第6話
「どうしたんですか島さん?」
やはり妙なところで会話が途切れたのだと思ったらしく、圭ちゃんはすぐに間の抜けた口調で尋ねて来た。
「いや・・・・ちょっと冷えたんかな!?ションベン行きたくなっちゃったよ」
「ハハ・・なんだ~そうだったんですか。急に静かになっちゃうから、どうしたんかと思いましたよ。コンビニ寄りましょうか?」
「あ・・いや・・まだ我慢出来るから・・・・」
咄嗟にそう言って場を凌いだものの、圭ちゃんのあの一言を聞いてからなぜか、私は逆の記憶を手繰り寄せている。
ちょうど去年の今頃の季節だった。
ふと何もしていない左手に重みを感じた瞬間、フロントガラス越しの光が高台で見たあの夜景に変わって行った。
────身体を寄せ合う時間に終止符を打たなければならない。そう思って暗がりに灯したタバコだったが、燃え尽きるところまで来ても、私は次の言葉を切り出せずにいた。
あるいは、赤羅様に出た彼女の言葉に、口にしたタバコの意味さえ忘れてしまったのだろうか。寒さについても同様で、ついそれを無造作に投げ捨てると、花火にも似た光が足元で散った。俯いたままの頭が僅かに傾き、
「いけませんよ・・・・タバコの投げ捨ては・・・・」
と、微かな声で告げる彼女。
それを拾いに歩いたのはほとんど無意識に近く、その時繋がれていた腕がスルリと外れた。暗闇の中に辛うじて確認出来る白い吸い殻を、ゆっくりと拾い上げた私は、やり場に困ったようにじっと見つめていた。
「こういうとき人間の本性ってのが出ちゃうんだろうな・・・・フッ・・」
「・・・・・・」
「いけないってわかってても・・つい・・・・悪い癖だな・・・・」
所々にうっすらと輝く夜空を見上げ、独り言のように呟いても彼女は佇んだまま何も言わなかった。ため息にも似た息を一つ吐き出し、
「そろそろ行こうか?・・・・朝寝坊しちゃうとなんだし──」
と言う私にコクリと小さく頷いた後で、
「ええ」
と、彼女は応えた。
のんびりとした歩調で私は彼女の前を通り過ぎる。立ち止まって肘を差し出すこともなかった。少し遅れて聞こえる彼女の靴音。冬の黄昏時の長い陰を踏むかのような距離が、今の二人の置かれた間柄を物語っていただろうか。
車が走り出したところで、会話の途切れた空間は、とにかく静かでエンジンの音とタイヤのノイズだけが、異様に広く感じる車内を埋めていた。彼女はぼんやり外を眺めていたままだった。場を和ませるうまい台詞も思いつかず、私はラジオのスイッチに手を伸ばす。
昔懐かしい歌が流れた。
やり場の無いような心を紛らそうと、私はそれに耳を傾けた。
ヒーターの温もりが身体を包み始めた頃、黙ってラジオを見つめていた彼女が口を開いた。
「・・・・良い歌ですね」
「・・・・そうだな」
「・・・・知ってるんですか?」
「・・まぁ・・って言っても聞き覚えがあるっていう程度で・・・・でも歌手は知ってるよ」
「そう・・・・」
彼女の短い返事の後、また車内はやや舌足らずな感じで歌う女性の声に包まれた。特集か何かなのか歌はしばらく続けられ、それを彼女はじっと聞き入っている。
FMから流れる音は時代を忘れさせるほど明瞭で、薄ら覚えでしかない私の耳にも新鮮に響いた。
「・・・・かなり前の歌なんですか?」
「あ~これ。そうだな~。確か俺が小学生の頃だったんじゃないかな?でも最近この手の歌が見直されてるみたいで、時々耳にしたりするようになったけど聞いたことない?」
「いえ・・・・」
「そっか。もっとも古すぎてわかんねぇかな~。それこそCDなんてのじゃなくて当時はレコードだったし・・・・フッ・・ドーナツ盤のレコードなんて聞いてもピンと来ないだろ?」
私は心なし明るい口調を並べた。そして何かを紛らし何かを忘れようとその話題にしがみついた。
「・・・・でも見たことはありますよ」
「ある!?」
「ええ・・・・小さい頃だったけど、父が好きでよく聞いてたから」
そう言って彼女は流れ去る景色に目を向けた。
「・・・・そう。そうか。だったら俺なんかより良く知ってるだろうから、今度訊いてみたら?あ!?ひょっとしたらレコード持ってたりして?」
「・・・・いえ・・もうレコードは・・・・」
「処分しちゃった?」
「ええ・・・・父が亡くなったんで・・・・」
「あ、そう・・・・ごめん。じゃ、つまんないこと訊いちゃったかな?」
「いえ・・・・いいんです」
口を閉ざせば重々しい空気が漂うことくらいわかりきっていた。しかし、開いたところで今はたいした違いはないと、残された間をラジオに委ねる。すると時代を象徴するようなメロディと一緒に、見えない吐息が車内を染めた。
外からの明かりが差し込む度、ショルダーバッグに乗せた彼女の手が映し出され、二度と触れることのない白い指に何度となく目を移した。やがてそれが見覚えのある手に変わって行くと、
───「島さん。着きましたよ!」
と、聞き慣れた声に私は顔を上げ辺りを見回す。
見知らぬ街に迷い込んでしまった。そんな錯覚に陥ってしまうほど、途中からどこをどう走って来たのかさえ記憶になく、目の前に広がる数軒のテナントや、そこにそびえ立つマンション。更には辺りの景色も初めて見る気がした。
「ここ!?」
見る限りでは喫茶店といった感じの店を指さし尋ねれば、
「ええ。見た目はショボイですけどね」
と、圭ちゃんは笑みを浮かべる。
明かりが点いていたのは七、八軒あるうちの半分ほどだった。店から道路までの間に設けられた狭い駐車場には何台かの車が止まっていた。
「『ペンペン草』か~。名前が洒落てんなぁ~!」
手書きのような看板に目をやり、私は楽しそうに話した。
「店は小さいですけどね。けっこう料理はいけるんですよ」
「へぇ~。しかし、圭ちゃんもいろんなとこ知ってんな~」
「いや、そんなこともないですけどね。実はここ、友達がやってるんですよ」
カラ~ン♪カラン・・・・。
賑やかな音に迎えられ足を店内に踏み入れれば、既にコック姿の男性がカウンターの前で二人を待っていた。
「いらっしゃいませ~!」
声の弾み具合に気の通じ合う友を伺わせた。食事を摂る何組かの客が目に入った。
案内されたテーブルに着くと、圭ちゃんは水を一口飲んでから、友達であるマスターに私を紹介した。
「どうも、いつも圭一から話は伺っています。今日はゆっくりして行ってください」
人当たりの良さそうな印象とメニューを残し、赤いタイを纏ったマスターはカウンターでコーヒーを落とし始める。昇る湯気と共に広がる香りが鼻をくすぐった。
「おっ。けっこうバリエーションがあんな~!──」
などとメニューを眺める私に、圭ちゃんはそれとなくトイレのある場所を伝える。一瞬その意味がわからず面食らってしまうものの、すぐに私は思い出したように席を立ちトイレに向かった。けれども実際は何もせず、ぼんやりと鏡とにらめっこをして時間を潰した。
圭ちゃんの言葉通り、頼んだ料理はどれも旨く、瞬く間に腹の中に消えた。しばらく経つと私と圭ちゃん以外に客はなく、店の看板も落とされていた。やがて私達は言われるままカウンターに移動し、落としたてのコーヒーを囲んだ。
コック帽を脱いだマスター相手に、話に花を咲かせ時の経つのを忘れた。
しかし、一人自宅に向かうころになると、気に掛けたことが頭に浮かび、舌に残る余韻も消されてしまうのであった。車内が温まり始めた十時半頃だっただろうか。
突然、鳴り響く着信音に、灯されたディスプレーへと目を移せば、例によって携帯らしき番号が表示されている。
(まただ・・・・)
ワンギリだからすぐ切れるだろう。
そう思って躊躇したものの、妙なことに一度で切れるどころか二度三度と携帯は鳴り続けている。咄嗟に私は手を伸ばした。
もちろん切れる前なら関係ないと思ったからで、事の次第によっては文句の一つも言ってやろうと考えていた。
「もしもし・・・・」
確かにボタンを押したのは鳴っている途中だった。だが自分の声以外に聞こえるものは何もない。ただの悪戯なのかともう一度声を掛ける。
「もしもし!?・・・・どちら様ですか?・・・・・・!?」
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