第7話 理想の逆位置は現実だと考える

 俺は、緊張しながら府川さんの答えを待つ。

 彼氏なんかよりも、俺の方が信頼できるという言葉を聞きたくて。


 緊張で口が渇ききった時、ついに府川さんが蠢いた。


「無理、だよ。私だって千場君を頼りたい、けど…………無理だよ」


 府川さんの小さな声は、酷く震えている。


「好きな人に、こんな姿……見せられないよ」


 あ。


 なるほど。


 そうか、当然だ。

 彼氏ではなく俺を頼っているという事実に目が眩んで、すっかりと失念していた。


 好きな人に、こんな姿は見せられない。

 好きな人に、拒否されたくない。


 痛い程に良くわかる。

 大切な人を頼らないんじゃない、頼れないんだ。


 そして、俺は府川さんにとっての特別じゃなかったからこそ、頼られた。

 ……腑に落ちた。


 俺は、ゆっくりと肺から息を吐き出した。

 そうやって、現実を受け入れた。


 俺じゃあ、駄目なんだ。

 府川さんは、彼氏を頼りたいけど無理だと言った。

 本当は府川さんだって、好きな人に傍にいて欲しいんだ。


 ……だったら俺は、引くべきだ。


 渇ききった唇を舐め、府川さんを改めて見る。

 俺は、覚悟を決めて口を開いた。


「府川さん、俺を信じてくれたみたいに、彼氏の事も信じられない?」


「……え?」


「ここには府川さんの彼氏がいるべきだと、俺は思う」


「でも……」


 府川さんを勇気づける為に、優しい声音で言葉を紡ぐ。


「府川さんは、その人が好きなんだろ?」


「うん」


 府川さんを勇気づける為に、聞きたくも無い事を問いかける。


「どんな所が好きなの?」


「優しくて、正義感が強いとこ……」


 ……俺とは、大違いだ。

 そして大違いだからこそ、きっと大丈夫だ。


「その人は、きっと府川さんを信じてくれるんじゃない?」


「…………うん」


 小さな声だったが、府川さんは確信を持って返事をしているようだった。


「それなら、きっと大丈夫だよ」


 俺はとどめに、そんな無責任な言葉を吐いた。

 府川さんは、俺の言葉を飲み込むように伸縮する。


「……えへへ、また勇気もらっちゃた。ありがと」


 俺は眼前で蠢くブヨブヨとした肉塊に、照れ臭そうに笑う府川さんを幻視する。


 ああ、そうだった。

 府川さんは、こんな無責任な言葉に本気で勇気づけられて、本気で感謝できる人間だった。

 ……俺は、そんな純粋な府川さんが好きだ。

 本当に今更、肉塊に対してそう思った。

 尤も、その想いも表情には出さないけれど。


「これから、どうする? ほら、彼氏の事とか」


「実際に会って、今のことを打ち明ける!」


 府川さんは嬉しそうにそう言うと、ピシャピシャと床を叩く。


「あ、でも、千場君に会いに行くときに、一緒について来てくれない? 一人だと、ちょっと怖くて」


 悪びれなく、府川さんはそんな事を言う。


「……分かった。時間と場所が決まったら教えて」


「うん! ほんとに今日は、ありがと!」


「ああ、いや別に……」


 府川さんの外見が人間だったのなら、きっと今は一点の曇りも無い笑顔を俺に向けているのだろう。


 自分の歪んだ顔を隠す為に、俺は逃げるように府川さんの部屋を後にした。

 もう、耐え切れそうにない。


 肉塊は、府川さんだ。

 そして俺の欲する府川さんからの好意は、俺じゃあ絶対に得られない。


 そんな分かっていた筈の事実を、俺はようやく理解した。

 もう、頭の中がグチャグチャだ。


 そのまま俺はフラフラとトイレに入り、昨日と同じように吐いた。

 吐きながら、泣いていた。


 本当は、この家からすぐに出ようと思っていたのに、無様なものだ。

 頭の中を後悔がグルグル回る。

 あのまま府川さんを勇気づけずにいれば良かった。

 ただ優しく、府川さんと一緒にいれば良かった。

 そうすれば、府川さんは俺の事を好きになってくれたんじゃないか?


 俺はそんな情けない妄想を、延々と繰り返しているのだ。

 今ですら、あの肉塊に確かな恐怖と嫌悪を覚えているというのに……。

 つくづく、自分が嫌になる。


「あの……」


 背後から、府川さんの声がした。

 とっさに涙を拭い、振り向きながら出まかせを口にする。


「あー、ごめん。ちょっと具合悪くなっちゃってさ、昼飯食べた時から調子悪……あ」


 府川さんが立っていた……いや、妹さんか。

 妹さんが心配そうに俺を見つめる。


「その、大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫。吐いたらスッキリしたから。じゃあ、そろそろ帰るね」


 いそいそとトイレの水を流す。

 そのまま立ち去ろうとした所で、妹さんに服の裾をつままれた。


「えっと? どうしたの?」


「……誰にでも、そんなに優しいんですか?」


 妹さんは俯きながら、そんな事を聞いてくる。

 部屋での会話を聞かれていたのだろう。

 ここで、自分は優しくなんかないと否定しても、謙虚な人間だと思われるだけだ。

 そして、そう思われるのは何だか嫌だった。


 どうせ勘違いされるのなら、一途な奴だと思われたい。


「俺が優しいのは、好きな人にだけだよ」


「……嘘」


 とても小さな声だったが、彼女は確かにそう言った。


 見抜かれた?

 それとも、本当は誰にでも優しい奴だなんて、愉快な勘違いをしているのだろうか?


 俯いているせいで、彼女の表情は読めない。

 小さな声だったし無視して帰ろうかとも思ったが、府川さんと同じ外見の妹さんを無視する気にはなれなかった。


「どうして、嘘だと思ったか聞いても良いかな?」


「あ、す、すみません。あの、そんなつもりじゃなくて、すみません」


 妹さんは、何かを恐れるようにオドオドと俺の顔色を窺っている。


「待って待って、別に怒ってる訳じゃないから。単純に気になっただけ」


「あ、そ、そうなんですか……良かった」


 俺の言葉に過剰なまでに安心して見せる姿は、明らかに異常だ。

 あまり、人と接し慣れていないのだろうか?


「それで、なんで嘘だと思ったのかな?」


 二度目の問いかけに、妹さんはゆっくりと言葉を吐き出す。


「あの……前に、し、し、し、白石さんが、赤の他人に優しくするのを見たんです」


 ああ、なるほど。


「妹さんが何を見たのかは分からないけど、たぶん府川さんに格好いい所見せようとしただけだよ。結局、振られちゃったから無意味だったけどね……」


「無意味じゃないです!」


 今までの歯切れの悪い雰囲気とは打って変わって、やけに真剣な表情だ。

 ……地雷を踏む前に引くべきだな。


「そう言ってもらえると嬉しいよ、ありがとう。話せて良かった。じゃあ、俺はそろそろ帰るから」


「あ、あ、はい。お気をつけて……」


 妹さんに見送られ、俺は早々に府川家を後にする。

 夕焼けに染まった帰り道を歩きながら、俺は深く考え込んだ。


 府川さんが肉塊になって二日しか経っていないのに、俺は既に府川さんの事を重荷に感じていた。

 実際、府川さんを彼氏に押し付けると決めた今、俺の心はとても軽くなっている。

 だというのに、府川さんを盗られたくないとも俺は未だに思っていた。


 正しく矛盾。

 どんな精神性をしていたら、こんなにも恥知らずな思考に陥れるのか?

 自分でもほとほと呆れてしまう。


 ……はあ、俺って何なんだよ。

 小石を蹴りながら、答えの無い問いを自分にぶつけてみる。


 俺とは……利己主義者の外面美人。

 答えの有る問だった。いや、自分とは何かの解がこれで良いのかよ……まあ、妥当か。

 最悪の自己評価に納得できてしまう自分が悲しい。


 ……あーあ、府川さんが彼氏に受け入れられる所、見なきゃいけないのか。

 いや、府川さんを勇気づけたのは俺だけどさ。


 きっと、府川さんは自分の変わってしまった姿を、恐る恐る彼氏の前に姿を晒すのだ。

 それを彼氏が優しく受け止め、幸せなキスをして終了。

 純粋な少女と正義感が強い少年の、素敵なラブストーリー。

 それを木陰に隠れて見守る、付き添いで来た俺。

 今から憂鬱だ。


 はあ、府川さんの不安な気持ちも分かるけど、普通振った奴に同行願うかよ?

 府川さんって、そういう無神経な所あるよな……いや、止めよう。


 そもそも、彼氏君がメンタル雑魚で肉塊ボディを受け入れられない可能性もある訳だし……はあ、これは嫉妬か。


 本当に、卑小な自分が嫌になる。

 こうやって、俺は何歳まで猜疑心と共に生きるつもりだ?

 いいかげん真っ向から認めるべきなのだろう。

 府川さんは純粋で、彼氏君は優しくて正義感が強い。

 優しさも、純粋さも、俺には無いモノだけど、きっと本当に存在するモノなんだ。


 案外あっさりと、彼氏君が府川さんの姿を元に戻したりしてな。ははっ。


「……あ」


 ずっと蹴っていた小石が側溝に落ちる。

 まあ、いいか。

 そういえば、今日は府川さんの母親に会わなかったな。


 長く伸びた影を踏みながら、俺は薄暗い帰り道をトボトボと歩き続けた。

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