マーダー 8
悪魔の掌の内でボロボロと涙が流れる。すっと離れた悪魔は道也のぐしゃぐしゃの顔を見て、僅かに眉をしかめた。
「乱暴に過ぎたか」
「……うん」
涙を流しているのは痛みのためではない。決意が音を立てて崩れていくのが分かったからだ。
滲んだ世界すら見たくなくて、自身の手で瞳を覆った。
「戻してくれ」
「いつにだ」
「前と同じでいい。あの、高校二年生になった日の通学路」
「ああ、分かった。何か策が」
「もう終わりにする」
涙が止まらないのは、自分がもうどうしようもないと気がついたからだ。
「……なに?」
「もう終わりだ。ダメだよ、もう。俺が旭の隣で笑える日は二度と来ない」
「諦めるというのか」
道也は黙って首を縦に振った。
「もう旭を見るだけでダメなんだ。殺さなきゃダメなんだ。だって、旭が俺以外の誰かを『かっこいい』と言ったことを俺は覚えてる。ほかの誰が覚えていなくても、旭が覚えていなくても、俺が覚えてる。どれだけ時を戻しても無駄なんだ。だって俺は知ってしまった。旭が俺以外の誰かを見る可能性があることを知ってしまった」
我ながらなんて浅ましい。万に一つすら許容できないとは。
この先どれだけ一途に今井旭が桐島道也を愛そうと関係ない。どこかの時間軸、どこかの世界線で旭が自分以外と結ばれる可能性が許せないのだから。
こうなってはもうどうしようもない。自分では自分を抑えられないのは散々に思い知った。何がトリガーになるかも分からない。分かってもきっと防げない。詰みだ。桐島道也が桐島道也である以上、今井旭と幸せになれる日はもう来ない。
「あの時、旭の『かっこいい』を聞いた瞬間、俺の運命は決まっていたんだよ。無駄に足掻いちゃったな」
泣きながら道也は笑った。自分の罪深さ、情けなさに笑うしかなかった。生まれ直してすらこれなのだ、もしも神様がいるのなら、設計を間違えていたに違いない。
「ごめんな、付き合わせて。でも大丈夫。答えは得たし、約束は守る」
対価は払うよ。何か知らないけど。
道也はそう言って、上体を起こした。
「そうか」
そこに悪魔は掌を翳した。
これも最後だと、涙を流したままではあるが、道也は目を開けたままそれを受け入れた。ぐわんと視界が回転する。乗り物酔いにも似た感覚にたたらを踏んでから、彼はぐっと顔を上げて前を見た。
春の風に背中を押される通学路。疎らに桜の散る風景の真ん中に、こちらを振り返る旭がいる。
「ど、どうしたの? 急に泣いたりして……どこか具合でも」
「ごめん、旭」
笑おうとするが、涙のせいで上手くいかなかった。
「ごめん。こんな俺で。ごめん。本当にごめん」
出会ってしまって。隣にいようとして。好きになってしまって。
言いたいことは色々あるのに、出てくる言葉は謝罪だけだ。
酸欠になりかけて覚束無い手でカバンを開き、そこからハサミを取り出した。
「本当に、ごめん。最後まで」
旭が後ずさった。訳もわからず泣き出して、挙句に刃物を手に取ったのだ、至極当然のこと。
ハサミを持った方とは逆の手で、道也は目元を拭った。深呼吸を何度か繰り返す。
「最後まで、綺麗になれなくて本当にごめん」
そして道也は、にっこり笑って、そのハサミを己の首元に当てた。
ごめん。本当にごめん。
綺麗に死んでやれなくて。最期の最期まで汚れきった魂のままで。
隣にいられないのなら、せめて傷になろうだなんて考えて、本当にごめん。
「大好きだよ」
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