名前のない物語⑸

 ゆめみ祭当日。弓道部の販売当番を終えて、制服に着替えた。冷えたサイダーを両手に、グランドの隅にある木陰へ向かう。梵くんの姿が見えたから。

 木の傍まで近付いたところで、出しかけた言葉を飲み込んだ。一緒に、菫先生がいた。

 二人の背中が、悪夢で見た光景を蘇らせる。たった三メートルが、一生辿り着けないほど遠く感じた。


「声かけないの?」


 背後からの声に、少しばかり肩が飛び上がる。立っていたのは、爽やかな好青年という雰囲気の男性。

 黙って通り過ぎようとすると、「こら、こら」と腕を掴まれた。


「先生のことを無視すんなって」

「どちら様ですか? 警察、呼んでも良いのよ」

「おいおい、まさか金宮先生のこと忘れちゃったの? こんなイケメンで真面目な先生、なかなかいないよ?」


 伊達らしき眼鏡をずらしながら、漫画によくいるキザキャラのようにウインクを投げつけてくる。その軽々しい口調と薄っぺらな行動に、ああと記憶が蘇った。


「どうしてあなたがここにいるの?」

「俺、ここの卒業生って設定だからね。ちょいと楽しませてもらおうかなーって」

「……どうでもいいけど、私に近づかないで」

「なんで? 君と行動するに決まってんじゃん」

「…………」


 金宮先生は、金魚の糞のように私について回った。見えない振りをするのだけど、気が散って仕方がない。

 もうすぐ、最後の演目であるピアノ演奏の時間になるため、苗木と客席で梵くんの登場を待った。


 ふと遠くに見覚えのある女性の姿が目に入る。品の良さそうな風貌は、梵くんの母親だ。あれほど仕事があるからと拒否していたのに、来てくれた。

 梵くん、あきらめないで良かったわね。


「綺原ちゃん、さっきの男子みたいなのがタイプなの?」


 真っ直ぐ前を向いたまま、金宮先生が問い掛けて来る。知らぬ態度で、私は答えた。


「……全然違うわ」

「じゃあ俺は?」

「論外ね」

「綺麗な顔してキッツイなぁ、君」


 余計なお世話よ。なんて思っていると、隣から強い視線を感じた。


「綺原、さっきから誰と話してんだ?」


 隣に立つ苗木が、不思議そうに首を傾げる。


「妖精さんかしらね」


 おどけて返事をしたら、梵くんがステージに現れて、青空の下から一斉に声が消えた。

 ピアノの音色が流れ始めて、胸が大きな音を立てる。

 懐かしさが込み上げるこのメロディは、いつかの彼と肩を並べて一緒に弾いた曲。瞼を閉じて裏側に映し出される映像は、色褪せないままあの頃の二人がいる。

 偽りの愛だと嘆いた二十五の私が、この様子を見たら、きっと吹き出してしまうでしょうね。


 演奏する姿を見ながら、少しの違和感を感じた。時折、歪める表情と穏やかさの中に紛れる荒波。

 何日も近くで練習を見ていたから、何か異常が起こっていると、すぐに分かった。

 苗木と金宮先生を置き去りにして、人の山を掻き分けステージ裏へ走る。

 あと少しというところで、彼の音に重なる音色が耳に飛び込んで来た。


 隣に菫先生が立って、肩を並べてピアノを連弾れんだんしている。美しく優しくて、まるで二人が一人のような演奏に胸が苦しくなった。

 彼らの世界に入り込む隙間なんてないのだと、思い知らされたようで。


 青く澄んでいた空が、いつの間にか薄暗い色をしていた。どれだけ時間が経ったのか、もう一時間はこうしている気がする。

 屋上から聞こえる校庭の声はさきほどより賑やかで、後夜祭が始まったと分かった。私の存在なんて、みんな忘れて楽しんでいるだろう。


 オレンジ色の夕日が空に映えて、このまま消えてしまってもいいかもしれないと思い始める。

 でも、神様は許してくれなかった。

 屋上のドアが開いて、梵くんが探しに来た。荒い呼吸が走って来たことを証拠付けている。一番に浮かんだ言葉は「どうして?」だった。

 パンドラの箱を開けたように、私の中に潜む何かを狂わせる。


「私のことなんて、放っておけば良いじゃない。あなたじゃなくて……苗木だったら良かったのに」


 想ってくれる苗木を好きになれていたら、苗木が婚約者だったなら、こんな苦しい思いをしないで済んだかもしれない。

 夜の闇が訪れようとする時に、現れる青の光。それは炎のように彼を包み込んで、幻想を作り出す。二十五歳の彼と重なって見えた。


「出来ることなら私が弾きたかった。さっきの曲、夢境むきょうの続きは、私だって弾けるのよ」


 初めて知るような驚いた顔、申し訳なさそうに眉を下げる表情も憎らしい。あなたが屋上に来なければ、目を覚ます覚悟がついたかもしれない。

 一瞬でも期待した私の気持ちを、この人は簡単に踏みにじる。


 世界が黒に包まれて、軽く背伸びをして彼の唇にそっと触れた。

 許されないことをしていると、心では分かっている。この人が見つめる先に、私はいない。

 今はそれでもいいと、夜の闇に本音を隠して。終止符を打つつもりで、最初で最後のキスをした。



 夏休みに入ってすぐ、再び金宮先生が訪ねてきた。家庭教師と言うわりに、ほとんど授業はなく、つい最近まで忘れていたほど。

 お祖父様からの命令だとか言っていたけど、この人は全てが胡散臭い。


「じゃあ、次の英文訳してみて」


 とりあえず勉強は教えるつもりらしい。

 問題を見て、シャーペンを持つ手が止まる。不自然に難易度が下がっている。中学生でも分かるレベル。

 それより、問題なのは解答の内容だ。


「なんで書かないの? 分かんない?」


 挑発されて、仕方なしに文字を綴る。

 ーー私はあなたにキスしたい。


「これって、セクハラじゃないですか?」


 軽蔑の眼差しを向けたところで、この人が怯むはずもない。

 それどころか、下瞼を持ち上げて満足そうな笑みを浮かべている。不気味より、恐怖に近い嫌悪を抱いた。


「そういう綺原ちゃんはどうなの?」

「……どうゆう意味」

「付き合ってもないのに、キスしちゃうのどうなのかなー」

「なっ……!」


 なんで、あなたが後夜祭のことを知っているの。

 喉に詰まって出ない言葉。反応を見て楽しんでいるのか、またすぐ爆弾は落とされる。


「あっ、でもいいのか! だって、君ら婚約者だもんな」


 喉を押しつぶされたみたいに、何も言えなくなった。

 数秒、じっと私を見て、金宮健は立ち上がる。ベッドに立てかけてあった『シンクロニシティ』の本を持ち出して、こちらへ渡した。


「これは君の夢でもあり、今は俺の夢でもある」

「……どうして」

「二十五の君が見てる夢に侵入したんだ。君のお祖父さんに頼まれてね」


 向こうの私は、普通に食事を摂り、仕事をして毎日を過ごしているらしい。

 以前、意識を持ちながら夢を見ていた梵くんと同じ。でも、それは抜け殻となっていて、目に光が宿っていない。

 意識が別の場所にあると気付いたお祖父様が、この人を使って目覚めさせようとしていると知った。


「他人の夢に入り込むのは、意外と単純で簡単なんだ。だけど、条件が揃わなきゃ一生無理かもしれない」

「……そんなこと」

「まあ、俺は雇われてる身だから、ちゃんと任務は全うするつもりだけど。無理矢理するのは、俺の趣味じゃないんでね。ちゃんと自分で頃合い見つけてくんないと。あっち、廃人になっちゃうかもよ」


 なにもなかったかのようにヘラッと笑って、じゃあそろそろこのへんでと金宮健は去って行った。

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