マーダー 7
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現実は小説より奇なり……言い得て妙で、納得することも多いがそう一辺倒に言えることでもないな、などと自身が桐島道也と名付けられた瞬間を知っている赤ん坊は、乳を飲みながら思った。自身も時間逆行(或いは今回に限っては転生か)などという、奇妙な体験をしているにも関わらず。
普通の男子高校生らしく退屈な時間をネット漫画や小説で潰すことの多かった道也にとって、異世界転生は遠い世界のことでは無い。彼らは基本的に赤ん坊の時点で大人と変わらない思考力と感覚を持っていることが多いが、実際なってみると視覚の方が不便で困った。視力はそう悪くなかったはずだが、赤ん坊の視界が悪いというのは本当だったらしい。
不便といえば身体もそうだ。四肢が上手く動かない。筋力や骨の密度が足りていないのが原因なのだろうが、こればかりは時間に従うしかない。悪魔には生まれた瞬間などと啖呵をきったが、こう無為な時間を過ごすのなら、自分で立てるくらいの年齢に留めておくべきだった。
「あー。うぅ」
「ふふ。元気な子」
声を出そうにも上手くいかないし、不自由な身体でもがいても母親に微笑まれる始末。
内心で溜息を吐き、道也は、自立するまでは計画に専念することにした。
そうして1年が経ち2年が経ち、すっかり自分の体をものにした道也は、両親の目を盗んでは体力作りと勉強に励んだ。入団を許可される年齢になってすぐに両親にねだってサッカークラブに入った。無論、旭が「かっこいい」と称えたどこかの誰かがサッカー部らしいからだ。
以前の自分は幼い頃から大人しい質で運動とは無縁だったが、いつか出会う彼女のことを思えば全く苦ではなかった。才能の差もこの年齢ではそう関係がなかったし、興味がなかったとはいえ元は高校生だ、始めたての子供に混じれば神童と持て囃されるくらいには冴えていた。
小学生になると男女問わずにモテた。勉強もスポーツも出来たからだ。自分を好いてくれている以上、コミュニケーションに困ることもない。
そうして周囲から「これは一角の人物になるぞ」との評価をほしいままに小学三年生になった頃、ついに今井家が隣に引っ越してきた。
「はじめまして!」
「は、はじめまして」
旭は人懐っこかった。男女の性差など関係ないらしく、初対面から無邪気に笑い、両手をとって振り回した。精神年齢ではずっと上のはずのこちらが気圧されたくらいだ。
いずれは栗色に染められる髪も、今は長い黒髪だ。あのふわふわとした髪も可憐だが、元気にはね回る三つ編みも年相応で可愛らしい。
出会ってからは可能な限り行動を共にした。一年、二年、年を経ると幼さ故の純粋な悪意に晒されることもあったが、はやしたてられるのはむしろ本望だった。旭が拒否反応を示さなかったのが、ただ幸いだった。
心地の良い関係が続き、中学生に上がる頃、制服を見せ合おうと部屋に招かれた。
真新しい詰襟に身を包み、扉を開けるとセーラー服に身を包んだ旭がそこにいた。
「あ! みっちゃん見て! 可愛いでしょ!」
くるりとスカートを翻した彼女は確かに言いようもなく可憐だったが、道也の関心はそこからすぐに離れた。彼の視線の先にあるのは、短く切り揃えられた明るい髪だ。
「あ――あれ? 旭、髪切ったんだ?」
「そう! いいでしょ、大人っぽくて!」
ころころと笑いながらくるくると回り続ける旭を褒めようとした。しかしどうにも言葉が出ない。
代わりに、むくむくと湧き上がるのはあの殺意だ。
「――めてくれ」
「え?」
「止めてくれ」
ぶるぶると全身が震えるのは無論寒さのせいではない。己の中の悪魔と理性がせめぎ合っているからだ。
視界が赤に塗り潰される。怒りとも悲しみとも言いようのない混沌とした感情が身体の支配権を怒涛のように奪い去った。
ああ、また繰り返す。
「頼む! お願いだ!
世界が停止するのと、道也が旭に飛びかかるのはほぼ同時だった。
「まったく、世話の焼ける奴だ!」
どこからともなく現れた大きな掌が、道也の顔面を捕え、そのまま地面に叩きつける。
ドガン! と凄絶な音を立てた後頭部の激しい痛みによって、道也は正気を取り戻した。
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