第5話 信じる理由
「優太郎君! 優太郎君! 私、私だよ! 幸子! ね! 優太郎君なら、信じてくれるよね! ね?」
肉塊が、俺の気を引くように触手を蠢かせる。
「……あ」
この肉塊が……喋っているのか?
「私、本当に、幸子なんだよ! ほんとだよ? 毎日、一緒に帰ってたよね? 私、優太郎君が、数学得意なの知ってるよ! 誕生日も知ってる。十一月十四日だよね? 本物だから、知ってるよ! 本当に、幸子なの! 怪物なんかじゃない! ねえ、ねえ、ねえ、何か言って! 何か言って、ねえ、何か、言ってよ……ねえ…………ねぇ」
それっきり、肉塊は小さく震えるばかりで言葉を発さなくなった。
……これが? 府川さんだと?
嘘を吐くにしても、もう少しましな嘘を吐けよ、化け物が。
でも、あんなに声を震わせてた。
さっきの泣きそうな声も、俺を騙して喰う為の演技に決まってる!
少しくらいなら、信じてみても良いんじゃないか?
逃げるべきだ、奴が動いていない今の内に。
逃げるべきだ、こんなものに騙される程、俺は純粋でもない。
逃げるべきだ、本物の府川さんは喰われたんだ。
きっと、この肉塊に喰われる直前にメッセージを送ってきたんだ……うん、そうだ、そうに決まってる!
俺が逃げる理由を考えている間にも肉塊はすすり泣き、小さく震え続ける。
……クソ。
かわいそうだって、俺は、そう思ってる。
信じてみても良いんじゃないかって、思ってる。
だって、府川さんの声なんだ。
だけど、俺の冷静な部分が肉塊を絶対に信じない。
この肉塊が府川さんでないとしたら『たすけて』のメッセージは、府川さんが肉塊に危害を加えられていた事を意味する。
得体の知れない肉塊が、俺を殺す可能性。
その考えに至った瞬間、今まで魅入られたかのように目を逸らせなかった肉塊から、ふっと目が逸れた。
そして気が付く、今いる部屋の惨状に。
ねじ切れた金属製のベッドの存在、バラバラになった椅子の残骸、引き裂かれたぬいぐるみの布片。
そんな破壊の痕跡は、俺に逃げの一手を選ばせるには充分だった。
一歩、後退る。
肉塊の、すすり泣きが聞こえる。
更に一歩、後退る。
肉塊の、すすり泣きが聞こえる。
あと一歩下がって扉を閉めれば、この部屋から抜け出せる。
この悪夢から、抜け出せるのだ。
すすり泣きが聞こえた。
それはやっぱり、府川さんの声だった。
……クソ。
冷静になれ。俺は冷静だ。
冷静に考えろ。そう、冷静に。
……もし、この肉塊が本当に府川さんだったとしたら?
ここで肉塊を信じると口にした場合、好感度が爆発的に上がる筈だ。
逆に、この肉塊が見かけ通りの怪物なら?
こいつの言葉を信じないと突っぱねて機嫌を損ねられるのは危険だ。
そう、危険だ。こいつの言葉を信じないという態度をとるのは危険なんだ。
だいたい、逃げようとして逃げられるかも微妙だろう。
この家に来る為に全力疾走をしたばかりの俺では、逃げ出してもすぐにスタミナが切れる。
うん、逃げるなんて危険だ。
逃げるなんて危険、か……はぁ。
別に、本当にこの肉塊を信じた訳ではない。
そう、利己的に行動するだけだ。
いつも通り、だ。
そう自分に言い聞かせ、深く息を吸う。
…………よし。
「信じるよ。君は、府川さんだ」
俺は真っ直ぐに府川さんを見つめ、そう口にした。
「え?」
肉塊が大きく震える。
「……あ、あ、ああ、信じて、くれたんだ……よかっ、た」
そして府川さんは、大きな声で泣き出した。
ズルズルと這って、肉塊は俺に縋りついてくる。
ウゾウゾと蠢く足に触れられ、思わず顔を顰めそうになった。
俺は無理やり優し気な笑顔を作り、府川さんを撫でる。
すると、肉塊は更に大きな声で泣き出した。
近づいたせいで、腐敗臭もいよいよ耐えられない程にキツくなる。
しかし俺は、それでも府川さんの表面を撫で続けた。
この肉塊が本当に府川さんなら、俺の事を純粋に信じきっているのだろう。
……俺は結局、府川さんの為には動けなかった。
自分の身可愛さに逃げかけて、自分の為だと散々理由を付けて、ようやく信じてるなどと嘯いたのだ。
俺なんて、振られて当然だ。
口で息をしながら、今後の事を考える。
府川さんの母親の様子を見る限り、肉塊を府川さんだとは思ってないみたいだったな。
府川さんの事を考えると、元の姿に戻るまでは出来る限り会いに来た方が良いだろう。
このままでは、府川さんが病みかねない。
府川さんは……元に戻るのだろうか?
そもそも、なんだこの良く分からん肉塊は。
なんで喋れる? なんで動ける?
こんな怪物、ホラー映画か、それこそ悪夢くらいでしか見た事がないぞ。
いっそ俺の頭がおかしくなったと考える方がまだ現実的だ。
しかし俺以外にも、府川さんと、その母親も、肉塊の存在を認識している。
……現実なんだろうな。
はあ、分からない事ばっかりだ。
俺は再び、府川さんに意識を向ける。
さっきまで震えるように蠢いていた府川さんは、いつのまにか一定のリズムで伸縮を繰り返していた。
「すぅ……すぅ……すぅ」
ああ、眠ったのか。
…………気持ち悪い。
俺は、そっと府川さんを膝から下して立ち上がる。
……気持ち悪い。
府川さんを起こさないよう、ゆっくりと部屋を出て……足早に階段を下りる。
気持ち悪い。
確か、トイレは一階にあった筈だ。
気持ち悪い。
廊下を進む。
気持ち悪い。気持ち悪い。
トイレの扉を開く。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
芳香剤の甘い香りが鼻を撫でた瞬間、吐く。
吐く。
吐く。
吐く。
「はあっ」
全て、全て吐きつくした。
床に、へたり込む。
口に残る酸っぱい味と、胃液に焼かれて痛む喉が気持ち悪い。
鼻に残る腐敗臭を追い出すように、酸素を取り戻すように、俺は浅く呼吸を繰り返す。
壁に体を預ける。
……少し呼吸が落ち着いてきた。
今まで、どこか夢の中のような感覚だったが、次第に現実感が戻ってくる。
そして俺は、肉塊の存在を、現実として受け止めた。
瞬間、一気に感情が溢れ出す。
怖かった。なんだアレ。喰われるかと思った。気持ち悪かった。今も、体の上に肉塊が蠢く感覚が残ってる。明らかに人じゃないモノから、少女の声がする違和感。肺を満たした死臭。床を満たす汚液。体を汚すペチャペチャとした粘液。蠢き、呻く、肉塊。好きな人が、異形の怪物に変化したという事実。悪夢が現実になった。もし肉塊が府川さんじゃなかったら。ベッドもカーペットもグチャグチャだった。
あの場を構成していた、全てが恐怖を掻き立てる。
身体が震えた。
もう一度吐いた。胃液しか出なかった。
明日も、あそこに行くのか?
……今日はもう、帰ろう。
いつまでも、ここに座っている訳にはいかない。
フラフラと立ち上がる。
後ろを振り返ると、府川さんの母親がいた。
「あ……今日は、もう帰りますので。お邪魔しました」
俺の声は、随分と掠れていた。
唾液を飲み込む。
「あの、明日もお邪魔してよろしいでしょうか?」
府川さんの母親は驚いたように目を見開いたが、すぐにぎこちない作り笑いを浮かべた。
「え? あ、それは、娘も喜ぶと……そうだ、家の鍵、渡しておきますね」
「はい?」
どうぞ、と鍵を半ば強引に手渡してくる。
「では、さようなら」
「え? あ、はい」
流されるままに、家を追い出される。
鍵を貰った。
普通、娘の友達とはいえ、鍵を渡すか?
だが、理由はどうあれ、これで府川さんの家に何時でも入れるようになってしまったという事だ。
もう、すっかり空は朱に染まっていた。
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