第6話



 『残念ながら視力は、これ以上回復する見込みは有りません。失明を免れただけ、運が良かったんですよ』


 

 事故後の後遺症フォローアップを終え、自宅へと帰る道すがら、僕は先ほどまで向かい合っていた眼科のドクターの血色の悪い真面目腐った顔を思い出していた。

 僕の左眼を覗き込みながら言ったドクターのその言葉は、僕が求めていた答えとは大きく逸れたものだったのだから、こうして歩いている今もなお、何の解決にも至ってはいない。

 聞き方が、曖昧すぎたことは否めない。


 では、どうやって問えば良かったのだろう。左右の眼に映る物が違う、などと言ったところで、あのように視力の度数による違いだと言われるだけの、望むべく答えなど返ってくることなどないことくらい、容易く想像出来た筈だ。そもそも上手く説明出来るとは、到底思えないその『見え方』は、それ自体がどうやっても僕の異常性ばかりを際立たせるだけでしかないように思えて、言葉には出来ないのだった。そのような状況にあって、誰に何を聞くというのか。

 また、どのような答えが返ってくれば僕の気が済むかと問われたら、それも分からない。右眼と左眼では、何も異常な所はないと言われたら、ますます自身の頭の中を疑うことになるだけだと、分かっているからである。

 死に損ないの僕は片側だけ、狂気の世界に生きているのではないか?

 或いは、やはり僕自身が狂ってしまったというのであれば、其れこそすんなりと納得がゆくのかもしれない。


 何故人は皆、目に映る景色が他人と同じだと当たり前に思っているのだろう。


 視力を失った、殆ど見えない筈の左眼にだけ映る景色は、その裸眼だけでは却って鮮明に奇妙な画像を結ぶ。それは刺激が強すぎて、コンタクトレンズを入れることで少し曖昧になるのだった。

 そうかと言って好奇心に負け、左眼だけで景色を見ようとすることは、決してしてはいけないのだと眼帯が取れてからのこの短い日々で知る。何故なら例えが自らの狂気が創り出すモノだとしても、奇妙な事には時に確たる意思を持ち、僕が気づいたと知ればどこまでも付き纏って来るからだ。

 とすればやはり、見えているものを実際のものとし、想像上の僕の狂気では無いとしよう。

 右眼だけに見える通常の風景を此岸しがん――此方こちら側とするならば、左眼が見ているのは彼岸ひがんであるのかもしれない。その彼岸にいる筈のモノ達とは、つまりだ。その禍々しいモノ達が、常に誰かに見つけて欲しいと彷徨っている事を左眼に映る景色を通して知ったのだった。

 また、に視えていることを決して悟られてはいけないことは、短い間に嫌というほど怖い思いをして、身を持って学んだのだから、つまり僕は狂気の狭間にあるが、まだ踏み留まっているというわけだ。


 そんなことを考えながら歩いていた所為せいで、自分の今いる場所が分からなくなり慌てて辺りを見渡した。

 古道具屋『鬼灯ほおずき』、その奇妙な姿形をした建物が目に入り、間違いなく自宅の方へ向かっていることに、安堵する。


 このような建物を擬洋風建築というと教えてくれたのは、父親だった。

 本来、擬洋風建築とは幕末から明治の初期において西洋建築を真似て建てられたものだ。瓦屋根に上げ下げ窓、壁は板壁と一部には漆喰が塗られたりと、様々な意匠を凝らした素晴らしい独特の美しさを持つ。

 だか、目の前にあるその建物は、それらと同じようで何かが違う。

 朱色に塗られた入り口の扉の上にあるバルコニーの彫刻には雲と麒麟が使われ、そのまま見上げた先にある塔の上には、何故か青銅で出来た蝙蝠に似た翼を広げた悪魔が、呑み込む途中と見られる人間の下半身を口から覗かせたまま、頬杖を突いて下を眺めているといった具合に、奇抜さが目に着いた。

 擬洋風建築を西洋と東洋の調和を取る美しい建築物とするならば、目の前の古道具屋『鬼灯ほおずき』は、その調和を絶妙な匙加減で乱し、見る者の神経を逆撫でするのである。

 

 その時、左眼に何かが眩しく光った。


 何だろうとその方へ眼を遣れば、着物に羽織りを重ねた長身の男性が『鬼灯ほおずき』の開け放された扉の中へ、入ってゆくのが見える。その羽織紐にある装飾品が、光を反射したのだろうか。

 気づけば僕は、その男性の後を追うようにふらふらと店の中へと足を踏み入れていたのだった。


 古道具屋に入って直ぐに、その独特な匂いが鼻を突く。飴色になった古い箪笥や棚から滲み出ていると思われる、甘い埃のような絵の具のような黴の匂いと混じったそれは、僕の胸の奥の郷愁をガリガリと引っ掻いて腹の底を掻き回す。

 暗い店の中に目が慣れる頃、地面に置かれている引戸棚のひとつ、細く開いたその戸の隙間から、長く黒い髪が一房覗いているのが見えた。また別の茶箪笥の上には、切断された生白い肉付きの良い膝から下の脚が、まるで放り投げたかのように無頓着な様子で転がっている。

 ……しかし、それが映るのは左眼だけ。

 僕の右眼には、何の変わった様子もない古道具が、所狭しと並んでいるに過ぎない。

 

「この茶箪笥を買おうか迷っているんだが、君ならどうする?」


 突然、声を掛けられ跳び上がるほど驚いた。先ほどの着物に羽織りを重ねた男性が、気配もなく僕の左隣に立っていたからである。


「……え? この茶箪笥ですか?」


 そうだ、と言うように男性がひとつ頷くのを目の端で捉える。

 彼の視線の先にあるのは、左眼にしか映らない膝から下の部分の脚が乗った、例の茶箪笥だった。


「僕だったら……あっちの茶箪笥にします」


 それから少し離れた所にあった似たような物を、指差して言うと男性は笑みを含んだ声で「そうか」とだけ答える。

 どうしてそんなことを聞いたのか、その理由を問いかけようと隣を見上げたが、既にその姿は無かった。

 声を交わしたあの人は、彼岸の人であったと気づいたそのすぐ後、奥から千加良ちからが、背筋をぞくりとさせるほどの異彩を放ちながら現れたのである。



 ――これがあの日、古道具屋『鬼灯ほおづき』に足を踏み入れた僕と、その店主である鬼無きなし 千加良ちからの出会いだった。

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