第12話 こちらを向いて、こちらを見ない

 香菜ちゃんは座り込み、そっと俺の顔を覗き込んだ。


「なあ、お兄ちゃんはどんな化け物に怯えてる? ゆっくりで良いから、話せ」


 相変わらず香菜ちゃんの顔は逆光で見えないが、ぶっきらぼうな口調と優しい声音は、俺の親友だった彼女の兄とそっくりだ。


 全部話して、楽になりたくなる。

 いや、絆されるな。

 俺の安易な行動のせいで、全部めちゃくちゃになっただろ。


「……香菜ちゃんを、巻き込みたくない」


 俺の絞り出すような声に、彼女は小さく笑った。


「ふふ、お兄ちゃんは良い奴だな。大丈夫だぞ? お兄ちゃんが手伝ってって言ったら、手伝うだけだから。お兄ちゃんが何もしないなら、私も何もしないから。だから、話すだけ話してみろ」


「何で、俺にそこまでしてくれる?」


 俺の問いに、彼女は少し悩む素振りを見せる。


「………蓮一兄さんなら、こうするから」


 俺は妙に、その言葉に納得した。

 やっぱり話してしまおうか?


 葛藤に顔を歪める俺を見て、彼女は困ったように笑う。


「話したくないなら、無理しなくていい。今は休め」


 心が、揺れる。

 ……話したくない訳じゃない。全部話して、楽になりたい。


 どうせ現状が既に最悪なんだ。

 だいたい、香菜ちゃんに相談したところで現状がどう悪くなる?

 うん、本当に化け物専門家なら相談するのが正解だし、もし危なそうなら相談だけして協力を求めなければ問題ない。


 俺は、香菜ちゃんの作った都合の良い言い訳に乗る事にした。


 色々と理屈を捏ねたが、結局は全てぶちまけて楽になりたかったというのが俺の本心だ。

 それを分かった上で、俺は話すと決めた。

 きっと、どこまで行っても俺という人間は利己的なのだろう。


「話すよ、全部」


 俺は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 好きな人がいる事、振られたこと、急に府川さんが化け物になった事、俺は府川さんの特別じゃなかった事、府川さんを重荷に感じていた事、府川さんを傷つけた事、悪夢の事、自分が嫌いな事、悩んだ事、始まりから終わりまで、本当に全てを話した。


 香菜ちゃんがしっかり全部聞いてくれるものだから、また泣きそうになる。

 どうやら俺は、相当まいっていたらしい。


「……それでお兄ちゃんは、これからどうしたい?」


 俺の言葉を最後まで聞いてから、彼女は静かにそんな事を聞いてきた。


「俺は……」


 今までの事を話す過程で、改めて一つ確信した事がある。

 府川さんは肉塊になっても、府川さんのままだったという事だ。


 府川さんは純粋で、当然のように優しくて、優しくされると思っていて、自分の幸せは他人の幸せで、他人の幸せは自分の幸せだと、本気で思っている。

 そんな俺が恋した純粋は、今もなお健在なのだ。


 だったら、俺がどうしたいかは決まってる。


「俺は……俺は、府川さんと付き合いたい」


「よし、行ってこい。逃げた奴なんか目じゃないくらい、良い彼氏になってやれ!」


 香菜ちゃんはビシッと公園の入り口を指さした。

 必死で走っていて気が付かなかったが、俺達はもう公園に着いてたのか……。


 ゆっくりと公園に向けて一歩踏み出す。

 俺は一度、府川さんを重荷に感じて彼氏に押し付けようとした。

 そんな俺が、もう一度府川さんに告白するなんて冗談も良い所だ。

 だが、それでも俺はこの気持ちを伝えて、府川さんの心を支える資格を得たい。


 本当に利己的で反吐が出るな。だが、それが俺だ。


 ふと、傷心中の今なら告白の成功率も上がるんじゃないか、なんて思考が頭を過った。

 そんな自分は、やっぱり嫌いだった。


 俺は、しっかりとした足取りで公園に入る。

 果たして、府川さんは公園の中心で今も小さく震えていた。

 どうやら妹さんはまだ着いていないようだ。


「府川さん」


「……あ、ゆ、優太郎君?」


 府川さんの表面が波打ち、大きく横に伸びる。

 次の瞬間、俺は肉塊に周囲を囲まれていた。


 どこを向いても広がっている肉の壁。

 そして、壁には無数の穴が開いていた。


 俺が一瞬ひるんだ瞬間、府川さんの縋るような声が、あらゆる方向から一斉に投げかけられる。


「優太郎君! 私、私、捨てないで……好きだから、前、告白してくれたでしょ、私も、優太郎君、好きなの、ねえ、捨てないで。いなくならないで、私みたいなお化けの分際で受け入れてもらえると思ってごめんなさい、気持ち悪いよね、頑張って隠すから捨てないで、私、っわ、私には優太郎君しかいないから、お願いします。ごめんなさい、最初から優しくしてくれてたのに、ごめんなさい、空気読めなくてごめんなさい、かわい子ぶっててごめんなさい、ごめんなさい、ねえ、好きだから、捨てないで、友達じゃなくていいから、恋人がいいなら、それになるから、言う通りにするから、捨てないで、捨てないで、捨てないで捨て、捨てない、捨て好きだから捨てないで捨てないで好きなの捨てな、捨て、好き捨てないで捨てないで好きだから捨てないで捨てないで好きだから捨てないで捨てないで好きだから好きだから好きだから捨てないで捨てないで」


 府川さんは全方位から触手を伸ばし、狂ったように捨てないでと繰り返す。

 幾重にも重なる懇願は、まるで合唱の様に夜闇に響いた。


 だが、肉塊に囲まれた事とか、狂気的な音圧とか、そんな事は大した問題ではない。


 府川さんが俺を好きだと言った。

 絶対にそんな筈は無いのに。

 ……つまりは、府川さんが俺に媚びたのだ。


 その事実だけが、俺にとって大切だった。


 あの府川さんが、好かれる為に思っても無い事を口にしている。

 自分を守る為に嘘を吐いている……こんなの、まるで俺ではないか。


 ひたすらに醜い。

 初めて肉塊を見た時よりも、俺が府川さんの特別ではないと知った時よりも、よほど気分が悪かった。

 必死で吐き気をこらえる。

 ここで吐いたら、本当に府川さんが壊れてしまうから。

 俺は、府川さんを目の前にして逃げ出したあいつとは違うんだ。


 ゆっくりと、俺は府川さんに歩み寄る。

 府川さんは相変わらず、好きだから、捨てないで、と狂ったように繰り返していた。


 何故だろう?

 府川さんがこれだけ愛を囁いているというのに、俺の心には不快感しか湧いてこない。

 俺はもう府川さんの事が好きじゃないのか?

 ……違う。


 俺は、府川さんの事が好きだ。

 大丈夫、この嫌悪感は外見に起因するものだから。

 大丈夫、府川さんが繰り返すこの言葉は、自己保身の為の嘘なんかじゃない。

 大丈夫、府川さんは純粋な心を今も保ってる。


 大丈夫、大丈夫、と必死に自分に言い聞かせる。

 なんだか、泣きそうだった。


 縋るように何度も何度も泣き叫ぶ府川さんを見ていると、府川さんが肉塊になった日を思い出す。

 あの時の俺は、府川さんが好きだった。

 あの時も、振られた時も、揺るがなかった俺の好意が……今更、揺らぐものか。


 大丈夫、俺は府川さんが好きだから……大丈夫。


 溢れそうになる嫌悪感も、不快感も、無理やり作ったいつも通りの笑顔で包み込む。

 そして俺は、府川さんに呑まれた。


「俺も、好きだよ」


「あ、あう、私も! 私もだから、好きだから! 一緒にいて、ずっと、いて?」


「……うん」


 子供をあやすように、府川さんのヌメヌメとした体内を撫でてやる。

 小さく振動する府川さんを見て、俺は酷く素朴に気持ちが悪いと思った。


 触手と肉の隙間から覗く月は、まるで化け物の瞳のようにギラギラと輝いて見えた。

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