第33話 君を見てる、心は見えないが

 府川さんは、いつも通り俺の少しだけ前を歩いた。

 改まって散歩を目的にするなんて、何だか妙だと思っていた。でも、赤らみ始めた空を眺め、二人きりで道を歩くというのは……以外にロマンティックだ。


 歩く度にチラリチラリと揺れる府川さんの私服を見て、自分が制服のままであるという事実が少しだけアンバランスに思える。


「それで、散歩ってどこへ行くの?」


「んー、決めないの!」

 府川さんはそう言って、いたずらに笑った。


「お散歩だから、目的地は決めないの。でも、目的はある……そんな感じ?」


「なんで提案した方が疑問形なのさ。まあ、良いけど。それで、目的って何なの?」

 俺もつられて無意味に笑いながら、府川さんにそう問いかける。


 府川さんは「秘密です……」と目を細め、俺はドキリと胸を高鳴らせた。

 彼女は人間に戻ってから、時折こういう表情を浮かべる。


 ……実のところ、俺はこの表情が苦手だった。


 何だか、いつまでも純粋だと思っていた府川さんが、少しだけ変わってしまったみたいで。

 とはいえ、嫌ではない。俺のこの深い瞳で優しく見つめられる事が、決して嫌ではなかったのだ。

 つまり陳腐な言い方をすれば……愛を感じていた。


 それでも、その表情を苦手とする理由は、やはり彼女が大人っぽく見えるからだろう。


 俺は結局、純粋や善良さへの憧れを捨て、利己主義に逃げた。

 それは、どうしようもなく子供染みていて……やはり、自分が嫌いであると結論が出る。


 でも、こんな思考さえ本当は現実逃避でしかないと、俺は分かっている。


「府川さん」


「……なあに?」


「目的地が無いなら、少し行きたい場所があるんだ」


 府川さんは首を傾げ、「分かった」と言って俺の隣に並んだ。


「行きたい場所って、どこー?」


「うーん。秘密、かな……なんて」

 別に秘密にする意味など無いが、府川さんを真似てそう言った。


「ふふふ」

 府川さんの表情は、いつもの無邪気なものに戻っていた。


「優太郎君、私ね、今、楽しいよ……」


 俺の隣を歩きながら、府川さんはそんな事を言う。

 ずっと、こういう開けっぴろげな好意を信じられずにいたが、何故だか今日は素直に受け入れる事ができた。


「……府川さん、これはデートかな?」


「うん、カップル……恋人同士のお散歩はデートだよ!」


 また、俺達は無意味に笑いあった。

 何度も意味の無い会話を繰り返している、それが楽しい。

 自分は存外、簡単な奴なのだと思った。


「……あ、雨だ」

 俺の頬に、冷たい水滴が走る。


 手のひらを上にして空を見上げると、ポツポツと雨が降り出し始めたところだった。

 俺は急いで、通学用カバンから折り畳み傘を取り出す。


 傘、常備しておいて良かった。


 俺は傘袋をポケットに突っ込み、小さな黒い傘を差した。


「…………」


 府川さんが、肩と頭を少しだけ濡らして立ち止まっていた。

 彼女はボンヤリと道を眺めている。いや、何も眺めていないのかもしれない。

 しかし俺には、その定まらない視線が何かを期待しているように思えてならなかった。


「風邪ひくよ……」

 俺はそっと、府川さんに傘を差す。

 悪夢の肉塊を思い出した。でも、躊躇はしなかった。


「うん」

 何故か府川さんは、少しだけ寂しそうに小さく返事をした。


「……相合傘だね~! デートっぽい!」


 気が付くと、府川さんは無邪気な笑みを浮かべて俺を見つめている。


「はは……あ、そろそろ着くよ。俺が行きたかった場所」


「え?」


 傘を少しだけ府川さんの方に傾けて、角を左に曲がった。

 すると、寂れた鳥居が目に入る。

 俺が考え事をする時、たまに立ち寄る古い神社だ。


 そしてここは、ミナシゴロシさんに願い事をする場所でもある。


 ……五時になった。

 パラパラと雨が傘を打つ中、少し割れた音の『ゆうやけ こやけ』が鳴り響く。


「ねえ、府川さん……」


「なあに?」

 府川さんは答える。


「俺の事を、どう思ってる?」

 不思議と緊張はしなかった。


「好きだよ!」

 すぐに、府川さんはそう答えた。

 無邪気な、嘘っぽい声で。


 ……なるほど。

 これは恐らく本心なのだろう。

 俺は納得して、少し泣きたくなった。


「今まで、ありがとう」

 心から、そう思った。


「どうしたの~? そんなに改まって」


 府川さんは、俺に優しく笑顔を向けてくれた。

 府川さんは、俺と一緒に昼食を食べてくれた。

 府川さんは、俺の為に時間をかけて私服を選んでくれた。

 府川さんは、俺を散歩に誘ってくれた。

 ……全部、心から俺を好きだと思ってくれているからだ。


 でも、俺の事を心から好きだと言ってくれたのは―――


「ねえ、妹さん。もう府川さんのふりはしなくて良いよ」


 俺の隣に立つ少女の顔が強張る。


「え、な……ち、ちがっ、府川幸子、だよ?」


「府川さんの肉塊化によって妹さんの目的が達せられたなら、以前と以降で変わった事は何か? とか、何故俺だけ記憶が改変されていないのか? とか……色々考えた。そしたら、まあ、何となく察しはついたから」


「……」

 妹さんは黙っている。


「妹さんが、府川さんを肉塊に変えたり、皆の記憶を改変したりしたんだよね?」


「……なんで、私が以前の府川幸子と違うって分かったんですか? なんで、私は府川幸子の代わりになれなかったんですか?」


 妹さんの縋るような瞳に、俺はできる限り優しい表情を作って返した。


「やっぱりさ、府川さんが俺の事を好きになるなんて変だから……」


 妹さんは、そんな俺を見て酷く悲しそうな顔をした。


「……私じゃ、駄目ですか? あの肉塊と私なら、白石さんは私を選ぶと思ってました。でも、あの肉塊が選ばれなかっただけで、私も選ばれる事は無かった。なら、私が府川幸子になれば良いと思ったのに……」


「…………」

 俺は何と答えれば良いのか分からず、黙って妹さんの目を見た。

 その瞳には、涙が溜まっていた。


「私は、白石さんの事が好きなんです!」


 喉に詰まった言葉を無理やり吐き出すように、彼女はそう言った。

 俺はそんな妹さんを見ている事すら辛くなって、ただゆっくりと俯いた。


「……俺は今まで自分の事しか見てこなかったから、妹さんが何で俺を好きなのかすら分かんないよ」


 一瞬、雨が傘を打つ音しか聞こえなくなった。

 足元では、アスファルトの上を雨粒が跳ねている。

 おしゃれな妹さんの靴は、少し濡れてしまっていた。


「傘を、差してくれたからです」

 妹さんが呟く。


「……え?」


「何度も傘を差してくれたから、私は貴方を好きになりました」


 妹さんが、スッと傘の下から出る。


「あの肉塊を最後まで府川幸子だと言い切った貴方は、私の事を悪夢の肉塊と呼ぶのでしょうね」


 思わず顔を上げる。

 果たして、妹さんは真っすぐに俺を見つめていた。


 その表情を見て、俺は小さく溜息を吐く。

 妹さんの正体が人の願いを叶える化け物だというのであれば、なるほど今回の人智を超えた騒動を引き起こせたのにも納得だ。


「……それじゃあやっぱり、全ては俺なんかと付き合う為にやったって事?」


「はい」


 彼女は雨に濡れながら、俺を見て唇を弧に歪ませる。


「白石さん。貴方は私を、好きになってくれますか……?」


 俺は初めて、妹さんから告白された気がした。

 そして次に……ふざけるな、と。そう思った。


 恐らく俺は、ここで初めて『府川幸子』と『府川優子』を切り離して考えた。

 『府川さんの妹』ではなく、『府川優子』という存在と向き合ったのだ。


 泡立つ憎悪が、行き場のなかった無力感が、濁流のように脳を流れる。


 こいつのせいで府川さんがどれだけ辛い目にあった?

 あんなに純粋だった府川さんが、俺に媚びた声を出すほど歪んだんだぞ?

 全部、俺と付き合う為……つまりは、こいつ自身の為。


 最悪の気分だ。


 だって俺は、自分の為に肉塊化した府川さんと千場を引き合わせた。

 香菜ちゃんが府川さんを殺しに行ったと知りながら、止めなかった。


 こいつは、俺と同じくらいに利己的だ。

 自分に向けて怨嗟の言葉を吐くように、こいつに向けて罵詈雑言を吐き捨てたい。

 今すぐにでも消えろと言ってしまいたい。


「……え?」

 府川優子は、小さく声を上げた。

 俺が再び、彼女に傘を差したからだ。


 俺は府川さんのように善良である事なんか諦めたけれど、それでも善い人の振りをした。


 だって、告白された。

 自分が府川さんに告白された時の事を思い出した。

 痛いほど、目の前に立つ少女の気持ちが分かった。


「……ごめん、俺は君を好きになれない」

 俺は、府川優子の頭や肩をハンカチで軽く拭いながら言った。

 彼女は息を呑み、ゆっくりと俯く。


「それは、白石さんが府川幸子を好きだからですか?」


「……ああ」


「私じゃ、駄目なんですか? 身体は府川幸子と全く同じですよ? 私、貴方が府川幸子に消しゴムを貸した事だって知ってます! 貴方が府川幸子に貸した小説の内容だって知ってるんです! 今までの、府川幸子と貴方のやり取りを全部知ってます! それでも駄目なんですか!」


 彼女は俯いたまま、まくし立てるように言葉を続ける。


「あの肉塊も、私も駄目なら! 府川幸子って何ですか? 私はどうやったら府川幸子になれるんですか? 私はどうやったら貴方に……」


 最後の言葉は雨音に消え、それきり府川優子は黙り込んだ。


 ああ……今、この子がどうして欲しいのか、俺は痛いほどに良く分かる。

 だから俺は傘を落とし、小さな肩をそっと抱き寄せた。

 濡れる背中は酷く冷えたが、彼女と触れ合っている部分だけは温かい。


「……やっぱり、俺は君と付き合えないよ」


 府川優子の肩が小さく震える。

「分かり、ました……」


 彼女はそっと、俺の体を突き放す。


「以前の府川幸子を想いながら私に呼び掛けて下さい。そうすれば、府川幸子は元通りになりますから」

 泣いているような、笑っているような顔で、府川優子はそう言った。


 雨はもう、止んでいる。

 俺は彼女の頬に伝う涙を見つめながら、覚悟を決めて口を開いた。


「……府川さん、好きだよ」


 俺の言葉を聞くと、彼女は一瞬だけ笑顔を浮かべる。

 そして、目を瞑ると俺の方へ倒れこんできた。

 慌てて体を支えると、彼女は「……んぅ?」と寝ぼけたような声を出した。


「んあ? あれ? 優太郎君? うわ! びしょびしょだよ! 大丈夫?」


「はは、大丈夫。それに、府川さんも濡れてるしね」


「えー? うわぁ……ほんとだ、何で?」


 府川さんは自分の体を見まわし、目を丸くしている。

 夕日に照らされた彼女は、キラキラと輝いていた。


 俺は気を抜くと泣き出してしまいそうだったけれど、いつも通りの笑みを作って口を開いた。


「とりあえず、帰ろう?」


「うん!」


 元気に返事をした府川さんは、水たまりを散らしながら歩き出す。

 俺はそんな光景を眺めながら、彼女の少し後ろを歩くのだった。

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