第5話
六月半ばのその夜、私は圭ちゃんの助手席で頭上に広がる暗い空を見上げている。
やや肌寒い風が髪と頬を撫で、エンジンの乾いた音が中心街のビルに溶けた。照明やネオンが映り込むボディは、何色とも言い難いほど鮮やかな輝きを放っていた。周りからの視線に動じることもなく、じっと前を見据えた圭ちゃんは、ゆっくりとした流れに車を添わせながら、時折口元を赤く光らせている。水の中に溶かしたように消えて行く煙りが、なぜかため息のようにも見えた。
「どうしたん?圭ちゃん・・・・浮かねぇ顔して」
「えっ!?いや・・・・別に・・・・」
「・・・・今日話したラシーンの子が気になるか?」
「フッ・・。でも島さん・・・・付き合いが長いってのもなんですね。やっぱりそんな顔に映っちゃいましたか?」
信号で車を止めると、照れ臭そうに笑いながら圭ちゃんはこちらを向いた。
「ま、なんとなくなんだけどさ・・・・」
一度大きく吸い込んでから、溢れんばかりの灰皿でタバコをもみ消し、
「いっそのこと違う子と付き合って結婚しちゃうのもいいかなって・・・・・・」
「・・・・結婚!?」
「そろそろ落ち着けってね」
「おふくろさんか?」
「ええ。最近はどういうわけか一段とうるさくなったというか・・・・」
「フッ・・圭ちゃん一人っ子だもんな~。・・・・って俺もそうだったな」
何かを懐かしむように私は笑みを浮かべた。
「──かれこれ何年経つんでしたっけ?」
「そうだな・・三十年ってとこかな」
「三十年ですか・・・・早いもんですね」
「ああ。でも変なものでそれだけ月日が流れても、まだ切り替えが出来ない時があるって言うか。フッ・・いつだったか教習所で訊かれたときに、兄妹は二人ですなんてつい答えちゃってさ~」
私の話しに圭ちゃんは僅かに頬を緩めた。
「良いじゃないですか・・・・それで」
「フッ・・そうだな。で、そろそろ落ち着こうって?」
「あ~、さっきの──。もちろん俺も考えてない訳じゃないんですけど、智美はいつもあんな調子ですからね。それに合わせてる俺も悪いんでしょうが・・・・」
「そりゃ~結婚ってなると一生の問題だしな~・・・・そういや最近はどうなん?」
「いや~相変わらずですよ。・・・・だから余計なんですかね」
「・・・・・・」
「たまに苦痛になる時があるんですよ。いつまでこんな付き合い続けるんだろうって。だったらいっそのことなんて思ったりもしたんですけど・・・・」
「やっぱり智ちゃんの方がいいわけだ」
「良いってよりも気楽ですからね。真面目過ぎるのは疲れて駄目ですよ」
「過ぎるってほどにも見えなかったけどな~」
青色が灯ると同時に話した私の声は、軽やかな排気音にかき消された。
「あ、そうだ。島さん見ました?教習所!?」
軽快にシフトを動かし始めると、突然圭ちゃんは思い出したように口を開いた。
「え!?あ~・・・・それがまだ見てねぇんだよ」
「あれ!?まだだったんですか?じゃ~ちょうどいいからこのまま前を通って見て行きますか?」
「・・・・そうだな・・・・駐車場が変わったんだっけ?」
「・・・・・・」
どうでも良いような口調になってしまったのは、ついシフトレバーの先にある時計を眺めていたからだった。もうじき八時になろうとしていた。きっと仕事を終え帰ったに違いないなどと考えていたのだろう。久しぶりに見る教習所よりも、制服を纏った女性が頭にちらついて仕方がない。私の顔をしばし見つめた後で、
「どうしたんですか?島さん。浮かない顔して・・・・」
と、圭ちゃんはそれとなく口を開いた。
「あ~・・・・ちょっと・・・・」
「さては女ですね?」
「!?・・・・」
「ハハ・・女って言い方も変ですかね。このところうまくいってないんじゃないですか?真由美さんと?」
「・・・・フッ・・本当。付き合いが長いってのもなんだな~」
「やっぱり!・・・・だったら飯なんか誘って悪いことしちゃいましたね」
「いや~。かえってこういう時は顔を合わせない方が良かったりするんだから」
やがてフロントガラスに煌々とした明かりが顔を見せ始める。
大型複合店『ワールドブックス』の照明だ。
あの日以来この道を通らずにいた私にとって、薄暗い夜を染めるかのように店内から漏れる光りは、懐かしくも眩しくも映った。細めた視界の中をそれはまるで思い出のように過ぎ去って行った。
「そろそろですよ」
ルームミラーに目を移しながら、圭ちゃんはそう言ってスピードを緩める。私はつい振り返った。あまりにも遅いペースだったため、後が気になってしまったのだ。
瞳に遥か先の明かりが瞬く星のように映った。
「島さん。見えましたよ。母校が・・・・まだ誰か居るみたいですね」
遠巻きに見える事務所には明かりが灯っていた。遅いというほどの時間でもない。恐らく何人かの教官が残務で帰らずに居るのだろう。窓から零れる明かりに誰も走らぬコースの一部が浮かんでいた。
「しかしなんですね。こうして見ると夜の教習所って不気味な感じがしますね」
「フッ。不気味か・・・・」
確かに走る車のない夜の教習所は、どこか生徒の居ない学校にも似ていて異様だ。しかし、様々な思いを交錯し眺めていた私にとって、圭ちゃんの言葉は然程耳にも届かず、ポツリ呟いただけに過ぎなかった。
「島さん。ほらあそこ見てくださいよ」
ウインカーを出し路肩に車を寄せると、黒々とした路面が私の目に飛び込んだ。建物や街灯の差し込む明かりの中、鮮明とはいかないまでも、以前見た映像とのギャップを感じさせた。停止場所を示す白がどことなく新鮮に映り、声も出さず私は食い入るように見つめ続けている。交通安全と書かれた幟が数本ヒラヒラと揺れていた。
「俺が言ったこと本当だったでしょ?」
「ああ・・・・そうだな・・・・」
取り残されたかのように佇むこの場所にも、ついに時代の風が押し寄せ始める時が来た。その光景に私は喜ばしさと寂しさ両方を入り乱れさせた。
「どうです?他に変わった所ってありますか?」
「あ・・・・そうだな・・・・いや特には変わってねぇみてぇだけど・・・・でも変わるもんだな。違う場所に見えるよ」
「そうですね。駐車場一つでもガラッって感じが変わりますね。そうだ。今度は明るい時に来て見ればいいじゃないですか。暗くてわからないってこともあるし」
「フッ・・そうだな。じゃ~飯に行くか?」
ものの五分ほど停止した後、また私達は夜風に紛れた。
少しして市外へ向かうバイパスに合流すると、鮮やかなダカールイエローは周りの景色を軽快に流し始める。数年前までは無かった店や、もぬけの殻になった店舗などが視界の後方へと流れ行く様は、まるで時の早さを見ているようでもあった。
ヘッドライトに照らされた路面をぼんやり眺めながら、つい先程見たアスファルトを思い出していた。それでも私は途切れた会話を気にして口を開いた。
「圭ちゃんの言ってた店ってのは、まだ遠いん?」
「いや、あと二十分ぐらいで着きますから」
「あ、そう」
「寒いですか?」
「あ・・いや」
「島さん・・・・実は結婚したいってのは他にも理由があるんですよ」
「他にも!?」
「ええ。そろそろ俺も子供が欲しいなって・・・・」
「おっ。いよいよ圭ちゃんもそんなことを考えるようになった?」
「そりゃ~ま~。島さんと同じように気だけは若いつもりでいるんですけど・・・・たまに考えちゃったりするんですよ。子供が二十歳になったら俺はいくつなんだろうなって──」
「・・・・・・」
「わかってますよ。島さんが店に子供を連れて来ないのも、俺に気を遣ってくれてるんだって」
「いや・・別にそんなつもりじゃねぇんだけどさ~・・・・職場に連れて来ると邪魔になるだろ。ギャーギャーうるせぇし!」
つい苦笑いを浮かべ答えると、圭ちゃんも同じように笑った。
「フッ・・俺も一緒ですよ。家に帰るとおふくろがギャーギャーうるさいですから」
「おふくろさんだって早く孫が見たいんだろ?」
「そうですね・・・・あ~やっぱり店に来た子と付き合っちゃおうかな~」
「それで子供でも作っちゃうか?」
「ハハ・・・・そうしますかね。今度いつ来るかな~?なんてね」
「ラシーン?」
「そう。白のラシーン!」
「!?」
私は呆然としたまま辺りの景色に目を向けた。思わずその表情を隠そうと顔を背けたのである。ただの思い過ごしだったと片付いた問題が、まさか振り出しに戻るとは予想もしなかった。もちろん同じ色の車など腐るほど走ってる。だからこれもきっと・・・・。
そう必死に言い聞かせてみたところで、尋常ではいられないほど心は動揺で溢れんとしていた。従って訊き直すことは愚か、次のジョークで盛り上げることも出来なかった。
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