第27話 愛の在処と赦しの行方

 俺は咄嗟に香菜ちゃんを追いかけようと一歩踏み出したところで、香菜ちゃんに言われた言葉を思い出して動けなくなった。


『お兄ちゃんを悩ませて、吐かせて、打ちひしがれるまで追い詰めて、悪気の有無とか関係ない。化け物は、存在そのものが悪なんだ……それは、お兄ちゃんも身に染みて分かってるだろ?』


 ……俺はこの言葉に、反論しなかった。

 ここ数日で、俺も自覚していたのだ。俺が府川さんを好きでいられなくなった理由を。


 好きだという虚勢すら張れないほどに、あの肉塊は化け物で……。

 付き合いきれなくなるほどに、府川さんを気持ち悪いと思ってた。

 なにかと理由を捻りだして自分を無理やりにでも納得させないと、府川さんと一緒にいられなかった。

 思えば俺は、肉塊の姿を見た時点で府川さんの事が好きではなくなっていたのかもしれない。


 香菜ちゃんが府川さんを殺せば、どうなる?

 ……分からない。

 分からないが、「好き」を貫けなかった俺がしゃしゃり出る幕ではない事くらいは分かる。


「はあ……」

 何で今まで、府川さんは自分がミナシゴロシさんとかいう化け物だと教えてくれなかったのだろう?

 府川さんは今まで人の姿に化けていたのか?

 そもそも、俺が持っている府川さんとの記憶は本物なのか?

 府川さんは俺と関わって何をしたかった?

 本当に、何もかもが分からない。


 府川さんが親にも彼氏にも見放されて俺だけを頼ってくれた事も、何か目的があって仕組んでいた事だったのか?

 もしそうなら、どうして俺にその目的を話してくれなかったのだろう?

 ぐるぐる、ぐるぐる思考が頭を回り続ける。

 考えれば考えるほど、自分が何も知らないのだと思い知らされた。


 ……知りたいな。

 自然と、そう思った。

 純粋で、正直で、嘘なんか吐けないと思っていた府川さんが、俺に話していない事。

 それを聞くくらいの権利は、俺にだってあるはずだ。


 俺は自然と電話をかけていた。


「もしもし、府川さん?」


「わ~! 優太郎君? 今日はいっぱい電話する日だねえ」

 電話越しの府川さんは、能天気にそう言って笑った。

 この様子だと、香菜ちゃんはまだあちらに着いていないらしい。


「……何度もごめん。ちょっと、まだ聞きたい事というか、知りたい事があって」


「なになに? 私、あんまり物知りじゃないけど、何でも聞いて!」


「えっと、さ……府川さん、ミナシゴロシさんって知ってる?」


「え~? 誰? なんか、怖い話?」

 府川さんは、本当に何も知らないといった声音で返事をする。

 その様子に違和感は無い。いつも通りだ。


 でも俺には、そんな言葉さえ疑わしく聞こえた。

 尤も、今まで誰かの言葉を疑わなかった事なんて無いけれど。


「……ミナシゴロシさんってのは、願い事を叶えてくれる化け物なんだってさ」


「えっ! すごいじゃん!」


 府川さんの無邪気な反応を後目に、今から核心を突こうという俺は酷く緊張していた。

 ゴクリと、唾を飲みこむ。


「願い事をしたら、ミナシゴロシさんが夢の中に現れるらしい……肉の塊みたいな姿で」


「ふーん……」


 手に汗をかきながら、俺は府川さんの次の言葉を待つ。


「なんか、私と似てるね。それで、聞きたかったのは、その人を知ってるかってことだったの?」


 府川さんは「あんまりお化けは知らないからなあ」などと嘯いている。

 あくまで、しらを切るつもりか?

 ……であればもう、直球で聞くしかない。


「俺は、府川さんがそのミナシゴロシさんなんじゃないかと疑ってる」


「えぇっ?! 違うよ~!」


「でも、府川さんは人間だった時から、肉塊の姿で俺に傘を差される夢を見てたんだよね?」


「……う、うん」


「俺も、同じ夢を見てたんだ。夢の中で、何度も肉塊の府川さんと会ってる。そして、ある日突然、現実の府川さんも肉塊になった。ミナシゴロシさんも肉塊の姿をしている。他に怪しい人はいない……もう、府川さんがミナシゴロシさんだとしか思えないんだよ」


 俺の質問に、府川さんは困惑したように唸る。


「でも……私……分かんない。私、人間じゃないの? お母さんや、お父さんが正しかったの? 千場君や、優子が正しかったの……?」


 府川さんは、泣きそうな声で言葉を続ける。


「……私、化け物なの?」


 その縋るような声に、俺は何も言えなかった。

 府川さんは俺に嘘を吐いていると思っていたのに、府川さんもやはり、俺と同じくらい何も分かっていないようだったから。


 誰が悪いんだ?

 何がどうなっている?

 府川さんは明らかに化け物だ。でも、府川さんは確かに人だった。


 俺のこんがらがった頭にメスを入れるように、電話の向こうから香菜ちゃんの声が響いた。


「お前は化け物だ」


 次の瞬間、苦痛の悲鳴と共にグチャリと肉を抉る音が聞こえた。


「化け物がっ! どれだけ人に擬態してもっ! 私には分かるっ! その眼は不気味に濁ってるぞっ!」


 香菜ちゃんが怒鳴る度、肉が潰れるような音と、痛い痛いと叫ぶ声がする。


「お前も奪うんだろっ! 蓮一兄さんを奪ったみたいにっ! 私からっ! お兄ちゃんをっ!」


 どんどん、どんどん、肉を潰す音のペースは速くなっていく。

 対照的に、聞こえてくる悲鳴は弱々しくなるばかりだ。


 その時、電話口から声が聞こえた。


「……ゆ、た……くん、たす……け、て…………」

 酷くかぼそい、府川さんの声だった。


 電話から破砕音が響く。

 続いて、通話が切れた。


 恐らくスマホが壊されたのだろう。

 そこでようやく、俺は震える足で立ち上がった。


「助けなきゃ……」

 好きとか、好きじゃないとか、化け物とか、人間とか、そういう話じゃない。

 府川さんが、殺されそうになってるんだ。

 だから、止めに行く。


 遅すぎる決意だ。

 それでも、もう走るしかなかった。


 +++++


 府川さんの母親からもらった鍵で、玄関のドアを開ける。

 そして俺は、鍵も抜かずに二階へと駆け上がった。

 肉を潰す音も、悲鳴も聞こえない。

 広がる静寂の意味を考えないよう、ただただ走った。

 目の前に、府川さんの部屋。

 体を押し込むようにして、俺は勢いよく部屋に飛び込む。


「……っ!」


 視界に広がるのは、凄惨な光景。

 部屋中に飛び散る真っ赤な血と、おびただしい数の肉片。

 その中心で、全身に血を浴びながらバールを片手に佇む少女。

 足元には、グチャグチャに抉れた肉の残骸が蠢いていた。


「府川さんっ……!」


 しゃがみ込んで、随分と小さくなった肉塊を抱き上げる。

 すると、府川さんが小さな声で何事かを呟き続けている事に気が付いた。


『私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ』


「…………」

 耳を澄ませて聞こえてきたのは、延々と続く自責の言葉。


「香菜ちゃん……府川さんに、何したの」


「殺そうとした。でも、どれだけグチャグチャにしても死なないから、どうしようか考えてた」

 香菜ちゃんは、無感情にそう言った。


「……そう、か」

 いつも通りの仏頂面に、俺はかすれた声で返答する。


 泣きたくなった。

 最初は府川さんを助けたくて香菜ちゃんを頼った筈なのに、何故こうなったんだ。

 もう何もかもが滅茶苦茶で、感情はグチャグチャ。

 どうして良いか分からない。

 恐らく府川さんは化け物だけど、きっと本当に何も分かっていないんだ。


 また、俺が引っ掻き回して府川さんを苦しめただけだった。


「……帰ろう、香菜ちゃん」


「でも、ソイツ殺さなきゃ。化け物だから」

 香菜ちゃんの真っ直ぐに冷たい瞳は、府川さんを見つめている。


「……府川さんは、化け物じゃないよ」


 香菜ちゃんは、観察するように俺の目を見る。

 そして、小さく鼻を鳴らすと部屋から出て行った。


 パタンと、ドアが閉まる。


 心が現実に追いつかないまま、俺は閉じられたドアをボンヤリと眺めていた。


「……俺も帰ろ」


 そっと府川さんを床に下ろし、立ち上がる。

 俺が部屋を出るその瞬間まで、府川さんは「私のせいだ」と呟き続けていた。

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