epilogue

epilogue

 白いピアノルームから、川のせせらぎのような音色が優雅ゆうがに流れている。ところどころ、不揃ふぞろいで未熟なピアノの音も混ざって聴こえている。


「よし、今日はここまで。よく頑張ったね」

「直江先生、ありがとうございました」


 向日葵のような笑顔を向けるのは、小学校低学年の男の子。僕のピアノレッスンを受けている生徒だ。と言っても、生徒は数人しかいないのだけど。

 母親が迎えに来て、男の子は満面の笑みを浮かべて帰って行く。

 そんな生徒たちの横顔を見ながら、心が満たされたように目尻が下がる。自分にもあんな頃があったんだろうな、と。

 彼らと入れ替わるように、開いたままのドアがコンと鳴らされた。


「そーよぎくん! お疲れさま」


 晴天のような明るい声をした菫さんが入って来た。右手には小洒落た紙袋を下げている。


「ケーキ、一緒に食べない?」

「チョコレート?」

「もちろん、チョコレートもあるよ」


 リビングのダイニングテーブルには、彼女が持って来たケーキが七つ並べられた。どれも違う種類で、丁寧に皿へと乗せられている。


「菫さん、毎回言うけど買いすぎだよ。これ、明らかに二人分じゃないよね?」

「これがストレスのけ口なんだから、仕方ないでしょ。残りは、お母さんに食べてもらって? 甘いの好きでしょ」

「まあ、いつも喜んではいるけど」

「ほら、解決!」


 くしゃっと笑う姿は、昔から変わらない。

 高校三年の時、精神的に参っていた僕を支えてくれたのが菫さんだった。

 しばらく食事が喉を通らなくなって、急激に体重が落ちた時期があった。今思えば、受験前で過度なストレスが溜まっていたのだろう。

 ピアノの道へ進むことを押してくれたり、親身に相談に乗ってくれたことで、ぐっと距離が縮まった気がする。


 土曜日は、五月雨さみだれの時期にもかかわらず澄んだ空が広がっていて、結婚式日和となった。

 女性にとって、一生に一度の晴れ舞台。緊張した面持ちで、僕は式場に足を踏み入れる。

 青空に映える白いタキシード。隣に並ぶウェディングドレス姿の菫さんは、とても幸せそうに笑っている。

 その表情を参列者の場から見て、僕も同じ気持ちになった。新郎とは僕も顔見知りで、よく喧嘩をするようだけどお似合いだ。


 ケーキ入刀が終わり、ガーデンテラスに白いピアノが運ばれて来た。参列者が注目する中、汗ばむ手をスーツの横で拭いてピアノのスツールに座る。

 小さく息を吸って、鍵盤の上に指を置く。

 初めは弱々しく生まれたての赤子のように、段々と滑らかな音色は大きくなって星屑が散らばるようなきらびやかな演奏になる。

 優しさの中に、少女のような可愛らしさを含ませた彼女に相応しいメロディだ。

 最後の音が鳴り終わると、周りからは喝采かっさいの拍手が湧き上がる。

 心が満たされたように微笑み合う二人の表情を見て、胸を撫で下ろす。


 晴れやかな結婚式は無事終了し、僕は披露宴会場を出た。

 前から歩いて来た女性とすれ違った瞬間、ふわりと花の香りがした。落ち着く可憐な漂い。遠い昔を思い出させる優しい空気。

 高校生の頃、必死に誰かを探していた自分が蘇る。大切な何かを失ったような、心にぽっかりと穴が空いていた感覚。

 胸に手を当てながら、ふっと笑みがこぼれる。あの頃の僕は、たしかに青春と呼べる日々を過ごしていた。

 時を進めるように、止めていた足が会場の外へと向かっていく。



 晴れた空の日。本屋の前を歩いていて、何かに惹きつけられるようにある本を手にした。

 淡い紫とブルーの表紙で、『シンクロニシティ』と題された本。どこかで読んだことがある気がして、なぜか懐かしさが込み上げてくる。

 まだ発売されたばかりの本を昔に読んでいるはずがないと思いながらも、気になった僕はそれを購入して帰った。


 帰宅してすぐ、クローゼットの奥を漁る。使わなくなった手帳や賞状の下から、小さな茶封筒が出てきた。

 よく覚えていないけど、高校生の時に書いていた僕の日記。それから、もう一冊。

 誰が書いたものか分からないけど、捨てられずに保管していたものだ。

 自分の日記を開き、流すように文字を追う。


「……やっぱり、あった」


 今から八年も前に、僕はシンクロニシティを読んでいた。

 そのときスマホが震えて、電話を受けた。向こう側から騒がしい音が聞こえて、さらに苗木の地鳴りのような声が上乗せする。


「おーい、直江! 聞こえるかー? おーい!」

「聞こえてるから、もうちょっとボリュームさげて。うるさいよ」

「悪りぃ悪りぃ。すげぇタイミングで飛行機飛んでってさ。今度いつ暇? 直接話したいこと出来たから、飲みに行こうぜ」

「そうだなぁ。じゃあ……」


 苗木とは、今も連絡を取り合っている。文字を打つのが面倒だと言って、どうでもいいことでも電話をかけてくるから勘弁してほしい。

 この間は、深夜にも関わらず一時間以上も拘束された。おかげで、翌朝は腹筋が筋肉痛になってしまった。


 電話を終えて、二冊の日記を机の本棚へと入れる。背表紙をなぞりながら、ふと考える。

 いつも苗木と言い合いをして、夜の教室へ忍び込んで、僕のそばで花笑んでくれた。


 ーー顔の見えないあの子は、誰だった?



 翌週の日曜日は、心を現すような薄曇りの空になった。

 何年か振りに父と食事をすることとなり、言われた通りスーツを着て料亭を訪れた。

 門をくぐり石畳を進むと、滝が流れて錦鯉が優雅に泳ぐ様子が見える。敷地に一歩踏み入れただけでまるで別世界のような場所だ。

 庭園が見える奥座敷に通され、父の隣に腰を下ろす。この景色を見たことがあるような気がするのは、気のせいなのか。


「珍しいですね。父さんが、僕と食事をしたいだなんて」

「たまにはいいだろう。学生の頃はいろいろあったが、もうお前も立派な大人だ。歯科医師としては、まだこれからだがな」


 歯科医師として働く傍ら、休日の数時間だけピアノ教室を開いている。

 将来のことで、家族とギクシャクした時期もあったけど、自分の決めた道に後悔はしていない。


「ところで……」

『ところで、この席は誰か来るの?』


 脳裏で再生される言葉は、以前にも言ったことがあるように思う。

 目の前に用意されている懐石料理の前に、誰かがいる映像が浮かぶけど、ノイズがチラついて顔は見えない。


 ちょうどその時、部屋のふすまが開いて見知らぬ男性が入って来た。品の良い身なりをした老人と、後ろから控えめに歩いてくる着物姿の女性。

 淡い藤色が白い肌を強調させて、儚げに映る。なぜか、初めて会う気がしなかった。


「老舗旅館桜花蘭おうからんの大旦那、綺原宗寿朗そうじゅろうさんとお孫さんだ。彼とは歯科医師会の会長繋がりで知り合ってね。お孫さんを紹介したいと言われて、食事の席を設けたんだ」


 知らされていなかったのは僕だけではなさそうで、目の前に座る女性も驚いたような表情をしていた。

 堅苦しい見合いではないから、気楽に過ごしてくれと言われたけど、そうもいかない。


 父と大旦那さんは、僕たちの紹介など忘れて、会話を楽しみながら食事をたしなんでいる。

 お造り、焼き物、箸休めの帆立と雲丹うにの茶碗蒸しも、舌が唸るほど美味いはずなのに今は味が分からない。

 目の前に座る彼女も、下ばかり見てあまり話そうとしない。僕と同じで、落ち着かないだろう。


「少し外の空気に当たりませんか?」


 こうして中庭が見える長い廊下を、彼女の隣を歩く光景を知っている気がする。

 中庭に咲く花を眺めながら、僕は退屈そうにこうつぶやく。


「気のない見合いの席は……疲れますね、綺原さん」

「…………そうですね」


 そうだ、僕はあの子のことを〝綺原さん〟と呼んでいた。

 デートをしていても無理に作った偽りの顔をして、下の名前を呼んでくれたことは一度もない。

 何に対しても無関心なのに、ピアノには目を輝かせて、自分の命を投げ出してでも他の誰かを守る。お互いに愛などなかったけど、彼は私の婚約者だった。

 名前のない日記にあった文を思い出して、胸が震える。


 忍び込んだ夜の音楽室、僕のために両親に頭を下げてくれて、花火の下で唇を重ねた。

 知らない物語だった内容。途切れ途切れのシーンが、記憶として繋がっていく。

 夢で見たもうひとつの人生で、僕は彼女と会っていた。


「えっと、みやび……さん?」

「……どうして、私の名前を」


 ひどく驚いたような声を上げて、その瞳は水面が揺れているかのように潤んで見える。

 食事の席では、会話どころか互いの名すら出なかった。遠い記憶に浮かび上がる文字。


「僕のノートに書いてくれたよね?」


 今、思い出した。世界が終わった日。名前を書き殴りしたノートに、ひとつだけ僕のではない字を見つけた。

 あのあと気付いた時には、自分で書いた名前すら残っていなかったけど、はっきりこの目に映っている。


「ずっと不思議だった。あれほど拒絶してた歯科を継ぐって決められたこと」


 みんなでひたすらに突っ走って、泣いて、笑って。たしかに、僕らは夢の世界で生きていた。


「綺原さんや苗木と高校生活を送れたから、満たされてたんだ。僕が本当に望んでいたものを、手に入れたからかもしれない」


 中庭の花木を揺らしながら、心地良い風が僕たちの間を吹き抜けていく。新しい季節を運んで来るように。


「これから僕と抜け出しませんか?」

「……はい」

「あらためて、初めまして。みやびさん」

「初めまして、梵くん」


 差し出した手のひらに、そっと指が触れた。小さな手のひらが優しく合わさって、温もりが伝わってくる。


 繋ぎ合った心を二度と離さないと誓って、僕たちは笑い合った。

 虹色の雨が降り出しそうな、空の下で。




「君とは、こうして出会う運命だったんだ」



                fin.

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消えたい僕は、今日も彼女と夢をみる 月都七綺 @ynj_honey_b

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