第7話


――「お前はあの日、誰かと喋っていたよな? 店には俺しか居なかったのに、話をしていたんだ? あの時は聞かなかったが、今ここまで言わせておいて、まさか気のせいだとは言わないよなぁ」

 

 俯くことは、出来ない。

 不承不承ふしょうぶしょうながら、千加良ちからの方を見るしかなかった。

 何故なら座る僕の膝に、包帯の巻かれた小さな手を置きこちらを見上げる女の子が、左眼に淡く映っているから。


「き、着物姿の……」

「ああ、続けて」

「着物姿の男性に……君ならあの茶箪笥を買うかと聞かれて」

「……聞かれて?」

「僕だったら違うのにする、と……」

「ふうん。なんで?」

「……あ、脚が。切られた……膝から下の脚が乗ってたのがんです」


 その一瞬に、膝から身を乗り出し目と鼻の先で、僕の顔をギョロりと覗き込むようにしていた女の子と眼が合う。逸らしたくも、間に合わなかった。

 視えていると、気付かれてしまった……。


「凄い汗だな」


 その声で、はっと我に返る。

 千加良ちからが、そう言うとソファに片手を着きながら、ゆっくりと身体を僕の方へと寄せた。間近に迫る軽く開いた唇から、濡れた舌が覗く。

 ぎっと鳴る、ソファの軋む音が聞こえた、と思う間もなく今度は別の美しい捕食者に捉えられた僕は、またしても一切の動きを封じられる。ソファへと体重を預け、獲物となった動けない僕へ向かって伸ばしたもう片方の千加良ちからの手の、長い指がそっと僕の顎に伝う汗の雫を掬い取ろうとするのをさせるがままに、目の前にある千加良ちからの伏せた長い睫毛をただ、見つめていることしか出来ないのだった。


「そんなに震えるな。汗が落ちる」


 言って、すっと視線を上げた千加良ちからの強い眼差しが、僕を呑み込んだその瞬間、千加良ちからの指先で掬い取った僕の汗は、まるで涙のようにぽつんと下に落ちる。


「あーあ、コレまた随分と。でも残念……揶揄からかうのもこれくらいにしておかないと、なつめチャンに怒られそうだ。アレ、は怖いからな」

「……っな、何でソコになつめが?」

「ありゃ重度のブラコンだろうが。いや……末期の、かな」


 気づいてんだろ? と、にやりと笑う千加良ちからは、やおら僕から離れソファから立ち上がりながら「外へ行って飯でも食おう。昼奢ってやる約束をしたしな」と言って僕の持っていたヘッドホンを取り上げると、ソファの上へと投げた。

 その言葉に、僕も慌てて立ち上がる。

 あんなものを聴いた後では、腹なんて少しも減ってはいなかった。しかし、どうにかして部屋を出ることだけを考えていた僕は、喜んで千加良ちからの提案に乗る。

 何よりこれ以上は、この部屋に居ることに耐えられそうになかったからだ。

 心の中で謝りながら、僕の脚に纏わりつく小さな手を無視して、先に歩き出した千加良ちからの後を急ぎ足で追いかける。


「ははッ。ホント、お前と居ると飽きないよ」


 僕の後ろに何もついて来ていないのを確認しながら「千加良ちからくんが愉しそうで何よりですよ」と雇い主の背中に向かって、深い溜息を吐くのだった。



 ……外へ出た途端、猛烈な眩しさと暑さに襲われ僕は思わず腕で庇を作る。

 横を見れば、暑さなど少しも感じていないような涼しげな千加良ちからが、腹減っなと呟いていた。

 こういう時にはいつも、千加良ちからこそ美しいバケモノだと思う。

 背が高く、均整の取れたすらりとした細い肢体に隠れたしなやかな筋肉、透き通るような陶器に似た肌の怜悧な顔に背筋も凍るほど冷酷な目元、仰月型の唇から放たれる涼やかな低い声は、粗暴な言葉遣いも皮肉も魅力的に映った。同時に獲物を狙い定める人間が持つ特有の色気を撒き散らす。

 そんな千加良ちからだからこそ、ちらとその流し目を送られただけで腰が砕けたようになる人を、男でも女でも、幾人も見てきた。

 それ故にだろうか、こうして千加良ちからと並んで歩く度、歪なのは、違う景色を見せる左眼を持つが故の自分だけじゃない、と思わせるのは。何故なら千加良ちからのその圧倒されるほどの異彩を放つ奇麗さは、此岸しがんである此方側こちらがわでは、また別の意味で異質で歪だからだ。


「いつもの蕎麦屋で、良いよな」


 ぶらぶらと歩きながら、千加良ちからは勝手に決めて、さっさと店に入る。いらっしゃいませ、と落ち着いた声が聞こえる頃にはもう、席に座っていた。


「で、何が視えたんだ」


 それまで黙って向かい合っていた癖に、頼んだ物が揃って箸を進めて暫くした後、千加良ちからは天丼を頬張りながら、上目遣いで僕を見る。ざる蕎麦を啜る僕は、思わず咽せてしまった。


「……千加良ちからくん。ソレ、今聞きますか?」

「じゃあ、いつ聞くんだよ」

「食べる前でなければ……食べ終わった後

、とか?」

「……はッ。そこに何の違いがあるのか俺には、さっぱり分からないな」

「食べている時ぐらいは美味しく食べたい、と言いますか」

「馬鹿ばかしい。そんなもん食ってて何言うかと思えば、前と後とで味なんて変わるかよ」


 そんなもん、と言う時に僕のざる蕎麦を顎で指した千加良ちからに少しむっとする。元はと言えば、あの様なカセットテープを聴かせられた所為で食欲が吹き飛んだというのに。


「……女の子ですよ。凄く小さくて。手の欠けた指には汚れた包帯が巻かれた、ね」

「それから?」


 千加良ちからは漬物の胡瓜を、音を立てて美味そうに歯で噛み砕きながら先を促す。口元から夏の匂いが香った。


「髪は、悪戯にハサミで切ったようにざんばらで、耳がある所には大きな絆創膏が貼ってありました。目はギョロリとして……」


 言いながら僕は、箸を下ろす。


「首にも包帯が巻かれています」

「ふうん」


 話を聞きながら、さっさと食べ終えた千加良ちからは、熱いお茶を貰う為に片手を上げて店の者を呼ぶ。


「蕎麦、食わないのか?」

「……ていうか、良く食べられますね」


 運ばれて来たお茶の入った湯呑みに口を付けながら千加良ちからは、くぐもった笑い声を立てた。


「別に、そんなんで食えないとか、史堂しどう。お前はそういうところだよ」

「何ですか、それ。そういうところって。なつめにも言われましたよ」

「だから、そういうところだな」


 人の気にもなって欲しい、と思いながら僕は、千加良ちからを恨めしく見る。


「……よし、決めた。あのカセットテープを持っていた人物の家へ行ってみるか。何しろそんな女の子が視えたんだから、お前も気になるだろ?」

「……や、勘弁してくださいってのが正直なところなんですけど、千加良ちからくん聞いてくれませんよね?」

「分かっていて聞くとか、お前はホント可愛い奴だよな」


 機嫌良く笑う千加良ちからを前に、明日まずは古物台帳に記された甥の住む所へ行くという約束を、意に反しながらも僕は渋々交わすしかないのであった。

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