名前のない物語⑹

 あれから、夢についてや金宮健のことを調べてみたけど、詳しいことは何も分からなかった。

 この地球上には幾つもの空間が存在していて、意識を飛ばすことで夢と現実を脳が区別している。

 夢の世界から目覚めたとき、元の世界に意識が戻るかは保証出来ない。そう金宮健は言っていた。

 戻れたところで、現実は悲惨。だったら、そのまま意識が帰らなくてもいい。


 歩道を歩きながら、強い日差しを帽子で遮る。小走りで図書館へ入ると、エレベーターで待ち合わせの二階へ向かった。

 夏休み中に、梵くんが初めて連絡をよこしたのが日南菫のためだなんて、しゃくに触る。

 ひと通り話を聞いて、私たちは図書館を出た。

 また変な夢を見たという彼に、『シンクロニシティ』の本を貸した。


 ーーバグが起こる場合、外部からのアクセスで意識が二重になっている可能性がある。


 もしかしたら、未来の日南菫が夢に侵入しているのかしら。まさかね。


「今日はありがとう。何かあったら、また連絡するね」

「……わかったわ」


 じゃあと手を振って、図書館の前で別れようとする梵くんの服を掴んだ。

 なに、と首を傾げる彼。自分でも、理解できない行動をしている。


「あ、あの、特に用事がなくても、暇だし連絡してくれていいから」


 上から目線で、嫌な女。

 そんなことを考えていると、少し驚いた顔をしていた梵くんが、にこりと白い歯を見せた。


「うん、綺原さんも遠慮なくしてよ」


 この優しい眼差しを、ずっと近くで感じていられたらいいのに。



 蒸し暑さが増す八月に入った。昔のアルバムを見ていたら急に恋しくなって、何年か振りに実家へ顔を出そうと思い立った。

 この世界では、いつまで住んでいたのか不明だけど、母やお祖父様に会いたくなって。

 アパートから、電車で一時間かかる老舗旅館の桜花蘭おうからんへ足を運んだ。


 最寄り駅で、水色のセーラー服姿の女子高生とすれ違う。振り返ってみるけど、彼女はこちらに見向きもしないで足を進めて行った。

 高校生の頃、近くの女子校へ通っていた。さっきの女生徒とは、それなりに仲良くしていたつもりだったけど、ここでは他人なのだから仕方がない。


 坂道を下り、風情のある建物を通り過ぎる。

旅館へ繋がる長い階段を登りかけた時、肩をグッと後ろへ引かれた。


「なんで、貴方あなたがここに……」


 血相を青くして私を見ていたのは、美しい着物に身を包む父方の祖母。


「おばあさま、お久しぶりです。実は」

「ここの敷居しきいを二度とまたぐのではありません! もう貴方の居場所は、桜花蘭にはないのですから」


 ひどく動揺した様子で、さらに祖母は心無い言葉を私に浴びせた。


けがらわしい。だから不徳の至りで産まれた子など、早く縁を切れと言ったのです。なのに、貴方のおじいさまと母親は……うちの旅館かおに泥を塗ったも同然です」

「……なんの、お話でしょうか」

「知らない方が幸せという事もあるでしょう。どうぞお引き取りなさって、二度とわたくしの前に現れないで頂きたいわ」


 階段を上がる祖母の背中が見えなくなっても、しばらくその場で動く事が出来なかった。

 不徳の至り? 私は、父の実子ではない?

 桜花蘭に不要な娘だったのは、三女だからではなく不倫で産まれた子だったから?

 どれだけ努力しても認めてもらえなかった理由は、そこにあったの?

 吐き気が止まらなくて、何度も止まりかけた心臓を押さえながら、ただひたすらに駅へ向かうことだけを考えた。


 終わりの日に見ていたような薄雲が広がる八月十八日。日南菫の命日と言われる日、梵くんに連れられて彼女の家を訪れた。

 人の死を防げるのなら、もちろん協力したいとは思うけれど、正直複雑でもある。

 部屋で二人きりになった時、居心地が悪くて肺が重く感じた。


 駅に繋がる階段の下。力無い彼を抱きしめながら泣き叫ぶ彼女の姿が、今でも鮮明に思い出される。すぐ近くに婚約者である私がいたのに、最後に彼の温もりを感じていたのはこの人だった。

 それに、彼の別の夢に現れて、この人はおかしな行動を取っている。本当に彼女はこの世界に存在する日南菫なのか、確かめなければならない。


 本棚から取り出したスケッチブックを、日南菫が机に並べていく。家へ押しかける口実に、いくつか絵の相談をしたいと言っていたからだろう。

 何を質問するか考えて来たことさえ、一気に頭から消え去ってしまったけれど。


「さて、本題に入りますか! 質問どうぞ?」

「あの、すみません。忘れてしまって」

「じゃあ私から聞いてもいい?」

「菫先生が、私に?」


 屈託くったくのない笑顔。憎みきれない愛嬌を振りまいている。


「綺原さんって、どうして美術の授業を選択したの?」

「それは……」

「絵、そんなに好きじゃないでしょ」


 勘づかれていた。何も返せないでいると、もしかして……と眉が動く。


「私のこと監視してたの?」

「監視だなんて……!」


 言い掛けた言葉を、人差し指でさまたげられた。

 取り乱すなんて、あなたらしくないと言うように。


「ずっと、綺原さんのことが気になってたの。常に行動を見られてるような、不思議な視線。でも攻撃的なものじゃなくて、何か心配してくれてるような」

「死のうとしてませんか?」


 彼女の顔色が変わった。瞳孔が開き、微かに唇が震えている。


「……そんなわけ」

「手首の包帯、ほんとに捻挫かしら」


 バツが悪そうに、背中へ隠すように手を回す。

 もうすぐ一ヶ月になる。ただ捻ったにしては期間が長すぎるし、何度も普通に動かしていた。おそらく、見られたくない傷でもあるのだろう。


「最近、眠れない日が続いてて、気付いたら……。どうしようもないのよ。たまに、自分が自分じゃなくなるの」


 声を震わせ、ほろりと涙が流れた。

 未来の日南菫がアクセスして来ているので間違いない。自分のせいで、彼が犠牲になったことを悔いての行動なのか。


「負けないで下さい。ここには、私たちがいます。しっかり自分を持って、見失わないで」


 小さく頷く彼女に、ティッシュを差し出す。

 何かが起こる前に、私も覚悟を決めなければならない。


 ーー今のあなたは、生徒に寄り添える教師として素敵だと思うから。生きて。



 真っ暗のアパートへ帰って、テレビも付けないで服を着替える。音のない空間に一人でいると、ふと頭に湧き上がってくる言葉。


けがらわしい。だから不徳の至りで産まれた子など、早く縁を切れと言ったのです』

『もう貴方の居場所は桜花蘭にはないのですから』


 ガシャンと何かが割れる音がして、気付くとテーブルに置いていた花瓶が落ちていた。手を付いた時に当たったみたい。

 祖母の声が部屋中に響いて聞こえて、震えが止まらなくなる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……穢らわしくてごめんなさい」


 ぶつぶつと呟きながら、キッチンの流し台で嗚咽おえつする。気持ちが悪くて、体の中から何かを吐き出したいと思うけど出来ない。

 これは夢だと暗示しながら、これが現実なのだと吐き捨てる。

 どこにも向けられないいきどおりは、やがて自然に消滅していくのかしら。

 穢れた血が流れる私は、幸せを望んではいけない人間なのでしょうか。

 あの日以降、そんな夜を何度も繰り返している。

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