第6話 信じてるって呪縛

 昨日あんな事があったから当然と言えば当然だが、今日も府川さんは学校に来なかった。


「ねえお兄ちゃん、元気だしなって。アイスくらいなら奢ってやるから」


「いや、ごめん。大丈夫だから」


 香菜ちゃんとは付き合いが長いせいか、どうにも気持ちを上手く取り繕えなかった。

 そのせいで、いつもは登校の時だけ一緒だった香菜ちゃんが、俺を心配して一緒に下校してくれている。

 情けない限りだ。


 はあ、事情を突っ込まれたくないし、出来ればあまり心配させたくないな。

 しかし、思考と裏腹に俺の外面はなおも整わないままだった。


「……お兄ちゃん、好きな人に振られるのって凄く辛いと思う。けどさ、お兄ちゃんは良いとこあるし、大丈夫だって」


「うん、ありがと」


 いっその事、振られた事だけでなく肉塊の事も全部話してしまおうかと思ったが、止めた。

 あの肉塊の安全性が確保されていない以上、香菜ちゃんは巻き込めない。


 そもそも、府川さんの精神が不安定な今、俺はすぐにでも府川さんの部屋に行くべきなんだ。


「じゃあ、俺は今日こっちに用事あるから」


「……分かった。フラフラして轢かれるんじゃないぞ?」


「うん、気を付ける」


 俺を見送る香菜ちゃんは、最後まで心配そうだった。

 本当に、しっかりしないとな。

 このままだと香菜ちゃんを巻き込みかねない。


 俺は気合を入れなおし、府川さんの家を目指した。

 しかし、最初は勢いの良かった歩みも次第に遅くなっていく。

 ……怖いんだ。


 今からでも引き返して自宅に帰れば、きっと今後は肉塊と関わらずに済む。

 そんな事ばかり考えている自分が、嫌だった。

 府川さんを好きだなんて、よくもまあ言えたものだ。


 重々しい気持ちのまま、体を引きずるようにして進み続ける。

 そして、進んでいる以上は絶対に目的地へと着いてしまう。


 もう府川家は、目の前だ。


 ちょっと鍵を取り出せば府川家に入れるし、チャイムを一度ならせば、昨日と同じように府川さんの母が家に入れてくれるのだろう。

 だが、俺は府川家の扉も開けず、玄関のチャイムも押していない。


 ……なんで俺なんだよ、彼氏いるじゃん。

 こんな大事な時に頼るのに、なんで俺は振られたんだ?

 そんな事が喉に刺さった小骨のように気になって、チャイムを押す覚悟が決まらない。

 こんなんだから、振られたのかな?

 ……そもそも、アレが府川さんなのかもよく分からないし。      


 意識しないようにしていた昨日の情景を、つい思い出してしまう。

 夢とは比較にならない現実感を孕んだ肉塊、充満する悪臭、府川さんの泣き声……それだけで、もうどうしようもなく怖くなる。


 俺がこのまま帰ったら、府川さんは彼氏を頼るのだろうか?

 昨日の俺に縋りついたように、彼氏に縋りついて泣く府川さんの姿が脳裏を過る。


「ピーンポーン」


 結局、俺はチャイムを押した。

 さっきまで恐怖に震えていた癖に、独占欲だけは一人前なのだ。


「はい、どちらさまですか?」


 扉越しに府川さんの声がした。反射的に身が竦む。


「白石です、入っていいかな?」


「ど、どうぞ」


 すぐに扉が開く。


「え?」


 そこには、府川さんが立っていた。

 『肉塊が』ではなく、『府川さんが』立っていたのだ。


「え? あ……お、おお? 戻ったん、だ?」


 どっと気が抜ける。

 安堵とか、歓喜とか、よくわからない感情が混じりあい、掠れたような声しか出ない。


「違います。私は妹の……優子です」


 え?


「姉はまだ、二階に引き籠ってます。期待させたてしまったみたいで、すみません」


 本当に申し訳なさそうに、妹さんは頭を下げる。

 なるほど、確かに言動や雰囲気が府川さんとはまるで違う。


 相手が府川さんでないと分かるや否や、半ば自動的に俺は外面を取り繕った。


「いや、大丈夫だよ。府川さんに双子の妹がいたなんて知らなかったから、少し驚いただけ」


「そう、ですか……」

 妹さんは頷くと、どうぞ、と家に上げてくれた。


 ……しかし、本当にそっくりだな。

 一卵性双生児って、こんなに似てるのか。


 府川さんの、質の悪い冗談だったりしないかな?

 妹の話なんて今まで聞いたことも無かったし。


「う……」


 俺のそんな甘えた妄想は、階段を上るにつれて強くなる腐敗臭に早くも打ち砕かれた。

 相も変わらず、吐き気を催す強烈さだ。


 思わず涙が浮かぶ。だが、覚悟はもう決めた。

 俺は躊躇なく府川さんの部屋に入る。


 果たして、そこには昨日と同じように人間大の肉塊が鎮座していた。

 強烈な腐敗臭が脳を刺し、頭痛と吐き気が酷くなる……本当に、慣れないな。


「お邪魔します」


「あ! 優太郎君。ちゃんと来てくれるって信じてたよ!」


 ズルズルと這い寄りながら、府川さんは確かにそう言った。

 信じてる、その言葉に息が詰まった。


 俺は何度も府川さんから逃避しようとしたのに、そんな俺を府川さんは信じている。

 俺なんかを、信じている。

 ……俺は未だに、この肉塊を府川さんだと信じ切れていないのに。


 俺じゃあ、駄目だ。

 俺は、相応しくない。

 府川さんに振られた俺じゃなくて、府川さんに選ばれた彼氏がここにいるべきだ。


「優太郎君、顔色わるいよ? 大丈夫?」


「ああ、いや、ごめん。大丈夫」


 府川さんは、今までと同じように俺を心配してくる。

 姿はこんなにも変わっているのに、心の変化は何も見て取れないのだ。


「あのさ、府川さん。少し聞いてもいい?」


「なあに?」


「……なんで、俺?」


「なんのこと?」

 府川さんは小さく蠢く。


「いや、その、俺じゃなくてさ、彼氏とか頼った方が良いんじゃないかなって……」


 ついに聞いてしまった。


 せっかく府川さんは俺を頼ってくれたのに、俺を信じてくれたのに。

 こんな質問、もうお前の相手はできないと言っている様なものではないか。


 だが、もう口に出してしまった。

 ……だって、言って欲しかったんだ。

 彼氏ではなく、俺を選んだ理由を。

 緊急時に頼れるのは彼氏より優太郎君だって、そんな都合の良い言葉を。

 俺が、できたばかりの彼氏よりも府川さんの救いになっているという証明を……聞きたかったんだ。


 ……俺は、自分の恋心に対しても利己的だった。


 期待と焦燥に駆られながら、府川さんの返答を待つ。

 じっとりとした時間が流れる中、死体の様に動かない肉塊だけが俺の注目の的だった。

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