第29話 毒虫は、人のふりを諦めた

 久しぶりの二人で歩く帰り道、俺の胸中には確かに嬉しさがあって、それ以上に不安だった。


 そんな俺の心境はいざ知らず、前方を歩く府川さんは酷く楽しげだ。

 その軽快な足の動きは、今にもスキップを始めてしまいそうな勢いがある。


 ……これは夢なのではないか?

 すぐにでも目が覚め、あの悪夢のような状況に再び引き戻されるのではないか?

 そんな思考が、頭の中には常に燻っていた。


 何も、信じられない。


「あっ! 見て見て優太郎君! アレ、空! すっごくきれい!」


 そう言って、府川さんは無邪気に天を指さした。


 俯きがちだった視線を上に向ける。

 空には細かくちぎった綿のような雲が浮かび、黄色と紫の光を反射していた。

 確かにそれは綺麗だが、人生を続けていればそのうちに飽きてしまうような光景だ。


 そんなものを見て無邪気な笑みを浮かべている彼女はやはり、府川さんなのだろう。


「……確かに、綺麗だね。鱗雲って言うのかな?」


「うん! 分かんないけど、きれいだよね!」


 ふふふ、と小さく笑った後で、府川さんは再び楽しそうに歩き始めた。

 空を見上げながら。


 俺はその背を、ぎこちない笑みを浮かべながら見つめる。

 ……いっそ、アスファルトにこびり付いたガムでも眺めたい気分だった。


 やはり、府川さんは元に戻ったのだろうか?

 現状を簡単にまとめると「肉塊と妹さんの存在が消えた」その一言で説明がつく。全ては、全てが始まる前に元通り……そう、思っていた。


 そう思えていたままだったなら、俺はきっと馬鹿みたいな面を下げ、徐々に非日常を忘れていけた筈だ。

 でも、俺は見てしまった。

 今と以前の明確な差異を。

 府川さんが、千場に心底興味なさそうにしている瞬間を。

 その事実が、小骨のように引っかかる。


 だって、府川さんが千場に興味を持っていないというのなら、俺が振られた理由はどうなった?

 肉塊に関する記憶が全て消えているとして、千場に化け物と呼ばれ傷ついた府川さんの気持ちはどうなった?


 俺が振られた理由は消えたのか、知りたくて仕方がない。

 俺はもう振られたのだから、そんな事を知る必要は無いのに。


 俺が今、告白したらどうなるのか、気になって仕方がない。

 府川さんの事が好きでなくなったのだから、そんな事を気にする意味は無いのに。


 果たして、俺は立ち止まった。

 府川さんが不思議そうな顔をして振り返る。


 くるりとした大きな瞳が、俺を見つめる。


 今ならまだ、引き返せた。しかし俺は、酷く不誠実な好奇心を抑える事ができなかったのだ。


「……府川さんが俺を振った時に言ってた、他にいる好きな人って、誰?」


 つい昨日、妹さんに「府川さんの事を好きだと思えなくなった」と告げた口で、俺はそんな事を問うたのだ。


 府川さんは、丸い目を更に丸くする。

 そして、薄く、小さく、儚げに微笑んだ。


「優太郎君だよ……」


「……え?」


 府川さんは、ますます笑みを深める。

 先ほどの消えてしまいそうな表情から一転、酷く蠱惑的な笑みだった。


「私……府川幸子は、優太郎君の事が好きなんだよ?」


 そう言って、府川さんは首を傾げる。


 息が詰まった。

 ずっと夢に見た言葉だった。

 少し、泣きそうだった。


 心が、感情が、現実にまるで追いつかない。


「ねぇ、優太郎君は……私の事、好きだよね?」

 府川さんはいじらしくも上目遣いで、そんな問いを提示する。


「っぅ、えぁ、ぅ、うん。はい。いや、っと……」


 脳の処理が追い付かない。

 俺はもう、府川さんの事が好きでは無い筈だ。

 そんな言葉を自分に言い聞かせる。


 ……だが、俺は結局小さくうなずいた。


「ふふっ、じゃあ今週末にデート行こうよ」


 やはり府川さんは、無邪気に笑って見せるのだ。


+++++


 家に着いた後、俺はすぐさま自室に籠った。

 気持ちの悪い、吐きそうだけれど吐けない、そんなもどかしい感覚を誤魔化すようにうずくまる。


 ベッドの上で独り、小さく浅く息を吐いた。


 一度、現状を整理しなければ……。

 頭の中が、どうにかなってしまいそうだ。


 府川さんに、告白された。

 府川さんが、俺の事を好きだと言った!


 肉塊の時に口にした、捨てられないよう媚びた嘘の言葉とは違う。

 本当の告白。


 どうやら、この世界は俺の理想らしかった……。


 自分の動揺が分かる。

 今も、思い出しているだけなのに心臓がバクバク鳴っている。

 訳の分からない緊張感で、ただひたすらに吐きそうだ。


 ……間違いない。

 俺は、府川さんの事が好きだ。

 好きだったけれど、それ以上にあの肉塊を体が受け付けない。


 そんな感情と現実の矛盾が「府川さんの事を好きではなくなった」等という、とち狂った結論を導き出したのだ。

 思えば、肉塊がいた頃はずっと頭の中がぐちゃぐちゃで、自分の為だと言い訳をしながら府川さんの為に生きようとしていた。


 まったく、どうりで全てが上手くいかない筈だ。

 俺はずっと、自分の為と府川さんの為がごっちゃになって、目的も手段もまるで定めず場当たり的に振り回されていたのだから。


 思考が、心と嚙み合っていくのを感じる。

 俺はやはり、俺の為にしか生きられない。

 俺という人間は、府川さんのように人の為に何かをできる善良な人間にはなれないのだ。

 今回の件で、それが良く分かった。


 勿論、その結論は諦めか、或いは開き直りでしかないと分かっている。

 だがそれでも、自らが利己主義者である事を受け入れたことで、確かに心は軽くなっていた。


 クリアになった頭で、今すべき事を考える。


 現状考えられる最悪の事態は、再び府川さんが肉塊化する事だ。

 だが、今のところ府川さんが肉塊になった理由も、人間に戻った理由も分かっていない。

 今日、唐突に府川さんが人に戻ったように、唐突に肉塊になるとも限らないのだ。


 ……取り合えず、肉塊化の原因究明は急務だな。


 うずくまっていた体をゆっくりと解き、立ち上がる。

 もう、吐き気は消えていた。


 これから俺がやるべき事は、肉塊化の原因究明。

 その為にも、まずは妹さんの調査を始めよう。

 肉塊と共に存在が消えた以上、彼女が重要人物である事は明らかだ。


 だが、消えた人間を見つける事などできるのか?

 そもそも妹さんを知る人は少ない上に、府川さんも香菜ちゃんも、妹さんの事を覚えていなかった。


 誰の記憶にも残っていない以上、何の手がかりも……いや。


 俺は急いで自分のスマホを取り出す。

 開いたのは、通話の発着履歴。


 ……やっぱり。


 そこには、俺が過去に妹さんと通話したという事実が記録されていた。

 もしかして……と思ったが、予想通りだ。

 肉塊と妹さんに関する記憶が失われていても、記録は失われていない。


 手掛かりは、消えてない。


 俺は、ひとまず府川さんが肉塊化していた期間のメッセージ履歴を読み返す事にした。


「…………はあ」

 そうか、これも残っているのか。


 画面に映し出されたのは全ての始まり。

 府川さんから送られてきた、たった四文字のメッセージ。


『たすけて』


 スマホを握りしめる手に、力が入る。

 俺は結局、府川さんを助けられなかった。

 そもそも、俺に人を助ける事など出来なかったのだ。


 改めて、覚悟を決める。

 俺は利己主義者だ。人の為、なんて難しすぎる。


 ……だから府川さんの為では無く、俺は俺の為にこの世界を勝ち取るのだ。

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