名前のない物語⑷
たまに、梵くんが落ちた時の夢を見る。
長い階段上から日南菫と消えた瞬間、自分の叫び声で目が覚める。
頬が濡れていることも、少なくない。
どちらが夢で現実なのか、見境がつかなくなりそうだ。
アパートのチャイムが鳴って、見知らぬ男が訪ねてきた。二十代半ばくらいで、誠実そうな見た目の人。
勧誘かセールスかしら。細かいところまで現実的な夢ね。
インターフォン越しにあしらおうとすると、その男は家庭教師だと名乗った。
「
「……知りません」
「とにかく、家の中に入れてくれない?」
顔を近付けてカメラを覗いている様子を見て、思わず体を遠去ける。
なに、この人。カエルみたいにアパートのドアに張り付いている。
「見知らぬ男性を部屋へ入れるつもりはないわ。帰ってもらえるかしら」
「祖父は綺原
自称家庭教師の男は、私の素性を話し出した。
「姉二人は厳しく育てられたのに、君は違った。よく言えば、三女は可愛くて甘やかされてる。悪く言えば、期待されてな……」
「もうやめて!」
玄関を開ける音が勢いよく響き、仕方なく男を部屋へ招いた。
金宮と名乗る男は、部屋へ入るなりテーブルの上に教材を並べ始めた。家庭教師と言うのは、
でも、私にとって重要なのはそこではない。
「何を企んでいるのかしら」
「なんの話? 俺は、君の家庭教師を頼まれただけなんだけど?」
「あなたじゃなくて、お祖父様よ」
実家から追い出した私のことなど、興味がないのだと思っていた。
監視でも付けるつもりで、この人を送り込んだのかしら。
「まあ、可愛い子には旅をさせろって言うからなぁ。可愛いってより、君は美人ちゃんだよね。ねえ、ほんとに十七歳?」
「金宮先生。さっさと授業を始めて終わらせて下さい」
まともな見た目と中身にギャップはあったけど、勉強は分かりやすく説明も丁寧だった。
授業を終えて、きっちり九十分で帰宅。読めない人だけれど、危害を加えるような人間ではなさそう。
「ほんとに十七歳……か」
ただ、突然現れた登場人物に、違和感は拭えなかった。
十代の頃は、稽古や祖母に気に入られることで精一杯だった。クラスメイトの誘いを断っていたら、いつの間にか孤立していた。
だから、集団生活に慣れていない。女子はグループを作って、特定の誰かと行動する。そんなハイレベルなこと、私には無理だと思っていた。
たとえ夢の中でも、人格は大きく変われない。でも、彼らといる時だけは、心から笑っていられる。
小さなことで言い合って、部活帰りに寄り道したり、夜の学校へ忍び込む。
青春って、ひとりでは経験出来ないものなのだと、肌で感じている。
ゆめみ祭まで一週間を切った日の放課後。三年の玄関で別れてから、こそこそと梵くんの後ろをついて行く。
「なあ、綺原。ほんとにやんのか? 俺、歯医者って苦手なんだよな」
茶髪の短髪をくしゃっとさせて、苗木が不安げな声を出す。
ーー高校生の頃まで弾いていたんだ。途中で辞めたけど、懐かしくて。
好きな素振りをあまり見せないけれど、二十五歳の梵くんは未練染みた表情でピアノを見ていた。その彼が、ステージで演奏を披露する。
葬儀の時、憔悴しきっていた御両親が脳裏を過った。この世界では、息子の晴れ舞台を見てもらいたい。
「おっかねぇじいさんでさ。五秒数えるって言いながら、五、四でいきやがったんだ。信じられるか?」
「……なんの話かしら」
「ぐらぐらの歯、引っこ抜かれたんだよ! めちゃくちゃ怖かったんだぞ! だから歯医者は」
シッと人差し指を立てて、隣の苗木に視線を送る。
前を歩く梵くんが立ち止まって、そろりと振り向いた。
「……絶対、尾行してるよね? なに、ほんとどうしたの?」
「あのな、これには事情が……」
しり込みする苗木と梵くんの腕を引っ張り、歯科医院へ乗り込む。
仕事中なのも、歓迎されないことも承知の上だった。
婚約者として、何度か会ったことがある。
仕事にも家族に対しても厳しい人だと思っていたけれど、息子を失ったこの人は、ただの父親の顔をしていた。
「梵さんは、ゆめみ祭を成功させるため毎日練習しています。どうか」
どうか、あなたも後悔しない振る舞いを。しこりを残したまま、月日だけを流さないでほしい。
結局、父親には受け入れてもらえなかったけど、梵くんが初めて怒りを露わにした。
自分のことではなく、私たちのために。
私のしたことは、常識的な行動ではなかったと、彼も理解していたと思う。それでも感情を表してくれたことに、胸が震えた。
「……お願いします。どうか、ゆめみ祭に来てください」
灯が消える夜。歯科医院の鍵をかける母親へ頭を下げる。
「危ないから、もう来ないで」と言われた翌日、雨の降りしきる翌々日も通い続けた。
ここで引き下がったら負けだと、あきらめたくないと思ったのは、初めてだった。
前夜祭が始まる少し前。
学校のすぐ近くにある弓道場を借りて、仮装イベントの衣装に着替えた。
薄いラベンダーの生地に桜と藤の花があしらわれた着物は、母から譲り受けたもの。二十歳の時に友人の結婚式で着た以来で、懐かしく感じた。
目立つことが苦手で、教室の片隅から遠巻きにみんなを見ている方が性に合っている。それなのに、仮装コンテストのクラス代表に選ばれてしまった。
このまま早く時が過ぎ去ればいいと願いつつ、もう少しだけ、梵くんと一緒にいるのも悪くないと思った。
他の生徒たちが、すれ違いざまに私たちを見てお似合いだと声を潜める。胸の奥がちくりと痛んだ。
本来ならば、彼とは婚約者だったのに、今はこの手の距離よりも随分と遠く感じる。
「夢の世界を壊すのって、怖くなかった?」
誰だって、目を塞いで心地よい夢を見ていたい。高校生として、彼らと笑い合う今が幸せだから。
でも、
「怖いってより……やらないとって感じだったかな。僕が目を覚さないと、何も終わらないし始まらない気がしたんだ。今思い返しても、おかしな話だけど」
耳の後ろを触って、梵くんはハハッと笑って見せた。
初恋の人と会えなくなると知りながら、自分の感情より相手の未来を優先させた。つらい思いをしたでしょうに。
「いつか私も、終わらせられるかしら」
「……それって、未来の夢のこと?」
未来の夢。それは、私にとって現実であり過去でもある。
「ええ、悪夢のようなね。でも少し、怖い。あなたには、あんな偉そうなこと言っておいてね」
手足が小刻みに震え出す。
目が覚めたら、もう二度と会えない。
手の温もりが重なって、骨張った指が優しく私を包み込む。
「もしも何かあった時は、僕の名前呼んでよ」
「えっ?」
「前、悪夢から連れ出してくれたでしょ? だから今度は、僕が綺原さんを引き戻すから。ほら、行こう」
一歩前を歩く彼。周りから見えないように、繋いだ手は着物の袖で隠している。
緊張を和ませるためにしたこと。でも、その気遣いが逆に胸を締め付ける。
お願いだから、優しくしないで。余計に、ここから離れられなくなってしまう。
デートをしていた昔を思い出して、目頭が熱くなった。
こんな日が訪れるなど、二十五歳の彼からは想像も出来なかった。
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