第36話 樋嘴の吐いた水の色

「あ……うぇ、あぁ……」

 俺の呼びかけに対し、ミナシゴロシさんは潰された蛙のような音で呻いた。


 そして、足元から這い上がって来ていた肉塊は、波が引くように俺から離れる。

 そのまま、肉塊は一メートルほど離れた場所で停止した。


 肉塊は小さく震えている。

 これではまるで、俺の方が化け物みたいだ。


「えっと、喋れる……かな?」


「……ぁ、はぃ」

 ミナシゴロシさんは、掠れた声で返事をした。

 随分と自信なさげで、弱々しい声だ。


 降りしきる雨も相まって、まるで捨て犬みたいだと思った。


「…………」


 雨が地面を打つ、その音だけが鳴り続ける。


 ……なんというか、予想外だ。

 目の前にいるのは正真正銘の黒幕だというのに、肉塊の府川さんより、府川優子より、圧倒的に弱々しい。

 ただ雨に濡れて、震えていて……哀愁を誘う。

 俺が思わず傘を差した、あの時と同じように。


「あのさ……なんか、えっと……」


 上手く言葉が出てこない。

 何を言えば良いのか、何を言いたいのか、なかなか考えが纏まらない。

 だって、これまで色々あった。

 それなのにこんな……ミナシゴロシさんは、もっと何というか、化け物染みていると思っていたのだ。

 でも、思い出してみれば、夢の中でミナシゴロシさんに何かをされた事なんて一度も無い。


「……いつも濡れてたけど、寒くないの?」


「ぇう……あ、の、えと…………あっ、さむ、ぃや、あの……」


 ミナシゴロシさんはボソボソと呟いて、最終的に何も言わないまま黙ってしまった。

 ずるずると、更に少しだけ肉塊が俺から離れる。


 ……別に、無理に会話する事も無いのかもしれない。

 そう結論付けた俺は、ボンヤリと景色を眺める。

 雨と慣れのせいだろうか? 肉塊の腐臭も、そこまで気にならなかった。


 水が跳ね、雨音がタタタッとリズムを刻む。


 何となく鬱屈としていて、どこか落ち着く。時間がゆっくり流れているみたいだ。

 しばらく雨音を聞いていると、周囲の音がどこか遠のいたような気がした。


「ゎ、私、駄目、だったんですね……」


 ミナシゴロシさんは、雨に紛れてそんな言葉を呟いた。


「府川さんみたいに、暗示にかかっていた時の事は覚えてないの?」


「は、はぃ、あの……でも、あの、貴方が私に言った事、どっちの私に言った事も、思い出せます。そ、そういう魔法、自分に掛けていたので。あの、私、忘れたくなくて……!」


「……そっか」

 ミナシゴロシさんは、肉塊の府川さんも、府川優子も、自分だと思っているんだな。


 何だか、やりきれない気分になって、俺は天を仰ぐ。

 視界に広がったのは曇天ではなく、雨に濡れた傘だった。

 そこで初めて、自分が傘を差している事に気が付いた。


 ……いかにも夢らしい。


 俺はそのまま、何となくミナシゴロシさんに傘を差そうとして、思いとどまる。

 きっと傘を差すという行為は、彼女にとって重要な意味を持っている。

 それを知った今、俺は傘を差すべきなのだろうか?


 結局、俺は結論を出さないまま差し出しかけた傘を戻した。


「あ、ぁ。そっか、もう……」

 ミナシゴロシさんは泣きそうな声でそう呟く。


 俺の傘が引き金になったのだろう。

 次の瞬間には、一斉に触手が俺の体へと伸びていた。


 思わず傘を取り落とす。

 俺の体は気が付くと肉塊に呑まれていた。

 ぬめぬめと体中を這いまわる肉の感触、耳元で喘ぐような吐息が反響する。


「ぁ、あっ、はあぁっ、駄目、駄目、駄目だって、駄目だよぉ、ごめんね? ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 周囲の空気を震わすように、ミナシゴロシさんは捲し立てる。

 俺は咄嗟に動こうとするも、体が重くて仕方がない。

 手も、足も、口も、ベッタリと肉塊に絡みつかれているのだ。


「私じゃ駄目だった、私じゃ駄目だった、気持ち悪いよね? 全部分かってる、ごめんなさい、ごめんなさい……やっぱり駄目だった。でも、で、でもっ、やだぁ……」


 ミナシゴロシさんはすすり泣くような声を上げる。

 触手の群れは、嘗め回すような動きで俺の体を蠢いた。

 どんどん圧迫感が強くなり、染み出た汚液が俺の服に滲む。

 アバラがぎゅっと押さえつけられて、口を塞ぐように肉塊が蠢く。


 泥沼で溺れているみたいだ。


「好き、大好きです……ずっと前から、好きだったんです。独りなんて寂しくなかった筈なのに、雨なんて冷たくなかった筈なのに! 貴方に傘を差された日から、自分が嫌いになったんです。私の体も、心も……こんなにドロドロで、ぐちゃぐちゃで、気持ち悪いなんて知らなかった……」


 そんな祈るような声と共に、何かが折れる音がした。

 痛みは無い。

 けれども、自分が歩けなくなった事はなんとなく分かった。


「私、化け物だから、こんな気持ち駄目だって思ってたけど、頑張ったけど……もう、無理みたい。ごめんなさい、好きになってごめんなさい、許して欲しいなんて言えないけど、だけど……」


 何もかもが苦しい筈なのに、何故だか雨音が鮮明に聞こえた。


「お願いします、私に傘を差して下さい」


 肉塊は必死に俺の口を塞いで、そう言った。

 俺は呻く事すらできず、ただただ息苦しさと腐臭に苛まれる。


 ズルリと、触手が一本だけ俺の元を離れる。

 触手は落ちた傘を拾い上げ、それを俺の手に押し付けた。

 ぎこちない動きで、触手が俺の腕を這いまわる。

 俺の手と傘は、絡みついた触手によってしっかりと固定された。


 傘は、いつも通りに冷たい雨から俺達を守る。


 雨音を聞きながら、俺は体中に纏わりついた肉塊の温かさを感じていた。

 身体は動かせない。声だって出せない。

 きっとミナシゴロシさんは、こうでもしないと傘を差してもらえないと思ったのだろう。


 こんな状況で何も言えないのは少しもどかしいけれど、もし口が塞がれていなかったとして、何かを言える気はしなかった。


 もう、藻掻こうとする気力も無い。

 俺は諦めて全身の力を抜いた。

 ぐっと、肉塊に体重が預けられる。


「……あっ」

 ミナシゴロシさんは不安そうに声を上げる。

 そして、傘と手に巻き付いていた触手が、いっそう強く絡みついてきた。


 これではもう、どちらが傘を差しているのか分からないな。

 俺は傘を持つ手にだけ、力を籠めなおした。


「……え」

 ミナシゴロシさんの、疑問とも困惑ともつかぬ声。


 俺は何をしているのだろうか?

 肉塊に一生添い遂げるつもりなんて無いし、肉塊と付き合ってやるつもりも無い。

 相変わらず腐臭はキツイし、肉塊が皮膚を這う感触には怖気が走る。

 ……けれども、肉塊が府川さんの振りをしていた時のような気持ちの悪さは、何故だか感じなかったのだ。


 ミナシゴロシさんは恐る恐るといった様子で、俺の手と傘に巻き付いていた触手を少しだけ緩めた。


 俺は変わらず、持ち続ける。


 巻き付けられた触手は、更に少しだけ緩められる。

 それでも傘を落とさない俺を見て、遂に触手は完全に俺の手から解かれた。


 今、俺はミナシゴロシさんに傘を差している。


 次に、口元を覆っていた肉塊がズルズルと剥がれ落ちた。

 それを皮切りに、全身を覆っていた肉塊も剥離しはじめる。

 そして、気が付くと以前の夢と同じように、俺は隣で蹲る肉塊に傘を差していた。


「…………」

 ミナシゴロシさんは何も喋らない。


「……なんか、色々あったけど、ううん、えっと」


 何を言おう。

 もう、ミナシゴロシさんは自分が振られた事を分かっているのだ。

 さっきの痛ましいくらいに悲痛な告白だって、全てを分かった上での言葉だった。


 しかし、それでも心のどこかで期待してしまう。

 恋愛感情とはそういうものだと俺は理解していた。


「……俺のどこが好きなの?」


「優しいところです」


「俺がそんなに優しい人間じゃない事、ミナシゴロシさんはもう気づいてると思うけど……」


「…………優しいですよ」


「そっか」


 雨が傘を打つ。

 俺は少しだけ、傘をミナシゴロシさんの方へと傾けた。


「今までみたいに、夢の中で傘を差してあげる事はできるよ?」


「……でも、ずっとじゃないですよね」


 ミナシゴロシさんの声は諦観の色を含んでいた。

 こんな問答に意味など無いと、俺も、彼女も、気づいているのだ。


「…………」


 雨脚が少しだけ強くなって、傘に跳ねる雨は妙に煩くなった。

 けれど、彼女が次に発した言葉は、雨音なんかじゃ誤魔化せないほど真っすぐ耳に届いた。


「私を、殺してくれませんか?」


 俺の傘を持つ手を、触手がそっと撫でる。


「……私が生きていたら、貴方に迷惑をかけてしまいますから」


 俺はその言葉に何と答えれば良いのか分からず、黙りこくってしまう。

 すると、触手はぎゅっと俺の手に絡みついた。


 女の子と手を繋いでいるな……なんて、俺は場違いな事を考える。


 ずっと何も言わない俺を見て諦めたのか、手に絡みついた触手はあっけなく解かれた。

 そのまま、肉塊はズルリと雨の元に体を晒す。


「……ごめんなさい」


 泣きそうな声だった。

 それは緩慢な動きで確実に俺から遠のいて行く。

 悲しげな背中を、雨に濡らして……。


 このまま、夢から目覚めて終わり。

 ミナシゴロシさんは俺の知らない所で、自殺する。

 そんなシナリオが頭を過った。


「あのさ!」


 気が付くと、俺は声をかけていた。


「約束してたデート! 行こうよ! ちょっと遅くなったけど!」


 雨にかき消されないよう、慣れない大声で呼びかける。


 俺がデートの約束をしたのは、府川優子だ。

 でも、ミナシゴロシさんは、肉塊の府川さんも、府川優子も、自分だと思っている。

 であればデートの約束も、きっとまだ消えてない。


 ……なんて、こんなの全部、自分への言い訳で、雑な理由付けだ。

 偽善で、薄っぺらい外面で、場当たり的な行動だ。

 そんな事は分かっている。

 それでも、こうやって理由をつけて、言い訳して、行動した俺を、彼女は優しいと言ってくれた。

 好きだと言ってくれたのだ。


 そんな彼女の為ならば、俺はあと少しだけ優しい自分を演じられる気がした。


「今日! 深夜1時に駅前で! 待ってる!」

 身体を起こしながら、俺は大声でそう叫んだ。


 瞬間、混乱と共に周囲を見渡す。

 俺を囲むのは見慣れた自室。

 そこで俺は、自分が夢から覚めた事を自覚した。

 一つ溜息を吐いて、俺はもう一度ベッドに体を預ける。


「……偽善者め」


 思わず漏れた俺の小さな呟きを、俺だけは確かに聞いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る