マーダー・リフレイン 1
ただ穏やかなその声にこうまで心臓を跳ねさせられる日が来るとは思っていなかった。
ああ、旭だ。
目の前にあれだけ焦がれた彼女がいる。
内側から沸き起こる感情をどう言い表そう。経験したことの無い興奮と喜びは、そう呼ぶことに抵抗すら感じる。
思うのはひたすらに、「今井旭」が生きているということだけだった。
「まあ、今日から二年生だもんね。楽しくなっちゃったんだね」
道也より低い視点から旭は笑った。
「上手に笑えるから見て!」とでも言うような、無邪気で可憐な笑みだ。
一人納得した旭は軽やかな足取りで先へ行く。新しい季節を改めて意識して楽しくなったらしかった。
ご機嫌な子犬のような後ろ姿を見ながら、道也は静かに泣いた。春の風に紛れてくれと願いながら、あの笑みを曇らせまいと必死に嗚咽を飲み込み、旭の後ろを着いていく。
春の暖かな陽射しも、木々のざわめきも、今日が高校生にとっての一つの節目であることも、時が巻き戻ったことすらも、道也にはなんの影響も及ぼさない。五感の全てが今井旭を感じるために存在しているのだと、今なら自信を持って言えた。
これが恋だというのなら、今まで自覚していたそれはそう呼ぶべきでは無かったのだろう。失ってから気付く……正しくそうだ。犠牲の上で成り立つ感情を美しく解釈するべきではないと分かっていながら、そう思わざるを得ない。
狂っている。自分は旭に狂っている。
この自虐が、道也にはたまらなく幸福だった。
それからの時間は何事もなく過ぎ去った。
旭の行動にすべからく感動できる道也からすれば余りにも非日常じみてはいたものの、その他の人間にとってはそうだった。
クラス割や席順で一喜一憂し、新鮮味のない担任との挨拶を終え、高校生にとってはつまらないだけの式を流し、早くに帰れると用事もないのに色めき立つ。
やや斜に構えたところのある道也と違い、旭は多分に漏れないようだった。帰り支度をしている道也の元までそわそわとした足取りで近付いてくる。
「どこか寄り道でもして帰ろうか」
彼女が提案する前に道也が言った。
しかし彼女は小さな手を合わせてバツが悪そうに眉を下げた。
「あのう。えっとね」
瞬間、幸せに酔っていた道也の脳裏に、あの時の記憶がフラッシュバックする。
彼はようやく思い出した。
なぜ自分がここにいるのか。自分が何をしたのか。
彼女のことだけを考えて良い時間なんて、とうに消え失せているというのに。
「ごめん! 先に帰ってて」
背中を嫌な汗が伝う。
「今日はちょっと、用事があって」
心臓の鼓動のせいで、彼女の声が遠い。
わなわなと震える唇が、意思に反して言葉を紡ごうとしていた。
やめろ。言うな。
僅かに残った冷静な部分が叫ぶ。
「――どうして?」
当然のこと、旭は答える。
やめろ。言うな。いや、聞くな。
繰り返し聞こえる理性の声。
自分すら律する事の出来ないそれが、彼女に届くわけがなかった。
「部活見学に行きたくて。サッカー部にね、かっこいい人がいるんだ」
もう何も見えない。何も聞こえない。
*
次に知覚したのは、重苦しい空気と強面の刑事の顔だった。
全身に怖気が走った。
彼女の命を奪った感触が、鮮明に両手に残っていたからだ。彼女の無惨な姿が焼き付いて離れないからだ。彼女の断末魔がこびりついて消えないからだ。
殺したのだ。
あれほどに恋して止まない彼女を。もう一度。
そのことは、誰よりも道也が分かっていた。
「あ、あ、あ、あ、あ……っ」
彼は額を机に打ち付けた。机か頭蓋のどちらかが割れてもおかしくないほどに強く。
頭を掻きむしり、泣き叫ぶ。
「どうして!!」
「どうしては、こちらの台詞だ」
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