第8話


 「ただいま」


 誰もいないと分かっていて呟いた言葉は、玄関の三和土に落ちて砕ける。しんとした家に家族という過去の亡霊の、懐かしい足音が聞こえた気がした。

 靴を脱ぎ家の中へ入る。籠った蒸し熱く重い空気を身体全体で押し除けるようにして歩く汗をかいた足の裏が、廊下の床に触れる度に脚の付け根までぞわりと仄暗いその冷たさが這い上がるようだった。静かな家に、みしみしと軋む音が耳に痛い。

 一人になってみれば『鬼灯ほおずき』での出来事が、遥か遠くに感じられる。

 ことは、千加良ちからにはいつか知られると覚悟していた。

 いや、そうではない。

 自ら明かす勇気は無い癖に、其れを知って欲しいと、何処かで気づいてくれないかと少なからず思ってさえいた。知られてしまった今、この日が来ることを渇望していたのだという滑稽な程の安堵感に包まれているという事実。僕を奇異な眼で見ることをせず、狂気に蝕まれる恐ろしさに縮こまる自分を、笑い飛ばしてくれる誰かを求めていた。

 

 今だってほら、すぐ背後。


 僕に触れるか触れないかの首筋の辺りに、気配を感じる。左眼の端に映るがじっと此方こちらを見ている。

 気づいていない振りをして自室の扉を開けて机に真っ直ぐ向かう僕が、置かれているパソコンを立ち上げる頃に背後にいたは、暫くウロウロと部屋の中を彷徨って不意に消えた。


 だが実際には、僕の恐怖を分かち合える誰かなんてものは存在しない。

 何故ならこれは僕に与えられた罰だから。


 この家は、両親が死んでからは広いようで時に酷く狭く感じる。二階にあったなつめと隣り合った自室を、一階に移したことがその全ての答えのような気がした。

 時が経つごとなつめの成熟してゆく女の濃い匂いが家中に充満する中で、僕はこの柔らかな檻にいつまで耐えることが出来るのだろう。

 

 其れはいつも雪のちらつく寒い日だ。


 僕の五歳の誕生日を迎えたあの日になつめが現れた時、彼女は僕のための特別な贈り物だと思った。そしてなつめが可愛らしく美しく成長するにつれ、その思いは日増しに強くなってゆく。

 なつめは僕のものだ。

 僕の為に寄越された特別な贈り物。

 壊してしまわないように時折そっと眺めては、その思いに蓋をして大切に閉じ込めておくことを繰り返す。

 それだけの筈だった。

 だが僕の中の忌むべく穢れた欲望が抑えきれずに、なつめ見惚みとれてしまうのを、その眼差しに熱が籠るのを、触れる指先から欲情が滲むようになるのを共に生活していた両親が気づかない筈はないのだ。

 其れを知られてしまった僕が、したこと。

 あの日もまた、冬らしい濃い鉛色の空に雪がちらついていた。


 ……そう。


 この左眼は、僕が咎を負う者だという証左だ。また、なつめを独り占めしたいと願ったその代償でもあるに違いなかった。

 だから実際には誰であれ、この僕の咎を分かち合えるなんて筈はないのだ。

 つまり僕を蝕む狂気とはなつめだ。

 言い換えれば千加良ちからに知って欲しかったのは、知られてしまいたかったのは僕のなつめに対するくらく、どろどろと蠢く欲情に他ならない。


 つまり両親という檻が死んだ今、この左眼が僕の欲望を閉じ込める檻に代わっただけなのである。


「ただいまー。……お兄ちゃん? 帰ってるの?」


 帰宅を知らせるなつめの声が、僕をくらい淵から呼び戻す。

 部屋のドアを開け顔を覗かせたなつめに、僕は椅子に座りあたかもこれまで小説を書いていたように振り返りながら何食わぬ顔で微笑むのだ。


「おかえり、早かったね」

「そう言うお兄ちゃんこそ、随分早いんじゃない? てっきり夜まで帰らないかと思ってた。千加良ちからさんの用事は何だったの?」

「ん? 予想通り、暇潰しに付き合わされただけだよ」

「……ふーん?」


 訝しげに首を傾げるなつめの肌が、黄昏はじめた部屋の暗がりに白く映える。僕を見るなつめの黒く濡れた瞳が、長く出口の見えない夜の始まりを告げていた。


「今日の夕飯は僕が作るよ。なつめは夏休みの課題でも塾の宿題でもしてて。出来たら呼ぶから」

「えー? なんだか怪しいなぁ。お兄ちゃん、お店のお手伝いじゃなかったら千加良ちからさんと何をしてたの? それとも何か、あった……?」

「何か……って。千加良ちからくんは良いも悪いも、いつもの千加良ちからくんだったよ」


 苦笑いしながら僕は、なつめから目を逸らすようにして身体ごと机の上のパソコンに向き直る。


「……嘘」


 突として生温かい息と微かに掠れたような声が、僕の耳朶を打つ。

 なつめの髪が、僕の左頬に触れる。

 音もなく近寄って来たなつめの冷たいほどに整った顔が、すぐ間近にあった。僕が間違って少しでも動けば頬になつめの唇が触れるだろう。そうしたらたちまち理性などは吹き飛び、その血を舐めたように赤い唇を衝動的に貪るように奪ってしまいそうだった。

 震える手を誤魔化しながら僕は平静を装うと、パソコンの画面から目を離さず答える。


「嘘なんて吐いてないよ。なつめだって千加良ちからくんが、どんな人間か知っているだろ?」

「そうね……知ってる。だから……」


 心配なのに、とその後続けて囁くような言葉が聞こえたような気がしたが、どう云う意味か尋ねようと僕が身体を動かせるようになった頃にはもう、なつめは軽やかに階段を上る音を響かせていた。



 

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