第35話 傘を下ろし、晴れだと知った

 何故だ? 府川さんは人間に戻ったはず。

 香菜ちゃんにも確認してもらったし、何より俺は府川さんに毎日学校で会っている。


 何が何だか、訳が分からない。

 分からないが……目の前に府川さんらしき肉塊が鎮座している事だけは確かだった。


「……府川さん、今までどうしてたの?」


 俺が返事をしたのが嬉しかったのが、府川さんはズルリと距離を詰めてきた。

 久しぶりの腐臭に、俺は吐き気を必死で堪える。


「え、えと、ね? へへ、あの女の子に、たくさんバールで殴られて、何でそんなことするんだろうって考えたの。そしたら、全部思い出して……思い出そうとしたら、全部思い出せて……全部っ、わ、私が悪かったの。だから私、優太郎君に迷惑かけちゃダメだって思って、だ、だからっ、座ってる優太郎君をずっと見てて、見てるだけで、それで、でも、寂しくなっちゃって……」


 府川さんは、子供のような口調でたどたどしく話した。

 どうにも要領を得ない説明だが、それでもいくつか分かる事がある。

 それは、この府川さんは肉塊化していた時から記憶を継続しているらしいという事だ。


 そこで俺は、少しだけ引っかかっていた香菜ちゃんの言葉を思い出す。

 たしか香菜ちゃんは、府川さんに元々かかっていた呪いの種類は『暗示』だと言っていた。

 そう、『変身』でも『憑依』でもなく、『暗示』なのだ。


 俺の脳内に、嫌な仮説が組み上がっていく。


 俺が府川優子を振った時、府川優子が一度気を失って目覚めると、元の府川さんに戻っていた。

 確かに府川さんは肉塊になっていたはずなのに、俺は肉塊が人の姿に戻るところなんて一度も見ていない。

 であれば、目の前の府川さんの正体は―――


「……私、本当は府川幸子じゃなかったの」


 その一言で、全てを察した。


「私、ずっと自分が府川幸子だと思い込んでた。でも、本当は魔法でそう思い込んでいるだけなの……本当の府川幸子は、妹のあの子。でも、あの子も魔法で自分の事を化け物だと思い込まされてるの」


 そう、そうなのだ、俺はずっと勘違いをしていた。

 そもそも府川さんは肉塊化なんてしていなかったのだ。


 あの化け物……ミナシゴロシさんの作戦は、自分の事をミナシゴロシさんだと思い込んだ府川さんと、自分の事を府川さんだと思い込んだ肉塊のどちらかを、俺に選ばせるというもの。

 つまり、どちらを選ぼうとも俺は部分的にミナシゴロシさんと付き合う事になる。


 自らを完全に駒として扱うその周到さに、俺は初めて化け物の本質を見た気がした。


「ねえ、優太郎君……私ね、ずっと考えてたの。全部覚えてて、辛いのも全部私が原因で、絶対私は化け物なのに……それでも私、自分を府川幸子だとしか思えない」


 ぬめる表面が、大きく収縮する。


「これ以上優太郎君に迷惑かけちゃダメだって思ってたの……それでもガマンできなく、私は化け物の力を使って毎晩優太郎君の夢を眺めてた」


 まるで救いを求めるように、無数の触手が俺に向かって伸びてくる。

 しかし、そのどれもが俺に触れる直前で、躊躇するように動きを止めた。


「……私、化け物だね」

 彼女は小さくそう呟くと、触手は萎れた向日葵のようにうなだれる。


「…………」


 俺は何かを言おうとして口を開き、また口を閉じた。

 分からない。

 何だ、これは?


 何も解決などしていなかった。

 俺はどうすれば良かったんだ?

 だって肉塊になっていたとしても、言動は府川さんそのものだったんだ。

 でも、府川さんは人として現実を生きている。

 じゃあ、目の前にいる彼女は?


 俺はそもそも何の為に……そう、府川さんに「たすけて」と言われたから。

 でも、それは自分の事を府川幸子だと思い込んだミナシゴロシさんで……。


 頭が混乱する。

 俺はもう、府川さんに対して恋と呼べるほど純粋な感情を持っていない。

 あるのは追憶とか、失恋とか、そんな諦めにも似た感情だ。


 今更……そんな……。


 それでも、俺の鼓動は驚くほど早くなっていた。

 これが俺の抱える未練なのだろう。

 彼女に縋られて、依存されて、俺の心は浮ついている。

 身体に血が巡る感覚と、浅くなる呼吸。


「……府川さんは、化け物じゃないよ」


 気が付くと、俺は熱に浮かされたかのようにそんな言葉を吐いていた。


「あっ、ぁはっ、はぁっ」


 甲高くて甘い、背筋も凍る声だった。


 果たして、肉塊は嬉しそうに身を震わせる。

 触手が一斉に俺の元へ迫る。

 そして今度は、その全てが俺の体を捕らえた。


「そうだよね、そうだよねっ! 私、人間だもん。府川幸子だもん。違うよね? 違うもんねっ! こんな記憶ウソだよね? 大丈夫だよね? あの女の子が言ってたことも、お母さんが言ってたことも、千場君が言ってたことも、全部、全部っ! ウソっ! ウソっ!」


 肉塊はまるで自分に言い聞かせるように、四方から口々にまくし立てた。

 絡みついた触手が、へばりついた肉片が、体を濡らす汚液が、クチュクチュと下品に音を鳴らして擦り寄ってくる。


「ねえ、ねえ、ねえっ、優太郎君は私のことが好きだもんね? ずっと一人で寂しかったよ? でもね、良いんだよね? 私のせいじゃないよね? 一緒にいても良いよね? ここはね、怖くて寂しくて寒いんだ? 景色も空も地面も、気が付いたら変になっていて、いつの間にか戻ってる。それでもずっと雨だけは、ザーザーポタポタ降ってるの。でもでも、優太郎君が来た時だけ晴れて、こんな綺麗な景色になるんだよ? ねえ、ずっと一緒にいて? 寂しいの、好きだよ、好きでしょ? 好きだから、一緒にいようよ」


 肉塊は自分の不安を誤魔化すように、俺の耳元で延々と囁き続けた。

 ベタベタと甘ったるい声、鼻に纏わりつく腐臭、皮膚を這う肉の感触……そして何より「好き」という言葉が、俺の神経を逆撫でし、暗い興奮を煽った。

 気持ち悪い。


「うっぇ……」


 高まり切った興奮のせいだろうか?

 訳も分からないまま、止めどなく吐瀉物が溢れた。

 自らを府川幸子と信じ込む肉塊の前で。

 ボトボトと喉奥からこみ上がる半固形物を、俺は全部吐き出したのだ。


 ……ああ、失敗したな。

 俺は、どこか冷静になって自分を俯瞰していた。


 幻滅されただろうな。

 今まで、肉塊の前でだけは吐かないようにと思っていたのに。

 だって、きっと府川さんが自分の醜悪さを一番気にしてる。


 俺は今まで、人畜無害で優しく善良で頼りがいのある『優太郎君』を肉塊に見せ続けていた。

 時折ボロが出た事もあったのかもしれないが、それでもちゃんと取り繕えていたと思う。

 その結果、肉塊は俺にここまで依存し縋っているのだ。


 もう、これで終わりか。

 俺は黙って、肉塊の反応を待った。


 果たして、ザワリと肉塊が蠢く。

 その姿はグロテスクに黒々しく、恐ろしいほど巨大だ。


「……ゆ、優太郎君、大丈夫? 吐いちゃってたけど、具合悪いの?」


「え……?」


 一瞬、耳を疑った。

 府川さんは、ただ普通に俺を心配したのだ。


「いや、あの、府川さん……俺、吐いちゃって……」


「うん、やっぱり具合悪い?」

 府川さんは、やはり心配そうにしている。


「じゃなくて、幻滅というか……格好悪いし、こんな奴が一緒にいても……」


「何言ってるの! 優太郎君はカッコ悪くないよ! それに、私とずっと一緒にいてくれるのなんて、優太郎君だけだもん!」


 軽蔑でも、幻滅でもない、いつも通りの府川さんだ。

 無数の触手は、いたわるように俺の体を支えている。


 ……ああ、そうか。

 俺って、別に完璧だから依存されてた訳じゃ無かったのか。


 府川さんに良い姿を見せたい、府川さんのように純粋で善良な人間じゃないと、府川さんの隣にはいられない……俺はずっと、そう思っていた。

 だから最初、千場はきっとそういう人間なのだろうと思っていたし、俺がそういう人間を演じていたから、府川さんは俺に依存しているのだと思っていた。


 でも、そういえば府川さんは「一緒にいてくれ」としか言っていなかったな。

 きっと一緒にいてくれるのなら、誰でも良かったのだ。


 一緒にいてくれるだけで良い……なんか、納得だ。

 俺が府川さんを好きになった理由だって、最初はそうだった気がする。


 ようやく、色々な事が飲み込めた。そんな気がする。


 本当は、ずっと前から気づいていたんだ。

 俺の憧れた、純粋で善良な府川さんなんて存在しない。

 俺は今まで、府川さんを理想化して、格好つけて、自分の恋に酔っていた。


 でも、いいかげん認めるべきなのだ。

 府川さんは結構空気が読めなくて、寂しがりやで、普通の人より少し優しい。そんな、普通の女の子。

 ……そして俺の、友達だ。


 だから俺は、そっと優しい笑みを作った。


 雨に打たれ悲しげに濡れていた肉塊を思い浮かべる。

 全ての原因は、やはり俺だった。

 あの悪夢を見た時、嫌悪も、恐怖も、確かにあった。

 それでも、何かと自分に言い訳をしてまで肉塊に傘を差したのは……とても寂しそうだったから。

 教室で独りだった俺に話しかけてくれた、そんな優しい府川さんのように俺もなりたかったから。


 俺は肉塊にもたれかかり、空を見上げ口を開いた。


「……俺がいるから、寂しくないよ」


 その言葉を聞くと、肉塊は一瞬震えてから、まるで溶けるように弛緩していった。

 やはり、暗示を解く条件は府川優子の時と同じだったのだろう。


 肉塊が完全に平たく広がりきる。

 そして次の瞬間、肉塊はドロリと俺に纏わりついた。


 雨が一滴、俺の頬を濡らす。

 気が付くと、空は茜に染まっていた。


 ここからが本番、これで最後。

 この子が雨に濡れたまま、この悪夢は終われない。


「……久しぶりだね、ミナシゴロシさんって呼べば良いのかな?」

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