SECTION1:【お嬢様との愛ある生活〜館と愉快な仲間たち!?】

2(ΦωΦ) episode:1 半年前にさかのぼる──わたしの夢

「セリシア先輩、わたし猫をやることになったんですうぅ」


モップで床磨きをしていたら、視界の外から突然現れた後輩は、弾けるような笑顔とぷっくりした唇ではしゃいだ。


「え、猫って?」


シャムネコ、ペルシャ、ヒマラヤン……ベンガルにスコティッ・シュホールド。ノルウェージャン・フォレスト・キャットなんて長い名前もあるわね。


「いやだなあ、新作劇ですよお。お人形に憑依ひょういした化け猫とお城のお姫様が一緒に城下の世直しをするお話です」


「舞台にあがるの?」


「当然でしょう、わたしそのためにここへ来たんだもん。先輩は舞台に上がらないんですねぇ、変なの」


「……泣きたい」




ここへ集う女の子たちは、皆そうだと思うけど、わたしだって幼い頃から女優さんは憧れの存在だった。


でもコレージュへ入学する頃には、夢を忘れていた。


思い出したのは職業訓練を受けるためリセへ願書を出しに行ったときだ。


コメディ・フランセーズが研修生を募集していた。だから両親にお願いしたの、わたし舞台女優になりたい!


言われるままに下働きをやっていたのも、いつの日か先輩たちのように舞台でお芝居が出来ると信じていたからだ。


けれど、期待した声はいっこうにかからず、気づけば後輩が先にデビューしていた。


愛想笑いでこの場を切り抜けよう──うん、そうしよう、と姑息な思惑を巡らす必要もなく──後輩の方から「舞台稽古があるから失礼しまーすう」と、るんるんスキップで去っていった。


「うぅっ」


わたしはエプロンのポケットから手鏡を取り出すと自分の顔をじっと見つめた。


「作りは悪くないと思うの」


いや、本当に。


印度インド系移民だった祖母の若い頃の写真を思い出した。


絶世の美少女だった。


クレオパトラの子供時代だと説明されたら騙されてしまう──あの時代に写真があるわけないけど──わたしも、その血筋を受け継いでいる……はずだ。


「幼い頃はおばあちゃん子でいつも一緒にいた。おばあちゃんの髪は明るい栗毛色で、瞳は綺麗なコバルトブルーだった。一方で、わたしは真っ黒な髪。しかも癖っ毛だ。瞳も真っ黒……わたし、おばあちゃんの孫だよね」


顔も残念ながら、祖母のように堀が深くて鼻も高くない。せめて、そこが同じなら今ごろは美人女優の仲間入りなのに……どうして似てないのよ。


子供の頃のあだ名が『ブレローたぬき』だった事を思い出した。


ため息とともに手鏡をポケットに仕舞うと、モップがけを再開した。




「なんだ、ちっとも綺麗になってないじゃないか!」


背筋にぞわりと冷たいものが走る。心臓までがその音量に震える。地を這うような濁声に振り返ると中年太りの支配人はいつもの眼光でわたしを睨んでいた。


「セリシア、おまえは掃除も満足に出来ないのかよ。いったい何が出来るんだ?」


「は、はい。ごめんなさい」


条件反射的に謝罪の言葉を口にしながら、今日はいきなり頬を叩かれないことに安堵する。客人を連れているのだ。支配人は誰かと一緒のときは暴力を振るわない。


「ほお、ずいぶん若い娘だな」


声をかけてきたのは服装からして明らかに貴族だった。


「ミハエル伯爵、このような下世話な者とお話されては……どうぞ、舞台をご見学されては?」


支配人の言葉を無視してミハエルなる伯爵さまが、わたしの前に立つ。だが優しいお気持ちでないことはすぐにわかった。口元がへの字に曲がる。


「ふん、貧乏くさい顔をしているな。だが……」


突然、わたしの顎を掬うように持ち上げると乱暴に目線を合わせてきた。


「裸に剥いてムチでしばけば良い声で鳴きそうだな……ククッ」


全身に震えがきた。何も言い返せず、ただ震えた。涙をこらえるだけで精一杯だ。


「伯爵、その娘がお気に入りなら準備させますよ」


支配人の下品な笑い。


「冗談だ。奴隷なら間に合っている」


「そうですかあ……セリシア、おまえは本当に約立たずだな」




支配人たちが去った後もしばらく震えが止まらず、その場に立ち尽くした。両腕で自分自身を抱きしめるように力を込める。我慢していた涙が一粒、二粒、床に落ちた。


そして──高価な大理石の床にシミがつくことを恐れ、慌ててモップを手にする。


とにかく頑張ろう……今日一日は。深呼吸。うん、よし。めそめそしないぞ。と、床磨きに戻ろうと、視点を落とした時に気づいた。


たくさんの足跡だ。


「小さい……子供の足だわ」


それは不規則に並んでいる。


普通なら入り口から入ってくるであろう足跡が広場の真ん中辺りからぐるぐる回って……かと思えば、壁ぎわから反対側の壁に一直線に向かってそこで途絶えている……壁抜けでもしたのかしら?


「シャーロック・ホームズも悩む難題ね」


「そう思うかね、ワトソンくん」


突然、の声が聞こえた。


「え?」


劇場へ通じる窓口に幼い男の子が立っていた。燕尾えんび服を着た利発そうな子だ。


「お姉ちゃんは知ってるかな。ホームズは倫敦ロンドンの産まれじゃ無いんだ。巴里パリで探偵業をやっていたフランソワ・ヴィドックがその正体なのさ」


「それはコナン・ドイルがモデルにした人物でしょう」


「へぇ、お姉ちゃん物知りなんだね」


「ところで君は誰なの?」


「ぼくはヴィドックだよ、フランソワ・ヴィドックさ」


「は?」


「ぼくを捕まえてごらんよ、ワトソンお姉ちゃん」


ヴィドックと名乗る燕尾服の少年は楽しげに駆け出した。よりにもよって劇場へ向かって。


稽古の時間だと聞いている、先輩たちの邪魔になってはまずい。それに支配人が伯爵を連れて舞台見学をすると言ってた。早く捕まえなきゃ。


「わたしの名前はワトソンじゃないわ、セリシアよ!」


少年は真っ直ぐ劇場へ駆けていく。意外と早い。


と、いうか本当に早い。


子供が走る速さじゃない。


まるで動物のような……そう、犬だ。あれは草原を疾走する牧羊犬だ。


「止まって!」


劇場へ通じる赤絨毯あかじゅうたん。不意に身を出した守衛のおじさんが目に入った。


「捕まえてくだ……」


おじさんは少年に突き飛ばされる。


「え、えぇぇっ!」


牧羊犬に体当たりされた狼のように「キャイン」とばかり声を上げた。


大人の男性を人形のように突き飛ばした少年は振り向きもせず、悪びれもせず、一向に走ることをやめない。


物凄い速さで、ついに劇場の大きな扉へ突進した。


少年の背丈より遥かに巨大で大造りでモダンなドアを、ぶち抜いたのだ。


バーンッ!


外開きのはずの、二重の重いドア全てが内開きに崩壊する。


少年の背中が劇場内へ消えると同時に悲鳴が上がった。




劇場へ足を踏み入れると、そこは血溜まりだった。


犬だと思った少年は猿のように飛び跳ねている。


燕尾服を着た猿は笑顔だった。声を出して笑っている。


劇場中央で先輩たちが泣き叫んでいた。そして支配人と伯爵だ。ふたりとも舞台中央で男同士抱き合って泣き声をあげていた。


「なんなのよ、これはッ!」


わたしは混乱していた。いったい何が起きているのか理解出来ず大きな声で怒鳴っていた。


「お姉ちゃんも遊ぼうよお」


ヴィドックくんは天真爛漫に跳ね回ると、舞台中央の支配人と貴族のもとに降り立つ。ヒッ、という支配人の声。


「丸々と肥えた人間だなあ、皮を剥いで剥製にしたらイケるかな」


ヴィドックくんは胸元から小型のナイフを取り出した。


「ダメッ!」


咄嗟に思い出す。舞台下に置かれた小道具箱にゴムボールがたくさん入っていることを。


「セリシアお姉ちゃんも、一緒に遊ぼうよお」


ヴィドックと名乗った少年は、わたしを挑発するかのようにナイフを高々とあげた。


反射的に、右手が小道具箱の中からゴムボールを掴んだ。


一瞬息が止まり、瞬間、思いっきり投げつける。


「うきゃっ、何、これなに」


少年は意表をつかれたのか、一旦動きをとめて床に転がるゴムボールを眺めながら、そしてゴムボールであることを確認してから笑った。


「お姉ちゃん、こんなものぶつけて何がしたいの?」


カッとして再びゴムボールを掴む。


バカにすんなあ!


わたしは次々と掴んでは投げ、掴んでは投げ。


でも、それを器用に避けながらヴィドックは「ケケケッ」と笑った。


もう、ダメだ。と最後の一個を投げつけたときだった!


ダーンッ!!!


凄まじい爆音が轟いた。


視線の端にメイド服のスカートが揺れた。そう、あのメイドさんの服だ。背が高くて銀色の短くカットした髪の毛が印象的な美女が立っていた。


真珠のように真っ白で艶やかな肌。切れ長のまぶたの奥に深くて蒼い碧眼が光っている。


「え、誰?」


横に並び立つは、まるで莫斯科モスクワの絵画モデルのような異国美女。


しかしその手には大柄で黒い金属の塊が握られていた。


「拳銃!」


銃口から硝煙があがっている。


「チッ、外したか」


ヴィドックを名乗る猿のような少年は「うきゃっ!」と威嚇とも怯えともとれる声をあげると二階客席まで飛び上がる。


「逃がすか!」


再び銃声。


火薬が破裂する爆発音が場内に響き渡る。


わたしは怖くて耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。


「おい、あの排煙口は何処へ繋がっている!」


メイド服の美女がわたしの肩を揺する。


しゃがんだまま二階客席の上の排煙口に目をやった。ヴィドックの後ろ足が消えていくところだった。


「排煙口は劇場裏のゴミ置き場に繋がっています。でも途中に換気用の大きな羽根車があって人間は通れません」


「あれが人間に見えるのか!」


メイド美女はそういうと劇場を飛び出す。


わたしも後を追おうとして……それからようやく思い出して振り返る。支配人と伯爵が気が抜けたようにしゃがみ込む横で、先輩たちが肩を抱き合い一点を見つめて号泣していた。


その視線の先には、猫になる事を夢見て稽古に励んでいた、あの後輩ちゃんがうつぶせで倒れている。


お腹から流れる真っ赤な液体が床を染めていた……動かない!


「いゃあああ!」

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