第28話 夢と現の相違点

 府川さんの部屋を後にして、俯きながら階段を下りる。

 なんともやるせない気分だった。


 俺の行動が全て裏目に出ている。

 最初から、ずっと……。


 もう好きではなくなった、という情けない理由だとしても、ここ数日府川さんと関わっていなかった俺は正しかったのだ。

 やはり、俺は府川さんの為に何も出来ない。

 府川さんを千場に会わせて失敗した時に、おとなしく身を引くべきだった。


「あ、白石さん」

 もう帰りですか? と、リビングから妹さんが顔を出している。


 慌てて表情を取り繕おうとしたが、きっと今の俺は上手く笑えていない。


「ああ、妹さん。ごめんね? 急に来ちゃって」


「全然構いません! いつでも来て下さい」


「ああ……いや、もう来ないかも」

 すぐに、いう必要のない事を言ったと気が付いた。

 だが、今の俺には誤魔化す気力も残っていない。


 妹さんのこわばる表情をボンヤリと眺め、次に続く言葉を待つ。


「何故、ですか……?」


「府川さんの事を、もう好きだとは思えなくなったから」

 口にした初めて、その言葉に違和感を覚える。

 しかし、違和感が思考になる前に、俺の言葉は肯定された。


「へへ……当然です。あんな肉塊、好きになる人なんていませんよ」

 そう言って、妹さんは口角を上げる。

 しかし、俺にはどうしてもその表情が笑顔だと思えなかった。

 尤も、それがどんな感情を表す顔なのかは皆目見当もつかないが。


「……妹さんは、ずっとここにいるよね」


「そうですね」

 ただ事実を肯定するように、妹さんは答える。


 逃げ出したくはならないのか? 

 そう問いかけようとして、止めた。


「じゃあ、さよなら」

 俺は後ろを向き、玄関の扉を開けた。

 外は雨だ、俺が府川さんたちと問答をしている間に降り出したのだろう。

 とはいえ、濡れる事を嫌がるような気分でもない。

 俺は傘を持たぬまま、外へと一歩踏み出した。


+++++


 ……田舎道。

 雨が降っている。

 これは夢だ。


 周囲を見渡す。

 案の定、肉塊はそこにいた。


 けれども、肉塊はいつもの夢に出てくる時と比べて随分と小さくなっている。

 それに、弱っているようにも見えた。

 香菜ちゃんにつけられた傷が癒えていないのだろう。

 ……やはり、夢の中の肉塊は府川さんと同一人物だったのだ。


 俺は、おもむろに肉塊の元へ歩く。

 それを認識したのか、肉塊はピクリと震えた。


 いつも通り傘を差そうとして、止める。

 ……もう、関わらないと決めた筈だ。


 肉塊に背を向けたところで、俺は目が覚めた。


 体を起こす。

 ボンヤリとした思考をぶら下げて、もそもそもと朝食を食べる。

 母が何か言っているが、いまいち頭に入ってこない。


 この感覚は、なんと言うのだろう?

 現実に身が入らない……みたいな。

 冷静になると昨日の事を思い出すから、頭が思考を制限しているような、そんな感覚。


 俺は機械的に学校へ行く準備を整え、家から出た。


「……あ」

 家の前には、妹さんと香菜ちゃんが立っていた。


「おはよー!」

「おはよう、お兄ちゃん」


 二人は、無邪気に挨拶の言葉を放つ。

 そこで、ボンヤリと虚ろだった思考が急速に現実味を取り戻した。

 改めて、ハッキリと二人の姿を認識する。


 ……体を削られ血塗れになった府川さんの姿が、酷く鮮明に脳裏を過った。

 耳元で「私のせいだ」と呟く声が何度も聞こえる。

 まるで、心だけがあの薄暗い部屋に引き戻されたかのようだ。


「っうぇ……!」


 吐いた。

 苦しい、息が吸えない。

 そして何より、怖かった。

 何が怖いのかは自分でも分からない。


 慌てたような二人の声が、どこか遠くに聞える。

 頭の中で反響する府川さんの声は、まるで俺を責め立てているようだった。


 それでも、俺は無理やり口角を上げて見せる。

「……大丈夫、ごめん。俺はこれ片づけて学校行くから、香菜ちゃんと妹さんは先に行ってて」


 俺の返答に、妹さんは眉をひそめる。

「なに言ってるのー? 私は府川幸子だよ!」


「……は?」


「もー、忘れちゃったの? 君の前の席の、府川幸子ですよー!」


「いや、え……? あの、大丈夫だから。そういう気づかいはいいよ。妹さん」

 ドキドキと、脳裏に浮かんだ一抹の期待を自分で塗りつぶすように、そう口にする。

 だって、府川さんは肉塊だ。

 きっと妹さんが、俺を元気づけようとして府川さんの振りをしているのだ。


「もう! 優太郎君! 私に妹はいないよ!」


 ウガー! とばかりに、妹さんは声を上げる。

 そのオーバーリアクションは、確かに府川さんらしかった。


「……本当に、府川さん……なの?」


「最初からそう言ってるよー?」

 府川さんは腰に手を当て、怒った振りをする。


「は、はは……」

 訳が分からなかった。


 横目で香菜ちゃんの様子を確認しても、特に現状を疑問に思っている様子は無い。

 昨日ぐちゃぐちゃにした相手が目の前にいるのにも関わらず、だ。

 それに、府川さんの『妹がいない』という言葉も気になる。

 何より、この府川さんは自分が肉塊化していた事を認識しているのか?


 疑問は尽きない。

 それに、現状はどこか不気味だ。


 俺は、そこかしこにある違和感の正体を掴みきれぬまま、曖昧に笑みを浮かべた。


+++++


 教室の雑音を聞きながら、机に突っ伏して考える。

 今は放課後、ホームルームも終わり皆が帰り支度をしている時間だ。

 今日一日で、俺は最低限の情報を集めた。


 府川さんや香菜ちゃんだけでなく、周囲の人間からも妹さんと肉塊の記憶が消えている。

 そして、消えている部分の記憶は何となく補完されており、誰もそこまで記憶の整合性を気にしていないようだった。


 ……訳が分からない。

 府川さんが言うには、両親も家に帰って来ているそうだ。

 全て、元通り。


 俺だけが、妹さんと肉塊の事を覚えている。

 何がどうなっているんだ?


 これも化け物の力か? それとも、俺の頭がおかしくなっているのか?

 冷静に考えて、人が急に肉塊になる訳がない。

 誰も、今まで府川さんが休んでいた理由なんて気にしていない。


 頭を掻きむしりたくなった。

 ずっと、何も分からないままだ。

 どうすれば良い? 分からない、分からない、分からない……。


 そんな時、前方から聞いた事のある声がした。


「あ、ふ、府川さんっ! 一緒に帰りませんか?」

 この自信の無さそうな喋り方、いかにも人畜無害ですといった風貌……府川さんに告白された男、千場だ。

 考えてみると、こいつから肉塊の記憶が失われているのだとすれば、今の府川さんは千場と付き合っている事になるのか。


「…………」


 俺はこれから繰り広げられる気分の悪いやりとりを予測して、そっと席を立った。

 しかし、背後から聞こえてきた府川さんの反応は予想外のものだった。


「あ、えっと……誰だっけ?」


「え? いや、あの、千場です。一応、その、彼氏の……」


「あ、あー、なるほど?」

 府川さんはイマイチ状況を把握していないようだ。


「えっと……」

 所在無さげにしていた千場がスマホを取り出す。


「ほら、これ」

 そこには、確かに府川さんから送られてきた告白のメッセージが表示されていた。


「あー、それ……間違って送ったメッセージだから」

 驚くほど興味が無さそうに、府川さんは告白を撤回した。


「え……?」

 千場は、酷く困惑したような表情で府川さんを見る。

 そんな彼を置いて、府川さんはクルリとこちらを振り向いた。


「優太郎君! 帰ろっ!」


 千場は、困惑したような視線を俺に向ける。


 そんな目で見られても、俺にだって訳が分からない。

 府川さんは千場の事を本当に好きだった筈だ。

 千場に肉塊の姿を見られたくないという言葉も、千場を優しくて正義感が強いと評した言葉も、決して嘘には見えなかった。

 それとも、肉塊にまつわるあの記憶そのものが嘘なのか?


 目の前に立つ府川さんは、以前と変わらぬ無邪気な笑みを浮かべていた。

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