別れ


昔、都の一隅にまだ若い夫婦があった。十年前、二人は飢饉で滅亡しかけた故郷の村から都へ逃れ、辿り着いた当座は乞食同然だったが、夫婦して人に使われなどして何とか落ち着くことが出来たのである。

夫はあちこちの雑用をこなして稼ぎ、妻は家事の合間に、気が向くと村の手仕事だった笊や籠を編んだ。夫は風采が良く当たりも柔らかいので、雇い主の主婦などに気に入られ、時には寡婦に男女の関係を迫られなどして、幾日も家に帰らなかった。戻った時の妻の追及には、生計のため已むを得ずしているのだから勘弁してくれと哀願するのであった。

ある冬のさなか、妻は悪性の風邪であっけなく死んでしまった。隣の主婦はそれとなく気にしていたが、咳も聞こえずあまりに静かなので覗いてみると、何だか息もしていないようで、慌てて大家を呼んで死亡は確認したが、夫の行方が知れない。仕方なくひとまず帰りを待つことになった。寒い頃なので三日や四日は大丈夫だろうというのだ。大家は諸方へ人をやって捜したが、五日目にしてなお消息は不明であった。

その夜の丑三つに近い頃、隣の主婦が奇妙な音に気付いた。金の鉢を擦るような響きが唸るように聞こえてくるのだ。夫と二人で恐る恐る覗いてみると、安置した遺骸の上に青白く光るものがあり、音もその辺りから発しているらしい。肝を潰した二人は這うようにしてそこを離れたのである。

隣家夫婦の目撃談を聞き、大家と近所の男らが遺骸を調べると、髪は艶があって美しいし顔色も殆んどあせておらない。まるで今にも生き返りそうに見えるので、皆背筋が寒くなって冷や汗を掻いたほどであった。

尻込みする男らを大家が説得し、事の真偽を確かめることになった。

その夜は二日か三日の月が西に掛かり、無風だが戸外はさすがに冷えた。じきに丑三つと思われる頃、中を覗いていた男らは遺骸の頭辺りがぼんやりと明るんでくるのを見た。誰かが「ひっ」と小さいが鋭い悲鳴を上げる。続いて唸るような音が聞こえてくると、四人のうちの二人は逃げ出し、大家と一人は腰を抜かし尻餅を突いたが、なんとか這うようにしてそこを離れたのである。

大家が事態の始末を頼んだ陰陽師は、遺骸の脇に座って何やら呟いていたが、すっと立ち上がると外へ出てきた。

「夫にしかこの霊は鎮められぬ。直ちに呼び戻そう」

陰陽師はそう言うと、連れていた七つほどの童に向って頷いた。すると式神である童は風のように姿を消した。

夕方になって帰ってきた夫は、大家から事態を聞くと震え上がった。

「このままではお前もただでは済まぬ。恐ろしいだろうが、とにかく夜明けまで話を聞いてやることだ。ただしどのような約束もしてはならぬ。分かったな」と陰陽師は言った。

逃げ出してみても助かるまい、と夫は覚悟を決めて遺骸の枕辺に座っていた。憎からず思ってきた妻だから可哀そうなのだが、話の後では気味の悪い物体にも思える。

大家が入れてくれた火桶を前に、夫は蠟燭の炎を眺めながら居眠り出したが、ふと気づくと目前に妻の顔があった。失神しそうな夫を妻はそうさせなかった。

「やいっ、オレが病で苦しんでるのに、よくも女といちゃついていたな・・・」

それは故郷の村にいた頃の言葉であった。夫は呆然としながら、妻が生き返ったと思った。

「お前死んだのじゃなかったか、ああ良かった」

だがその様子は、夫が仰臥した遺骸に向かって独り言を言っている、と傍目には見えただろう。

「何言ってんだ。あんたにひとこと言わねばあっちさ行けねえ心持だから、こうして待っていたんだぞ」

「そ、そうか。おいらちっとも知らなかったのだ。どうか赦してくれ」と夫は縮み上がって頭を床に擦り付けた。

「そうして謝ればいつも許したものね。して此度はあたしと一緒に行くつもりなんだね?」

妻の口調が柔らかくなったが、夫は背中に冷水を浴びたようにぞっとした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それは、それだけは勘弁してくれないか・・・」

「まあいいわ。あんたの言い分を聞いてからにしてあげる」

 妻がちょっと微笑んだように夫は思った。

「何度も言うが本当に知らなかったのだ。手伝いの礼を厚く出すって絹もの屋の刀自に言われてよ、つい長逗留ってことに・・」

「あのひとはまだ四十過ぎ、立派な色女じゃないのさ」

「お前に比べればもう婆さんさ。向こうは知らず、おいらにゃあ渡世の義理みたいなもので本気じゃねえんだから」

「あたしだって、たまには寝物語もしたいじゃないか。それをあんたは知らぬ顔で、行ったきりのなしのつぶてなんだから・・」

「そいつは悪かった。お前とは死ぬまで一緒と決めていたからさ、分かってくれているとばかり・・・」

夫は妻の顔が明るんだ気がした。

「そう言ってもらうと嬉しいわ。じゃあ一緒に行ってくれるのね?」

「そ、そうじゃねえ。悪いがもう少し生きていてえんだ。お前がこんな若さで逝っちまうなんてひでえ話だ。尋常じゃあねえ。きっと前世の因縁に違いねえ。もしお前がおいらを恨んでないならどうか助けてくれ」

 夫は独り芝居さながらにそう哀願した。

「恨んでやしないけど、温めて欲しい寒い夜にもあんたはいないんだもの、それだって悔しいじゃないのさ」

夫は妻の頬に両手で触れ、その冷たさに思わず手を離した。

「わっ、こりぁあ本物だ」

「当り前さ。にわかにこんなことになって、とても納得がいかないんだもの。それで待っていたのよ」

「済まなかった。今さらしようがないということで、何とか成仏してくれまいか、たのむ」

「あたしはね、あんたに覚えていてもらえるような女だったかしら、と考えたらどうにもならなくってさ」

「おいらが忘れる筈があるめえ。出てきた頃の貧乏暮らしは、摘んだ野草の羹の味で覚えているし、初めて鮓鮎を食べた時は、おいらの冗談にお前は血相を変えたじゃないか」

「これは酔っぱらいの反吐で作るらしい、なんて言うんだもの」

 家の外から様子を伺う男たちは、夫が何やら独りで喋っているので、気味が悪くなって互いの顔を見合わせるばかりだった。

「あれは坊主の引導には思えねえな?」と一人が小声で言うと、

「宥めてやるしかねえ、と陰陽師は言ってたが・・・」そう誰かが答えた。

 夫はそれからも昔話を妻と語り合っていたが、外の連中にはやはり独り言にしか思えなかった。

 夜明けが近づいたが、夫はまだ話し足りないような気がしていた。

「お前はおいらにゃ過ぎた女だったとつくづく思うよ」

「ならあたしと一緒に行って頂戴な」

「いやそればかりは。お前にゃ悪いが、もう少しこっちにいてえんだ。どうか察してくれ」

「分かったわ。それならあたしが戸口を出るのを見送ってくれるわね?」

 夫がそれくらいならと承知すると、妻は静かに立ち上がり彼の手を取った。瞬間、夫は全身が凍りつき、意識だけが上へ抜け出るような気がした。その刹那、鶏鳴が戸外の寒気を震わせて響き渡った。

失神から覚めた夫の話を聞くと、鶏の一声が間一髪、命を繋ぎ留めたのだと陰陽師は言った。男たちが恐る恐る遺骸を確かめると、顔は土気色に黒ずんで死者のそれに変わっていた。

夫と人々は死者を懇ろに弔って、その後は何事もなく過ぎたということである。

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宇宮出むかし物語 宇宮出 寛 @Kan-Umiyade

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