名前のない物語⑺

 二学期が始まり、天気が崩れることが多くなった。今日の夜に台風が来るとニュースで見て、ベランダに置いていた植木鉢を部屋の中へ入れる。

 いつもより、一時間以上前にアパートを出た。学校へ向かう足が覚束おぼつかない。

 途中で寄り道したのは、学校近くのモコバーガー。部活帰りに梵くんと立ち寄ったのが、実を言うと私の初バーガーだった。


『ねえ、さっきから、ちょっと見過ぎじゃない? さすがに食べ辛い』

『ああ、ごめん。つい物珍しくて』

『それって、私がファストフード食べてることが?』

『そうじゃなくて。こうして外で誰かとご飯を食べるって、なかなかしないから』


 あの頃を思い出して、ふふっと笑みがこぼれた。

 弓道場から歩きなれた道を進み、結芽岬高校の校舎へ入る。

 まだ誰もいない教室は静寂せいじゃくとしていて、物足りなさと寂しさを感じる。

 一列後ろの席は、少しだけ世界が広がって見えた。彼の見ている景色は、どんなものだったのだろう。


 立ち上がろうとした拍子に、机の中からノートが落ちてきた。きっちり整頓されて入っていたはずなのに、どうして。

 ページが開いたノートを拾おうとして、心臓が止まりそうになる。


 みそら、みなみ、みさき、みちる。

 そこに殴り書きされていたのは、女子の名前。その全てにハテナが付けられていて、上には綺原の文字があった。

 ずっと不思議だった。この世界で、私の下の名を呼ぶ人がいないこと。

 思い出そうとしてくれてたのね。

 ノートを抱きしめながら、ありがとうと何度もつぶやく。それだけで、もう充分。


 昼食の時間になって、みんなが机の移動を始める。弁当袋を手にして教室を出たところで、後ろからグッと腕を引かれた。

 心臓を跳ね上げると、真剣な顔をした苗木が立っていて、その気迫にひるみそうになる。


「ちょっと、いいか?」


 いつものおどけた彼ではなく、何かを決意した顔だった。

 校庭の木陰へ連れて行かれて、彼は何度も深呼吸をした。緊張感が痛いほど伝わってきて、私の心臓にも伝染する。


「綺原って、付き合ってる奴いなかったよな」

「そうね。苗木も、でしょう」

「ああ……俺は、ずっと。ずっと前から好きな子がいる。態度は冷たいし、バカにばっかしてくるけど……一緒にいるだけで、笑顔になれる。全然脈ないって分かってるけど、どうしても伝えておきたい」


 初めて見る強い眼差しに、心が波打つ。あなたを好きになれたら、幸せだったのに。


「……好きだ」


 どくん、と胸が締め付けられる。

 こんなふうに告白されて、心が躍らない人などいない。


「ずっと前から、俺は……」


 その時、ものすごい風が吹いた。木がざわざわと揺れながら、葉が天へ上っていく。

 暴風域に入ったのかしら。

 飛ばされそうになるスカートを押さえながら、視線を戻す。風を避けるように下げていた苗木が、頭を上げた。

 ゆったりと開く瞼。光を失っていくみたいに、瞳から輝きが薄れていく。それは電池切れのライトと似ている気がする。


「……苗木? 大丈夫?」


 きらきらしていた光が、完全に消滅した。


「あー、はい。なんともないですけど、あの、俺ら何か話してましたっけ?」


 頭をぽりぽりと掻きながら、照れ臭そうな顔をする。でもそれは、さっきまでの緊張感とは違うもの。


「いいえ、……何も」

「なんか風すごいから、とりあえず教室入った方がいいっすよ」


 目の前にいる彼はもう、私の知っている苗木ではなかった。言葉を交わしたことのない他人のように、私の存在を忘れてしまった。


 ーー向こうの自分が、目を覚まそうとしているのかもしれない。


 あっという間に空が闇に包まれて、ひびのような線が入っている。まるでチョコレートドームの中に閉じ込められているみたいで、バリバリと景色が割れていく。

 これが夢の世界の終わりなのかと、ただ放心と眺めるしかなかった。


 そんなとき、目の前に彼が現れた。手足をぶらんとさせた格好は、正気を感じられない。

 梵くんは、覚えてくれているのかしら。

 不安げに声をかけると、何も言わないで突然抱きしめられた。


「もう会えないかと思った」


 耳元で優しく広がる声に、胸の音が鳴り止まない。

 こんな最後の日が訪れるなんて、夢にも思わなかった。


「思い出したんだ。君と初めて会ったときのこと」


 ザザッ、ザザッと途切れ途切れの音がして、私の体が映像のように乱れている。

 もうここにはいられない。もう二度と会えない。そう思ったら、こらえていた涙があふれてきた。


「梵くん、ありがとう。後悔しない今を、生きて」


 掴まれた手が温もりを感じることはなく、そのまま暗闇の中へ落ちた。



 水平線から太陽の輝きが現れて、まるで世界の始まりのような瞬間が見えた。

 まばゆい光に眉をひそめながら、接着テープでくっ付けられたようなまぶたがゆっくりと開く。

 意識が元の身体に戻って、自分でないような感覚が全身を覆っている。


「……目が……覚めたのね」


 何度も瞬きをして、頬に伝う雫に気付いた。


 もう、彼はいない。


 懐かしい木の天井と和の匂い。むくりと起き上がった布団、身をまとっている薄い紫の部屋着。

 障子の窓から見える風景は、老舗旅館のはなれにある実家だ。

 しばらく放心と寝転んだままでいると、隣にあったスマホがピコンと鳴った。昔使っていた押し花のハードカバーが付けられていて、画面にはココアトークのテロップが表示されている。


「……マリカ。あの、マリカね」


 メッセージの送信者は、女子校に通っていた時のクラスメイト。もう何年も連絡を取っていなかった。


『明日の祭り、浴衣着てきてね。男子が期待してるから』


 スマホを握っている手が遠くへ投げ出される。

 高校時代、人数合わせで彼女たちと祭りへ出掛けたことは、なんとなく覚えている。

 でも、誰と何を話して何をしたか思い出せなくて、これから私はどうしたらいいのか分からなくなった。

 それと同時に、彼が生きる世界線へ戻れたことに胸が熱くなる。きっと彼は、ピアノの道へ進む。命を落とす未来は、変えられただろう。


 それなのに、心の中はぽっかりとくり抜かれたように空っぽだ。詰め込んだ思いの跡は、しばらく消えそうにない。

 大粒の涙が溢れては、目尻を通って耳に伝う。

 何時間も、その濡れた髪が乾くことはなかった。



 高校時代の自分へ意識が帰った私は、地元のお嬢様学校を卒業して実家を出た。

 そのタイミングで、お祖父様から出生について話を聞かされた。私は父の子でも、また母の実子でもなかった。母の妹が命を落としてまで、一人で必死に産んだ娘だったと知った。


 身寄りのない私を思いお祖父様が養子の話を進め、大女将である祖母だけが猛反対をしていたらしい。

 それでも、高校を卒業するまでという条件付きで祖母の承諾をもらったようだ。

 綺原家のみんなには、本当に感謝している。


『元々、お前を桜花蘭の女将にすることは出来なかったのだが、姉たちと同じように育ててやりたかった。お前はどこに出しても恥ずかしくない、正真正銘しょうしんしょうめい綺原家の一員じゃ』


 家を出て行く時に掛けてくれたお祖父様の言葉を、二十五歳になった今でも鮮明に覚えている。

 大学を卒業してからは、知り合いの結婚式場で着付け師として働かせてもらうことになった。


「綺原さんって、私と同い年なのに本当に手際良いですよね。全然着崩れしないし、尊敬しちゃう」

「ありがとうございます。着付け師として最高の褒め言葉です」


 つらいことばかりだったけれど、この仕事を始めて笑うことが増えた気がする。

 高校生の頃に見ていた夢を、あの人を、絶対に忘れないと胸の奥へしまい込んだけど。

 婚約していたのは、歯科医院を継いだ彼。私が望んだ未来は、二人の道を大きく引き離すもの。

 もう会えることのない彼は、着物と同じように色褪いろあせてゆくだけ。

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