第26話 手を伸ばし、眼は瞑った

「は……?」


 元から府川さんが化け物だった。突然そんな事を言われ、俺の思考は一瞬停止する。

 だが、脳の冷静な部分がすぐさま香菜ちゃんの言葉を否定した。


「香菜ちゃん、府川さんが元から化け物だったなんてあり得ないよ。だって俺は、人間だった頃の府川さんを知っている」


 その単純でいて当然の反論に、しかし香菜ちゃんの表情は変わらない。


「お兄ちゃんは、夢の中でこんな経験無いか? 外見の特徴は全くの別人だったのに、夢の中ではその人を現実の知り合いだと認識していた事とか、明らかに構造が違う家を夢の中では自分の家だと認識していた事とか……あとは、全く知らない人物を夢の中だと旧友のように思っていた事とか」


「え……いや、まあ、あるけど」

 矢継ぎ早に投げかけられた質問に戸惑いながら、俺は恐る恐る肯定した。


「そう、夢の中って人の認識が酷く曖昧になるんだ。そして恐らく、府川幸子は夢にまつわる化け物だ」


「でも、俺が府川さんと会っていたのは間違いなく現実の話だよ」


「そこが、化け物の化け物たるゆえんだ」

 香菜ちゃんはそう言って小さく顔を顰める。


「あの肉塊……私は恐らく『ミナシゴロシさん』だと思っているんだが、そいつは神様とおまじないの中間みたいな怪談なんだ。なんでも、この町のどこかにある寂れた神社で願い事をして、夢の中でミナシゴロシさんに会えたら願いが叶うんだと」


 そこで、香菜ちゃんは一つ呼吸を置いた。


「件のミナシゴロシさんは……肉塊のような姿をしているらしい」


 決定的な言葉だった。

 それでも俺は、現実から目を逸らすように口を開く。


「俺、その神社知ってるかも……」

 良く考え事に使う神社で、願い事の書かれた沢山の紙を俺は目にしている。

 関係無いとも言い切れない、そんな話題転換だ。


「ああ、松本神社だろ? 一応小学生たちの間ではあそこがミナシゴロシさんの神社という事になっているみたいだが、ルーツを辿ったら全然そんな事はなかった」


 香菜ちゃんはそっけなく答える。


「え、じゃあ、何の権威も無いぽっと出の怪談が、今みたいな事態を引き起こしてるって事? もしそうなら、今頃世界中が怪事件だらけになってるでしょ……」


 俺の反論に、しかし香菜ちゃんはあくまで淡々と答える。


「逆だ。順序なんてどうでも良くて、元々存在した化け物に怪談を通じて人間が触れられるようになるってだけ。そもそも、重要なのはそこじゃないだろ」


 香菜ちゃんの鋭い視点は、話題を逸らそうとしている事を咎めているようだった。

 観念した俺は大きく息を吐く。


「じゃあ、本題に入ろう……何で香菜ちゃんが府川さんを化け物だなんて疑っているのか、その理由を教えてよ」


「ああ、理由は三つだ。一つめは、人の掛けた呪いにしては、あまりに効果が大きすぎる事。二つめは、発生した現象の大きさに対して儀式や呪具みたいなオカルト的痕跡が少なすぎる事。そして三つめが決め手、さっきの電話の件だ」


 香菜ちゃんの言葉を、ゆっくりと飲み込む。

 そして、俺は乾いた唇を舐めながら香菜ちゃんの目を見た。


「一つめに関しては前に香菜ちゃんが言ってた、人が化け物を使って呪いを掛けたかもしれないっていう説で説明が付くんじゃないの?」


「それを否定するのが二つめだ。人が上位の化け物を従わせるには、途方もない準備と時間がかかる。それこそ、組織規模の支援が必要なんだ。でも、これといった痕跡がまるで無い。もう、この時点で府川幸子が怪物だったと考えなければ辻褄が合わない。そこでダメ押しの三つめ、夢の中の肉塊が府川幸子だった……もう、決まりだ。どう考えても府川幸子という化け物が、何らかの目的を持ってお兄ちゃんに接触しているとしか思えない」


「で、でも……だとしたら府川さんの目的が意味不明すぎるよ。そのミナシゴロシさんって奴が、誰かの願いを叶えるために府川さんと俺に同じ夢を見せた可能性もあるんじゃないかな?」


 俺の指摘に、香菜ちゃんは冷めた目を向けてくる。


「お兄ちゃん、目を覚ませよ。ミナシゴロシさんは肉塊のような姿をしているって言っただろ? もしミナシゴロシさんに見せられた夢に肉塊が登場したのなら、そいつがミナシゴロシさんなのは確定だ。府川幸子は、ミナシゴロシさんなんだよ」


「……っぅ」

 そう言われてしまうと、もうおしまいだ。

 色々な反論は浮かぶけれど、どれもこれも府川さんが化け物であるという説を超える程の説得力は持たない。

 しかし、それでも尚、俺は苦し紛れに口を開いた。


「もし府川さんが化け物だったとして……何か府川さんにとって想定外の事が発生して、肉塊の姿に戻ってしまったのかもしれない。本当は、人として普通に生きていたかっただけかもしれない……!」


 香菜ちゃんは、無表情で俺を見ていた。


「だから、何?」


「……え?」


「お兄ちゃんが言った説が正しかったとして、もうお兄ちゃんに散々迷惑かけてるだろ? お兄ちゃんを悩ませて、苦しめて、毎日吐くまで追い詰めて……もう、悪気の有無とか関係ない! 化け物は、存在そのものが悪なんだ。それはお兄ちゃんも身に染みて分かっただろっ!」


 その悲痛な言葉で頭を過るのは、バラバラになった家具の残骸、潰れた肉片、腐臭と異形。

 近い将来、何かの間違いで人が死ぬのは想像に難くない。

 たしかに今の府川さんは、存在が悪と言われても仕方が無い程に化け物らしかった。


「……お兄ちゃん、私は殺すよ。府川幸子を」

 そう言うと、香菜ちゃんはくるりと振り返る。


 きっと、このまま返したら本当に殺すのだろう。

 香菜ちゃんは、府川さんを。


「待って!」

 気が付くと、俺は香菜ちゃんの腕を掴んでいた。


「もしも府川さんに、もっと以前の悪夢の記憶……府川さんが人間だった頃、俺から傘を差された夢の記憶が無かったら、殺すのを待ってくれ」


「何故?」


「だって香菜ちゃんは、悪夢の肉塊と府川さんが同一人物だとさっきの電話で判断したから、府川さんを殺す事にしたんだろ? でももし、今日見た夢の肉塊と、以前見ていた悪夢の肉塊が別の存在だったら?」


 香菜ちゃんは、小さく鼻を鳴らす。

「……お兄ちゃんの気が済むなら、そうすると良い」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はすぐさま電話をかけた。


 無機質な呼び出し音が鳴り始める。

 早く出てくれ、早く出てくれ、早く出てくれ……!


「もしもし~」


「……っ、府川さん!」


「どうしたの~? 優太郎君、なにか言い忘れ?」


「府川さん、今日みたいな夢を以前にも見た事はあるかな?」


「え? う~んと……」

 府川さんは、うんうん唸りながら記憶を掘り起こしている。

 随分と緊張感の無い声だが、返答次第では命に係わるのだと思うとおちおち気を緩める事も出来ない。


「……あれ?」

 唸っていた府川さんが、少し高い声を出す。


「あれあれあれあれ?」


 焦ったような、困惑したような声。

 その予想外な反応に、俺の緊張感は否応なく高まった。


「あ、ぅう~、何か、変…………でも、覚えてる」


「っ、そ、それは、どんな、夢だった……?」

 不安そうな府川さんの声に、俺は結果を知りながらも最後の望みを掛けてそう問いかけた。


 果たして……

「優太郎君に、傘を差してもらう夢……で、好きで、好きで……そう、その時、優太郎君を……好きに、なって? なった、なったの」


 府川さんは、肉塊の悪夢を覚えていた。

 もう、詰みだ。

 府川さんは悪夢の肉塊と同一人物だった。

 香菜ちゃんを止める手立ては、もう残っていない。


 俺は震える指先で、そっと通話を終わらせた。


 無理やり冷静さを取り繕って、香菜ちゃんの方へ振り返る。

 そこにはもう、開け放たれた扉しか残されていなかった。

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