第8話
────《・・・・島さん?》
「!?」
《私です・・・・岩崎です》
「い・・・・岩崎さん!?」
《ええ・・・・わかります?》
「あ・・ああ。え!?だってこれ・・・・え!?ホントに岩崎さん?」
もし仮に目の前の信号が赤に変わったとしても、私はきっと通り過ぎてしまっていたに違いない。それほど頭の中はパニック寸前で整理がつかなかった。
《ええ・・・・しばらくです》
「あ・・しばらく・・・・え!?これって岩崎さんだったの?え!?じゃ~携帯買ったの?」
《ええ。まだつい最近なんですけど》
「そう──。あ・・ちょっと待って」
運転も覚束無い状況に、私は思わず車を止めようと辺りを見回し、数台の自販機が並ぶ路肩へと乗り入れる。そして自らを落ち着かせようと大きく深呼吸をした。
「もしもし・・・・」
《もしもし・・・・今、大丈夫ですか?》
「ああ・・今、車止めたから」
《あ・・じゃあ運転してたんですか?》
「そう。ちょっと職場の奴と飯行って、ちょうど今帰る途中って言うか・・・・それにしても驚いたなぁ~!」
もう二度と聞くこともないだろう。そう思っていた声を久しぶりに耳にし、私は過ぎ去った季節を頭に思い描いていた。懐かしさと切なさの入り交じった思い出である。
会話から以前に掛けたのも彼女であることがわかった。
「──だったら出るまで待ってれば良かったのに」
《ええ・・・・でも近くに誰か居たらって思うと・・・・それに携帯って掛けた人の番号が残るじゃないですか。だから・・・・もしかしたら電話してくれるんじゃないかって》
「そうだったんか~。いや、俺はてっきりワンギリかなって思ってさ」
《え!?なんです?ワンギ・・・・》
つい口にした言葉を笑いで濁した後、私はそれとなく電話の理由を尋ねた。
《携帯を買ったのはいいんですけど・・・・掛けるところがなくて。アハ・・変ですよね。それで・・・・》
彼女は照れ臭そうに私の携帯を思い出したと続け、突然掛けた電話を詫びる。
「いいんだよ。それよりどう?元気だった?・・・・そう。じゃ~良かった。ん・・・・俺?それだけが取り柄だからさ・・・・え!?・・・・・・ハハハ・・・・何言ってるん・・・・そう?」
堅苦しさも時間の経過と共に解れ、私は一人薄暗い車内で笑い声を上げた。二十分くらいの通話を終えると、耳に当てていた部分が湿っていた。声を聞き逃すまい。
そう思って強く押し当てていたせいだろう。耳を左手で摩りながら切り終えたばかりの携帯を眺めた。
───《またいいですか?・・・・掛けても?》
そんなやさしい声の余韻がしばらくの間、頭から離れなかった。
次に電話があったのは三日後のやはり夜だった。
《移動中ですか?》
前回よりもそれは明るい口調に感じられた。
《あ・・じゃ~待ってますから、どこかに車───》
「あ、大丈夫だよ。この間はちょっとびっくりして慌てちゃったけど、普段はほとんど運転しながらだから・・・・え!?そりゃ~、もしってことは・・・・でも・・・・わかったよ」
真っ黒なルームミラーを見た後、道端に寄せヘッドライトを落とせば、車内に携帯の明かりだけが残った。たまに車が通る程度の静かな裏道で、タバコに火を点けた私は、月明かりの中に浮かぶ雲を眺めている。風のない穏やかな夜だった。
《元気でした?》
「ん!?ああ・・・・元気だったよ。フッ・・それはこの前訊いたんじゃない?」
《あ・・そうでしたっけ!?アハ・・馬鹿ですね。私ったら・・・・》
「ハハ・・それよりどう?仕事の方は忙しい?」
《え!?あ・・ええ・・アハ・・おかしい。島さんも同じこと訊いてますよ》
「あ・・そうだった?ハハ・・なんだ~じゃ~俺も一緒じゃねぇか!」
楽しそうな声が離れた空間を飛び交った。そして互いに口にする言葉からして、この間の会話がうろ覚えでしかないことにも気付くのであった。その後、彼女からお茶の誘いを受け今に至るのだが、話が殊の外スムーズに展開したせいか、私は過去を置き忘れてしまったように軽く答えた。
一年という月日が作り出した彼女の明るい口調。それが何よりも私に安心を与えたのである。
「でも驚いたよ。まさかあの携帯が岩崎さんだったなんて───」
たどり着いた店のテーブルを囲むなり、私はさばさばと口を開いた。正面に座ることの照れ臭さを無意識に隠そうとしたのだろう。
「突然ですもんね・・・・ごめんなさい」
「いや、別に怒ってるわけじゃないから。だけどまたなんで携帯持とうって?・・・・あ!?」
「え!?なんです?」
「ひょっとして・・・・彼が出来たからとか?」
彼女はフッと笑いを浮かべ、
「出来ませんよ」
と、小さく首を振る。
「年上の人だって結構来てるんだろ?」
「ええ。来てますよ。でも教習所で声を掛ける人なんて居ませんから!」
「それもそうか・・え!?じゃ~俺はやぱり異例だった!?」
「フッ・・そうですかね。それに・・私って声を掛け辛いタイプに見えるらしくて・・・・」
私は否定することもなくただ黙って話に耳を傾けていた。
「だから余計だめって言うか・・・・。気持ちが閉鎖的なのもきっとあるんでしょうね。それにもし出来たんならお茶に誘ったりしないですよ」
と、視線の先を私の目に合わせる。
「フッ・・それもそうだな」
初めて瞳を重ねた瞬間に似ていたからだろうか、私は何げなく視線を外した後、水の入ったグラスに手を伸ばす。氷がカラカラと音を立てた。
「喉が渇いてたんですか?」
「いや・・まぁ・・。ちょっと緊張してるせいかな」
忽ち空になったグラスを前に微笑ましく零せば、淡い色の口元を押さえた彼女が目を細める。どこか懐かしい映像を見ている気がした。やがて店員が冷えた飲み物と一緒に、緑色の伝票を置いて立ち去ると、彼女はそれにスッと手を伸ばし、
「今日はだめですよ。私が誘ったんですから───」
と、言ってショルダーにある小さなポケットにしまい込んだ。
「わかったよ。じゃ~御馳走になります」
ガムシロとミルクを掻き混ぜ少し改まって頭を下げる私に、
「じゃ~御馳走します」
と、彼女も笑いを含ませ答える。話と瞳を交わしているうち、いつしかグラスの氷も姿を消していた。
「そうだ。一つ訊こうと思ってたんだ!───」
『ワールドブックス』に戻る車の中で、私は店に来たことについて尋ねた。平日の昼間という時間がどうしても不可解だったからである。
「あ~。あれはちょっと用事を頼まれて外出したんで──」
「外出!?・・・・そんなこともあるんだ~」
来た経緯よりも初めて聞く話に私は興味を示した。そしてその間は予約が取れないのかと訊くと、
「そんなことはないですよ。私が居なくても機械を操作出来る人は居ますから・・・・え!?じゃ~ずっと私がしてると思ってたんですか?」
「あ・・いや・・でもそれ以外って見たことなかっただろ!?・・・・」
「アハ・・やだ~。じゃ~私が風邪引いて休んだりしたらどうするんですか?」
彼女は今にでも吹き出しそうに話した。
「あ!?・・そう言われりゃ~そうか」
「そうですよ。私だってたまには調子が悪い時だってありますよ」
車内を埋め尽くすかの笑いは心を和ませてくれ、自分の車にたどり着くのがとても早く感じられた。座り慣れたシートに腰を下ろすと、目の前を白いラシーンが通り過ぎて行く。控えめに挙げた手を少しだけ振って笑みを零す。近いうちにまた───。
到着間際に交わした約束が、そんな明るい仕草を作り出したのだと思いつつ、似たように答える自分の姿を滑稽だと笑った。
光の列に紛れる車を目で追い続けているうち、知らぬ間に険しい表情に変わって行ったのは、何か得体の知れぬ足音を感じ取ったからに違いない。
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