3(ΦωΦ) episode:2 新しい仕事──世間話が嫌いな同僚と馬車に乗って

「良かったあ」


細くて折れそうな脚を、文字通り包帯でぐるぐる巻にした後輩ちゃんの仏頂面にわたしは安堵した。


「ちっとも良くありませんッ!」


後輩ちゃんは転んで脚を捻挫ねんざ、そして、ほんのちょっと擦りむいただけ。


「あ、だったらあの赤い液体は……」


「ワインです」


「は?」


「お芝居で使う赤ワインを抱いていたときに、あの変な男の子が飛び込んできて、びっくりして足を滑らして転んで……ああ、もう恥ずかしい」


「動かなかったのは?」


「だって恥ずかしかったんだもん。それに、こういうときは祖母からもをしなさいって教わってましたから」


それ、『熊と出会ったら』の間違いでは?


結果的に熊より危険な『猿』少年だったから間違ってはいないか。何にせよ無事で良かった。


「先輩、本当に出て行っちゃうんですかあ。先輩とは仲良くなれそうな気がしたのに……愚痴聴いてくれるし」


「わたしはお母さんか」




ここに、これ以上居ても望みなさそうだし……それに、わたしを雇いたいって女の人が現れた。


東洋の果てにある京都という名の……縁もゆかりもない國のお嬢様らしい。


女優を夢見ていたのに、実際にやっていたのは劇場お抱え家政婦。


しかも「衣食住付き」を理由に子供のお小遣い程度しか貰えない。


それなら、ちゃんとお給料を支払ってくれるところで働こう。その方が両親も安心するだろう。


「先輩たちが話してましたよ、通用口に凄く立派な馬車でお迎えが来ているって。外国の……黄金の國の方でしたっけ、ものすごい大金持ちのハウスメイドとして雇われるんでしょう」


大きな目をパチクリさせながら興奮気味に尋ねてくる後輩ちゃんに対し、わたしは笑顔で返した。





仏頂面の支配人に連れられ通用口を出る。


支配人が嫌味ひとつ言わず無言でわたしを連れ歩くなんて初めてことだ。けれど、それ以上に驚愕する光景が裏庭にあった。


わたし、呆然と立ち尽くした。


わたしを、わたしひとりを迎えに来た四輪馬車は真っ白な箱型クーペだ。金箔の飾り窓にはマホガニー色のカーテンがかかっている。


力強そうな褐色の馬が一頭、手綱をひかれて大人しく待っていた。


そう、これはを乗せるための特別な馬車だ。


「何をしている、早くしろ」


後部のドアを開けて降りてきたメイド服は、あの真っ白い真珠のような肌をした美女。


いまは大きな拳銃を持っていなかったが、苛ついた瞳は猛禽もうきんのようにわたしを刺した。


「ご、ごめんなさい。すぐに」


慌てて荷物を──と、いってもバックひとつだが、馬の手綱を握る御者ぎょしゃの中年男性に「宜しくお願いします」と頭をさげた。


皮の上着を着て黒い毛糸の帽子を被っている。瞳だけ僅かにわたしを見やると何も言わず、表情ひとつ動かさず、座席に座ったままだった。


「ええっとぉ」


「世間話はしなくて良い」


真珠のメイド美女から叱られた。


御者ぎょしゃの人も、わたしとのやり取りに全く興味が無いようだ。


まるで兵隊人形のように進行方向だけを見つめて座っている。


「……あ、あの支配人さん。これまで長らくお世話になりました」


支配人は奇妙なものでも見るように美女を見て、そして馬車を見て、それからわたしに視線を戻した。何か言おうとして、そのまま口ごもる。こんな支配人は本当に初めてだ。


颯爽と乗り込んだ真珠の美女に続き、わたしも足早に靴のつま先をステップにかけた。


けれど室内の座席まで意外に高い。


しかもバックが重くて、ステップでぴょんぴょん飛び跳ねる状態に。


見かねたのだろう真珠の美女が手を差し伸べてくれた。


予想外だ。優しい一面がある……顔は怖いけど。


呆れたように鼻を鳴らし、顎で「座れ」と合図された。




ムチが鳴ると、ひずめの音が聞こえた。木製の大きな車輪が同時に動き始める。大劇場コメディ・フランセーズが、そしていまだ立ち尽くす支配人が小さくなっていく。


カーテンの向こうに巴里パリの街並み。少し涙が出た。


「わたしは女優になれなかった」


窓の外を流れる街並みを見ながら、つい口から出た言葉に、自分でもびっくりした。


愚痴を言ってる。このわたしが?


「これから人生を演じればいい。舞台はお嬢様が用意してくださる」


真珠の美女が仏頂面で難しい事を言った。


「人生を……演じる?」


「おまえは他人の書いた脚本がなければ踊れないのか」


「……えっとぉ、そのぉ」


「まあいい。じきに分かる」


「ごめんなさい。そういえば、まだお名前を聞いていませんでした。わたしはセリシアです。印度系移民の家系ですが、父は司法書士で母は花屋で働いています。両親とも健在です。兄弟は……」


「世間話はしなくて良いと言った」


「すみません。それで、あのぉ、あなたのお名前は……」


真珠の美女は呆れた顔を少しだけわたしに向ける。


瞳は相変わらず猛禽で怖かったが、刺すような眼光ではなかった。ベテラン女優が新人に向ける瞳に似ていた。


「コゼット=カルティエ=ブレッソンだ。レディズメイドとしてお嬢様に仕える、おまえの同僚となる。敬称はいらない。コゼットと呼んでくれ」


「はい、コゼット。宜しくお願いします」


コゼットからの返事はない。仏頂面のまま反対方向を向いてしまった。


何か怒らせちゃったのかな。


よく見ると白い肌がやや高揚しているようだ。耳たぶや、うなじも赤くなっている。


「ごめんなさい。勝手がわからなくて……あのぉ、至らぬ点があったら叱ってください。わたし頑張ります」


「……いや、大丈夫だ。お嬢様おまえを気に入るだろう」


「……も?」


「揚げ足を取るな。世間話をするな。黙って外でも見ていろ……だから、こっちを見つめるんじゃない!」


馬車は走る。


一つ前の万博ばんぱくで建てられた『エッフェル塔』が視界に入ってきた。


パンが食べられない貧民の為にお菓子を用意したら、代わりに貧民からギロチンで首をハネられた王妃が、その昔いたという。


そんな巴里革命100周年のモニュメントだ。


セーヌ川の右岸、その少し手前の丘陵地を蹄が駆けあがる。


力強く。たてがみは揺れ、ムチのしなる音と車輪が土を弾く音。


けれど、お転婆なジャンヌ・ダルクも安らぐほどに、不思議と車内は静かだった。


ただ窓の外の景色だけが目まぐるしく移り変わっていく。


拾陸じゅうろく区?」


予想はしていたがパッシーだ──貴族街、あるいは最高級住宅街。


それまで風といっしょに流れていた窓の外の景色は一軒のお屋敷の前で動きを止めた。


周りの建物よりやや小ぶりだが、白いレンガに埋め尽くされた石造りの、つたが絡まる風格を備えた、複数のバルコニーとトンガリ屋根の、そんなオシャレなユヌ・ドゥマール。


「着いたぞ、降りろ」


ぶっきらぼうに言い放つコゼットは、わたしを見向きもせず馬車を降りた。


慌てて追いかけようと座席からお尻をスライドさせつつドアへ手をかけたとき、コゼットが手を差し伸べてくれた。


「足をちゃんとステップにかけろ。バックは降りた後でいいだろう、一緒に落ちるぞ」


あ、この人、やっぱり優しいんだ。


お屋敷の前に立って見上げる。


まるで小さなお城みたいなトンガリ屋根と行く手を遮る門構えが、ここの住人が一般人でないことを伝えていた。


「すごーい。これを個人で所有しているなんて」


「借り物だ」


「え?」


「お嬢様は巴里人ではない。ここには仕事で来ている。いずれ帰国されるから、それまでの仮住まいだ」


「……仮住まいでこのお屋敷なんですか」


門の前には大きな男の人が立っていた。


よく見れば、馬車を操っていた御者の人と似た顔立ちだ。


同じ顔、と言い切っても差し支えないだろう。


双子かしら。


コゼットへ対しては軽く会釈したが、わたしは何故か睨まれた。


「おい、これがセリシアだ。お嬢様直属レディズメイドだ。記憶しろ」


妙な説明だ。


それでも、わたしに会釈し直してくれたので「セシリアと言います。こんどメイドとして……」と自己紹介しかけたら……


「世間話はしなくて良い」


と、ぶっきらぼうにコゼットが遮った。

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