは、最後はしっとりと、やや余韻を残して歌い終えた。そこで待っていたのは、先ほどよりも大きな拍手だった。
ふう、とベラは息を吐く。これまでの様々なことが去来して、つい感傷的な気分になった。苦労の末に初舞台を踏み、そこで観客からの大きな拍手を受けている。この、今という瞬間の何という有り難さ。幼い頃に母が話してくれた虹の彼方というのは、ずっとある特定の場所なのだと思っていた。しかし、それは都会でも田舎でもない、いや、都会にも田舎にも存在し得る場所なのかもしれないと思い始めていた。その幸福な場とは、観客を前にして歌う舞台なのかもしれない。もっと言えば、空間だけでなく時間すらも包摂している概念なのではないだろうか。そんなことを、ベラは拍手を受ける間に考えていた。
そして次のようなことにも思いを巡らせた。自分は夢の一端を掴んだ。次はバンドの皆との夢を掴みたい。そのために用意されたのが、オリジナル曲だった。
「あれをやりましょう」
ベラの一言で、バンドの弛緩しかけた表情がぐっと引き締まる。これまでのように、誰もが知っている曲を演奏すればまずまずの反応を見込むことができる。しかし、オリジナルの曲を演奏するとなると、観客の集中力を求めることになる。ベラは観客の反応が最も高まった今この瞬間を狙っているのだ。
これもまたリスクを伴う選択であった。いくらレイから託された曲とはいえ、バンドと観客との駆け引きを成功させて適切なところへ着地させることを第一に考えれば、スタンダード・ナンバーを続ける方がずっと無難なはずだ。それでもベラはこの曲に固執した。
「この一曲は、私たち自身のためにやりましょう。それになかなか、この曲も悪くないものだわ」
ベラはくるりと観客の方へ向き直る。いわば最大の賭けが始まろうとしていた。……
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