第4話



 ――ぼんっと小さな破裂音に似た空気が跳ねたような音の後に続けて、ジーッと耳の内側を引っ掻くような音が聴こえて来た。

 そのまま暫く後、ガザガサと布が擦れ合う音がしたと思ったらテープが回るだけのじりじりとした静寂。

 

 そして、は突然始まる。



『おかえりなさい。ごはんが、できていますよ。……はい、どうぞ。ちゃんと、おいすに、すわってください。……だめですよ。すき、きらい、をしてはいけません。なんでも、きちんとたべるんですよ』

 

 舌っ足らずな女の子の高い声が、聴こえてきた。しかしその音声は、まるで薄手のポリエチレン製の袋越しに喋っているように質の悪いものだ。

 聴き取りづらいその音声に耳をそばだてていると、いきなり脳に刺さるような、ごがっ、がさごそっ、とやたらと低い大きな音がした。

 反射的に思わず耳を遠ざけ顔を顰める。

 この音は、おそらく録音部分に何かが触れた音だ。録音している人物の何かが……指か、服か、機械に触れたのだろうか。


『おちゃわんは、これね? ここに、おいておきますね。すぷーん、はだめよ。おはしをつかって。……。あ……ゆびが、ないのね。きたないから、はさみで、ちょっきんしたの? ふーん。さあ、どうぞめしあがれ。ふぉーくでたべるの? ……しかたないわね、こぼさないのよ。きれいにたべるなら、とくべつにゆるします』


 相手が居るようだがしかし、いくら耳を澄ませてみても女の子の喋っている声しか聴こえてこない。

 ひょっとしたら相手は、人形なのだろうかと想像してみる。目の前に座わる、指をハサミで切られた人形。


『……ちゃんと、のこさずたべるんですよ。きちんとたべなさい。ほら……こぼしたらだめですよ。きちんとたべるの……そんなふうだと、おぎょうぎがわるくて、わらわれちゃうんだから』


 そう……おままごと。

 これはどうやら女の子が人形を相手に、ごっこ遊びをしているそれを、録音したものを聴かされているに違いなかった。

 


『……おようふく、よごれてる。……そう……しかたないから、たべさせてあげるね。おおきく、くちをあけてね……ほら、あーん』


 ……本当に?


 そのとき、奥の方で断続してずっと聴こえていたカタカタという奇妙な音がいきなり止んだ所為で、耳障りなジィーというテープの回る音が前よりも大きく聴こえようになる。


『どうして、くちをちゃんとあけてくれないの。……こぼした。おようふく、よごしちゃった。どうしよう。よごしたら、だめなのに……どうしようどうしようどうしよう。おこられちゃう。よごしたら、だめなの……いうことがきけない、わるいこは……わるいこは、わかっているの……おしおきがひつようです……おしおき、おしおきが』


 女の子の声に、抑揚が無くなり声は平坦に、そしてぐっと低くなった。


『そうだ……きたないところは、はさみで、ちょっきんして、きれいに、しましょうね』


 ……。

 ……何の、音だろうか。

 ハサミ……?


 テープの向こう側の女の子の、その声から、音から目を逸らすように、ちらりとすぐ近くにある千加良ちからの口元に目を遣れば、薄らと唇に笑みを浮かべていた。そのまま見ていると濡れた舌が、ぬると覗き笑みで小さく反り返ったその上唇を、つっと舐める。少し前に火傷した自身の上唇が何故か、ひりと痛んだ。


 じょ、ぱちん……じょ、ぱちん……じょ、ぱっちん。

 ハサミの音と、平坦な女の子の声。


『きたないところは、ちょっきんします。これはきれい。ここはきたないからちょっきん。ここもきたないからちょっきんするの。きれい、きれいきたないきたないきたないきたないきれいきたないきれいきたないきたな』


 突然ぶつッと、大きな音がした。録音を中止したようである。それによって再びテープだけが回り続ける、ジーッと鼓膜を震わせる音だけになった。


 ……これで、終わり?


 じりじりとテープだけが回り続けている。

 安堵と不安、恐怖に付帯する好奇心からもたらされる少しの……期待。

 その空回りするテープの音に引き込まれるように思わず耳を澄ませていると再び、ぶつッとスイッチを入れる大きな音。


 カタ、カタカタ、カタ、カタ、カタカタ、カタ、カタ、カタ、カタ、カタカタカタカタカ……。


 あの、音だった。

 それともう一つ微かな……何の音だろう?

 それは一瞬で、聴き取れずに消えた。

 今はもう、声は、音は聴こえない。

 只ただジーッという鼓膜を震わせるテープの音がしてまた、ぶつッ、という音と共に、唐突にそれは終わった。

 ぎこちなく強張る身体は、力が入っていたせいである。千加良ちからが、僕の手からヘッドホンを取り上げたことに気づいていたが、動くことが出来ずに、その場に立ち尽くしていた。


 ……今のは、何だったんだ?


 停止ボタンを押し、カセットテープを取り出してケースに仕舞う、その千加良ちからの滑らかな一連の動作を、ぼんやりと眺めていると再び、別のカセットテープを段ボールから取り出しているのが見えた。


「……酷い顔をしてるな」

「いったい僕は、何を聴かされたんですか?」


 ソファに座る僕の目の前に立ち、こちらを見下ろしている千加良ちからの身体の影が、暗く覆い被さる。


「お前は、何だと思う?」

「アレは……あれは……分からない。分かりません。分かりたくない」

「アレ、とが録音されたテープを、俺は三本聴いた。お前と聴いたのが四本目、これから聴くのが五本目だ」

「同じ……同じ女の子なんですか? が、ずっとごっこ遊びを……」

「それを訊いてくるとは勘が良いと言えばいいのか、何なのか。……なぁ、史堂しどう?」

 

 口調に笑みを含んでいるが、その顔は陰になっているため分からない。

 手に持つカセットテープを、これ見よがしにカタカタと振ってみせた。


「取り敢えず、もう一本だ。聴いたらお前も分かるだろうよ。話は、それからだ」

 

 そう言ってケースから取り出したカセットテープを、慣れた手つきで機械にセットするとヘッドホンを持ち、僕の隣へゆっくりと腰を下ろす。ソファが柔く沈むのが分かった。僕の左腕に千加良ちからの腕が触れる。

 突然何を思ったか、いきなり下から覗き込むように顔を近づけて、お互いの息が触れそうな程の近さで僕の顔を見た千加良ちからは、冷酷な瞳をふっと一瞬だけ和らげた後、触れていた腕を身体ごと、つと離してから横並びのままヘッドホンを投げて寄越した。

 その間、知らず息を止めていた僕は詰めていたものをそっと吐き出しながら、手に持つヘッドホンの外側に耳に当てる。

 それを見た千加良ちからは何も言わずに先ほどと同じように、もう片側に耳を寄せると彼のその長い指は、再生のボタンを押すのだった。

 

 音が、流れる。

 それ、が再び始まる。


 ――ぼんっと小さな破裂音に似た空気が跳ねたような音の後に続き、ジーッと耳を引っ掻くような音の後に聴こえて来たのは。


『きんきゅうしゃりょうが、とおります。きんきゅうしゃりょうがとおります。みちを、あけてください。みちをあけてーくだ、さーい』


 ……違う。

 男の子と思わしき、声だった。











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