マーダー 6

「……は?」


 呆然とした。膨大な情報を脳が受け入れることを拒んだ。強い光を当てられたかのように視界は徐々に白く染まっていき、世界から取り残されたかのように全ての感覚が遠のいていく。


 夢と現の狭間の中で、しかして旭の死だけは鮮明だった。

 彼女の体は道也のすぐ真下にある。馬乗りになっている状態だ。


 寒くもないのにガタガタと震えが止まらない。布団の端から滴る雫の音が嫌に大きく聞こえる。女の子らしい、或いは今井旭らしい淡いピンクの布団が、暴力的な赤に彩られていく。


 頬から流れ落ちたのは、冷や汗じゃなく、今井旭の命だった。


「あ、あ、旭、旭!」


 未だに鮮血を吐き出し続ける首元に手を押し当て、道也は喚いた。もう逃げ切った命を押しとどめることなど出来はしないのに。


「逝くな! 逝くな旭! お、お願いだ……な、なんで、どうして……!」


 思わず口にしたが、そんなこと分かりきっていた。


 耐えきれなくなったのだ。背負った十字架の重みにでは無い。十字架の方が、己の獣性に。


 トリガーなど関係がなかった。桐島道也の殺意は、自分以外を選んだ旭を、許せないだけなのだから。



「今度こそ、大丈夫だと思ったのに……」


 全身から力が抜け、だらりと両手が落ちた。堰を失った血潮は益々勢いを増して広がっていくが、それを留めようとすることの無意味はとうに悟っている。

 

 掌で涙を拭った。涙の代わりに血がつくだけだった。この手が赤く染っているのがいつからなのかは、言わずもがなだろう。


「なあ、いるんだろ」


 項垂れたままに、誰もいないはずの空間に呼びかけた。

 瞬間、先程よりもよっぽど世界から取り残されたかのような感覚に陥った。絶えず聞こえていた血の滴る音も聞こえない。


「また、繰り返したな」


 動かなくなった世界で、どこからともなく悪魔が姿を現す。

 悪魔はちらと彼女を視界に入れただけで、やはりただ道也を見下した。心底どうでも良いのだろう。人間も、路傍で虫が死んでいようと強い興味を示したりはしない。


 そして道也にとって悪魔の反応も、それと同じだった。


「もう一度だ」


「ふん」


「もう一度、今度はもっと、戻してくれ」


「と、いうと」


「振り出しにだ!」


 楽をしようとしたからいけなかった。一人の命を取り戻すのに、一日程度で足りるわけが無い。


 自分を過大評価したからいけなかった。

 隣を歩くのが自分じゃなくとも、彼女が生きていさえすれば良いと、己の心を偽って高潔な人間になろうとした。


 もう自分を騙さない。今井旭の隣に在るのは、桐島道也以外許さない。



「俺を、に戻してくれ!」



 なってみせる。旭に「かっこいい」と言われる男に。人生の全てを投げ打ってでも、絶対に。


「ほう」


 悪魔は少し笑ったようだった。赤みがかったブラウンの瞳に興味の光が宿る。


「面白い。なるほど、良いだろう。そうかそうか。人間は、心一つでこうまで愚かになれるか」


「なんとでも言えばいい」


「なに。褒めたんだ」



 言葉の通り柔らかく微笑み、悪魔は道也に手を翳した。



「さて、どうなることやら」



 反射的に瞳を閉じた道也が目を覚ましたのは、今から十数年前の事だった。

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