第10話 浸食の始まりと動き出す異常

 現在の時刻は、夜十時十分。

 俺は府川家の玄関前に立っていた。

 これから府川さんと一緒に、彼氏君に会いに行くのだ。


「おまたせ!」


 ズルズルと、腐臭を漂わせながら肉塊が元気に登場した。吐きそうだ。

 だが、そんな事よりも、もっと大きな問題がある。

 人間大のグロテスクな肉塊は、夜闇に紛れられないほど異様な存在感を放っているのだ。


「あの、府川さん。何となく人っぽい形状になれたりしない?」


「えと、ちょっとまってね…………はい!」


 自信満々にピンと立った肉塊は、幼児の作る粘土人形くらいに人っぽいシルエットを保っている。

 俺は羽織っていた上着を脱ぎ、府川さんにかけてやる。


「これで、まあ、フード被って俺の後ろに隠れていれば、すれ違う人くらいは誤魔化せるか」


「ありがと……でもさ、良いの?」


 こちらを伺うように、肉塊がグチュリと歪む。


「何が?」


「パーカー、汚しちゃうから」


「ああ、別に良いよ、俺は気にしないから。もし府川さんが気になるなら、その上着あげるから、取っとくなり、捨てるなり、好きにしてよ。最近新しいの買って、そのパーカーの処分に困ってたんだ」


「あ、うん。ありがと……やっぱ優太郎君は、一番の大親友だ」


「はは、何あらたまってんの? ここからが本番なんだから……ほら、行くよ」


「うん!」


 俺はなんでもないような顔で、夜道に足を踏み入れた。


 冷静を装ってはいるが、勿論心内環境は穏やかでない。

 というか、穏やかな筈がない。


 大親友だなんて面と向かって言われたのだ、嬉しいやら照れ臭いやら、マジで小躍り三秒前って感じだ。

 その上、俺の服を府川さんが着ているというのだから、ここは本当に現実なのか疑念すら湧いてくる。


 まあ、それでも心のどこかでは、府川さんにビクビク怯えている訳だが。

 本当に、我ながら難儀な精神性だ。


「……っ」


 人だ。前方から、コンビニの袋を持った中年男性が歩いてくる。

 次の瞬間、府川さんがズルリと側溝に滑り込んだのを視界の隅で捉えた。


 アスファルトを打つ俺と中年男性の足音が、妙に緊張感を煽る。

 徐々に、俺と中年男性の距離が縮まる。


 タッタッタッタッタッ。


 すれ違い、そのまま足音が遠のいていく。


 タッタッタッ。


 ……もう行ったか?


「すみません」


 安心したのも束の間、後ろから中年男性が声をかけてくる。


 バレたか?

 急激に緊張が高まる。


「なんですか?」


 何を言われても誤魔化せるように、全力で中年男性の言葉に集中する。


「上着、落としてましたよ?」


 中年男性は、先ほど俺が府川さんに渡した上着を差し出しながら、そう言った。

 府川さんが側溝に潜り込んだ時に落としたのだろう。


「ああ、すみません。ありがとうございます」


「いえいえ、それでは」


 おっさんは愛想笑いを浮かべつつ、そのまま歩き去って行った。


「…………ふう~」


 緊張した。

 それにしても、府川さんの存在がバレなくて本当に良かった。

 近隣住民に見られたら、面倒な事になるのは想像に難くない。


 いっそ、このまま公園まで側溝を通って行ってもらおうか?

 いや、見かけは肉塊でも中身は府川さんなのだ。

 流石にそんな事をさせる訳にはいかない。


 頭を振って嫌な考えを追い払い、改めて周囲を見渡す。


 ……よし、誰もいないな。


「府川さん、もう出て来て良いよ。大丈夫だった?」


「あ、うん……それより、私のせいでバレそうになっちゃって、ごめん。でも、私……やっぱり人に見られるの、怖くて……隠れちゃった」


 府川さんの表面が、ドロリと溶けだす。


「…………そう、か」


 さっさと公園に行こう。

 それで、全てが解決するんだから。


 俺は、少しだけ速く足を動かした。

 背後から肉塊が地を擦るズルズルという音が鳴り続けるせいで、府川さんから逃げているような気持ちになる。


 ……別に、逃げている訳では無い。

 俺よりふさわしい人間が、府川さんにいただけだ。

 正しい形に戻る、だけなんだ。


「優太郎君、ちょっと歩くの速いよ……」


 後ろから府川さんに声を掛けられる。


「あ、ごめん」


 気づかないうちに、随分と速く歩いていたみたいだ。

 今まで府川さんと一緒に歩くときは、常に歩く速度を意識していたのに……。


 府川さんが追いつき、そっと触手で俺の手に触れる。


「ね、私さ……これからも優太郎君と親友だからね?」


「どうしたの? 急に」


「なんか優太郎君、最近いっつも難しい顔してるから。その、たぶん私のことで悩んでくれてるからアレなんだけど……助けになりたいなって、思って」


 肉塊の表面が小さく波打つ。


「うん……ありがとう」


 本当に凄いな、府川さんは。

 俺が自分の為に悩んでいる筈だと信じ切れる善良さは、心底羨ましい。

 きっと、俺が府川さんを重荷に感じているなんて夢にも思わないのだろう。


 ああ、善い人になりたい。

 自分の事なんか考えずに全身全霊で人に優しくできる、そんな人間に。


 府川さんに会う前からずっと、俺は善良で真っ直ぐな……主人公みたいな人間に憧れてきた。

 そして府川さんと出会ってから肥大化し続けているこの願望は、利己的な自分に気がつく度に劣等感と羨望に変わっていく。

 ……もう、いいかげん自分が主人公になれる器じゃないと認めるべきなんだろうな。


 じわじわと、俺達と公園との距離は縮まっていく。

 公園についてしまったら、後は府川さんの事情を彼氏君が受け入れてハッピーエンド。

 俺は徐々にフェードアウト。

 ……それでいい。


「もうすぐ公園に着くね。その、頑張って」


「う、うん!」


 府川さんは少し緊張しているようだが、ハッキリとそう返事をした。

 それがとても頼もしく、同時に寂しくもある。


「じゃあ、俺はここで隠れて見守ってるから」


「ありがと、付いて来てくれて。私、頑張るよ!」


 少し声は震えているが、気合は充分な府川さんを見送った。


 府川さんは、ゆっくりと物陰に隠れながら彼氏君の元に進んでいく。

 彼氏君は少し緊張した様子で、ベンチにお行儀よく座り込んでいた。


 あれが、府川さんに選ばれた優しくて正義感の強い彼氏君か……クソ、いけ好かない面だ。

 あんな奴が府川さんは好きなのか?

 そこまでイケメンでもないし、垂れ目で、ひ弱そうで、いかにも人畜無害ですといった風貌は実に頼りない。


 はあ、今からアレが異形と化した府川さんを受け入れる、感動的瞬間を見せられるのか……。


 俺が彼氏君への不快感を募らせている間にも、徐々に府川さんは歩みを進めていく。

 いよいよ彼氏君との間隔が三メートルに迫ろうかという所で、府川さんは立ち止まった。


「……ち、千場君」


 暗闇に、府川さんの消え入りそうな震え声が響く。


「あ、ふ、府川さん! ひ、久しぶりです!」


 彼氏君は立ち上がり、童貞丸出しの態度で返事をする。


 府川さんが暗がりにいるせいか、彼氏君はまだ目の前にいる存在が肉塊であるという事実に気がついていない。


「そ、それで、こんな時間に呼び出して、伝えたい事ってなんなんです?」


「千場君、お、驚かないでね……」


 府川さんが再び動きだし、徐々にその異形を街灯の下にさらけ出す。

 テラテラと光を反射するその姿は、もう上着程度では誤魔化せない。

 風がザワザワと木々を揺らし、淀んだ異臭を運ぶ。

 闇夜に浮かび、体表を風に波立たせる府川さんの姿は……



 正しく怪物と形容するのにふさわしかった。

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