秘密

佐薙概念

秘密


 1


 顔も知らない「友達」から連絡が来たのは、夜食の冷凍チャーハンを炒めていた時だった。


『久しぶり。出張で東京に来てるんだけど、ご飯でも行かない?』


 表示されたメッセージをいくら凝視しても、文意は一向に掴めない。「ことの」という名前もただの文字列にしか見えなくて、困惑は深まるばかりだった。

 まただ。記憶喪失になってからというもの、見知らぬ「友達」から連絡が来るたび事情を説明しなければならない。二週間前、以前勤めていたバイト先の先輩と名乗る人物に送りつけた文面をそのままコピーし、「ことの」に送った。


『ごめんなさい。実は三ヶ月前に事故で記憶喪失になってしまい、ここ数年の記憶が思い出せません。失礼ですが、できれば私と貴方と私の関係を教えては頂けないでしょうか』


 はぁ、と溜息をついて僕はベッドに寝転んだ。あと何度これを繰り返せばいいのだろう。大学二年生にもなって人間関係がリセットされるとは思ってもいなかった。今の僕に思い出せるのはせいぜい中学生の記憶までで、高校と大学一年時の記憶はすっぽりと抜け落ちている。

 親族やそれまでに出会った友達は確かに思い出せるけれど、おそらくもっとも青春を謳歌していたであろう期間の記憶がないというのは僕にとって致命的だった。そこに何かが存在していた確証があるわけでもないのに、穴が空いているのだけはしっかりと分かった。


 今でも週に一度は通院の日々だ。毎度同じ検査を受け、何か変化はないかとカウンセリングを受ける。今まで築いてきた人間関係がものすごいスピードで再構築されているせいで心労が絶えない。過去がないから、余計に未来に対する不安が募ってしまう。そして、そんなネガティブ思考が先天的なものか、後天的なものかすら今の僕には分からないのだ。

 再びスマホが震えた。ロック画面に「ことのから新着メッセージがあります」と表示されている。

 例の定型文を送ってから最初に来るメッセージを見るとき、いつも緊張してしまう。小刻みに震える親指でアプリを開くと、「ことの」から来たメッセージはいたってシンプルだった。


『そうなの?! 身近に記憶喪失になった人って知らないからびっくりしちゃった。 今は大丈夫?』


 アプリを閉じてベランダに出た。煙草を一本取り出し、ようやく見慣れてきた夜景を見下ろした。九月の夜風は暑くも寒くもなくてひたすらに心地よい。下の部屋から、下品なバラエティが聞こえてきた。

 記憶を失い関係性を尋ねるようになってからというもの、「人と人との結びつきとはなんと脆いのだろう」と思うことが増えた。三ヶ月前の自分がこんなことを頻繁に考える厭世家だったのかは知らないが、少なくともバイク事故で頭を打たなければ気づかなかっただろう。

 他人、友達、親友、恋人。こんなものは所詮、自分と誰かについた名前にすぎない。赤の他人から友達・親友となり、愛するようになればそれは恋人と呼ばれる。けれど、たったそれだけのことだ。関係性を名前で規定して、僕らはその名前に従っている。記憶を失った僕が相手に関係を尋ねたところで、都合の良いことなど何一つない。でも、そうするしかないのだ。僕も、名前に振り回される人間の一人なのだから。


 一本目を吸い終えるタイミングで、ポケットに入れたスマホがまた震えた。


『ごめん、関係性を言い忘れてたね。私とキミは、友達だよ』


 初めはその言葉の意味が分からず、燃え切った煙草をくわえながら呆然としてしまった。これまで関係性を断定の形で言い切ってくる人間は一人もいなかったからだ。いよいよ分からなくなってくる。曖昧に友達と回答されても分からないが、言い切られても分からない。生憎、友達と言われてすぐにロールプレイができるほど器用な性格ではない。


 夜が深まっていた。簡単な感謝と空いている日を伝えると、すぐに返信が来た。僕の次の予定は、二日後に下北沢へ行くことらしかった。



 2


「やあ、久しぶりだね」


 鈴の鳴るようなというより、鈴そのものみたいな声だった。

 丁寧に切り揃えられたショートカットが静かに揺れ、大きくて丸い瞳が僕を捉える。彼女は口角だけで笑顔を作ると、静かにカップを置いた。


 僕は喫茶店にいた。駅から歩いて一分の好立地で、外装は昭和をそのまま閉じ込めたようだった。店外のショーケースには様々なサンプルが並んでおり、翡翠色のクリームソーダが一際目を引いた。なんだか懐かしい気分になった。


「ああ、といってもキミは私とほぼ初対面のようなものなのか。初めまして、冬原ふゆはら 琴乃ことの。キミの友達です」


 はじめましてと同じセリフで使われる「友達」という言葉がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。


「どうも。冬原さんの友達の、ひいらぎ 千尋ちひろです」


 ひとまず喋り方から判断するに、自分が苦手なタイプの人間ではなかったことに安心した。それどころか容姿・服装・仕草は自分の好みのタイプとほぼ合致する。


「なんだか不思議だね。私の知っている柊くんが目の前にいるのに、中身は少し違う。記憶を弄る系のSF小説にありそうな展開だ。とりあえず、座ったら?」


 緊張のせいか、椅子だけ引いて立ちつくしていたことに気付く。鞄を隣の席に置き、おもむろに腰掛けた。


 やがて無愛想な女性店員がやって来て、彼女がホットサンドを注文した。僕は無難にホットコーヒーを頼んだ。


「すごいね、記憶は無くなっても好みは変わらないんだ」


「どうやら僕はずっとブラックらしいね。部屋に箱買いしてあったボトルもすべて無糖だったし」


「まずは詳しく話してもらおうじゃないの。ちなみに私、まだ半分くらいしか理解できてないから」


「そうだね。僕が記憶喪失になって初めに見たのは……」




 3


 僕が記憶喪失になって初めに見たのは、見慣れぬ白い天井だった。


「三日前、あなたはバイクに乗っていました。しかし不幸なことに、信号無視をしたトラックと衝突事故を起こしてしまいます。このことは覚えておられますか?」


 五十歳くらいと思われる顎髭を生やした医者は、目覚めた僕を諭すように優しく喋り始めた。


「いえ、まったく……」


 たしかに、自分の足はガチガチにギプスが固められているし、頭にもぐるぐると包帯が巻かれている。


「あなたはヘルメットをしていたとはいえ、頭部を強打してしまいました。その結果、記憶の一部が損傷している可能性があります。なんでもいいです。思い出せる限りで、一番最近のエピソードを教えてくださいませんか」


「最近……」


 頭の中を探し回る。自分が今大学二年生で、西洋哲学を専攻していることは分かる。けれど、どうしてそれを専門に選んだのか、そもそもどんな過程を経て大学に入学したのか、それがまったく思い出せなかった。それどころか、僕は高校に通った覚えがない。

 一方で、もっとも古い記憶は中学三年生の卒業式だった。どうやら、損傷している記憶は、高校一年生からつい最近までということらしい。医者にそれを伝えると、露骨に苦々しい顔になった。


「約四年間ですね。記憶喪失は数分単位から数十年まで、本当に幅広い病気なのです。全生活史健忘といって、今までの自分を一切忘れてしまうこともあります。四年という期間の短さについては、喜ぶべきなのかもしれません」


「つまり、悪いニュースが別にあると?」


「ええ。ですが、これは私の主観です。問題は長さではなく、時期なのです。高校三年間の記憶が丸々失われているのです」


「それは、なにか問題なんですか?」


「これまた個人的な感覚ですが、人生とは高校を卒業するまで、すなわち十八歳までが半分を占めると私は思います。そして、その中でも高校生という時期はなお特別のような気がしているのです。私はもう五十を過ぎましたが、今でも抱えている想い出は大体高校の時のものです」


 たしかに、今の僕は心にぽっかりと空いた穴を自認できる。何かが足りない。何かを失ってしまった。得体の知れない喪失感が脅迫的に迫ってきている。

 けれど、そこには本当に「何か」が収まっていたのだろうか。「失う」という動詞は、元からそれを手にしていた前提が必要だ。もしかして、僕はこれまでもずっとこの欠落感と共に生きてきたのではないか。そんなことをつい思ってしまう。


「とはいえ、一過性の可能性もあります。幸い、足の骨は折れてはいませんでしたから一週間ほどで退院できるかと。ただ、脳の検査のために週に一度は通院していただきます」





 店員がコーヒーが運んでくるタイミングで、僕の説明は終わった。


「なるほどね。高校生の記憶がごっそり抜け落ちてるから、私のことは覚えていないわけだ」


「すごいですね、全然驚いていないように見える」


 説明前と変わらぬ表情でコーヒーを啜る彼女に、むしろ僕の方が驚いてしまう。


「まさか。私にしては驚いてる方だよ。知ってるでしょ、私が無愛想なこと……」


 途中まで言いかけて、ハッと息をのむ音が聞こえた。それから斜め下を眺め、彼女は寂しそうに笑った。


「そっか。知らないよね」


「ごめんなさい」


「なんで謝るのさ。気になってたんだけど、まずはその敬語を外さない? なんだか気持ち悪くてしょうがないの」


「わ、分かりました。いや、わかった」


「よくできました。それで、他の人にもこの説明をしたの?」


「いや、今のところ二人だけだよ。そもそも君を除いたら、事故以降に連絡が来た高校の同級生は山田と篠原だけだったから。どうやら以前の僕は、旧友と頻繁に連絡を取り合うような人間ではなかったらしい」


「まるで別人みたいな口ぶりだね。トーク履歴は残ってたでしょ?」


「ある程度はね。けどそれも一部で、事故の二ヶ月前に機種変更していたせいでほとんどの友達は履歴がなかったよ」


「じゃあ、私との履歴もなかったんだ」


 一昨日の夜にスマホが震えた時を思い出してみても、トーク履歴らしきものは見ていなかった。


「残念ながらね。もし残っていたら、もう少しうまくやれたんだけど」


「それはそれで、幸せだったのかもね」


 その言葉の意味はよく分からなかった。先ほどから話していて、何度かこういうことがある。この人はこういう意味深な言葉をよく吐いていたのだろうな、と勝手に推測する。一呼吸置いて、彼女はまた話し出した。


「そっか、山田と篠原に会ったんだ。あいつら元気かな」


「あの二人とどういう関係だったの?」


「彼らは友達だよ。なんなら、キミを経由して知り合った」


「そうだったんだ」


「ちょっと待っててね。今、キミ近辺の相関図を書いてあげる」


 鞄からノートとペンを取り出し、彼女は懸命にフローチャートのようなものを書き出した。僕を中心に様々な線と点が繋がっていき、「友達」「知り合い」「先輩」などの補足情報が付け加えられていく。だが、肝心の僕と冬原琴乃を結ぶ線には一向に名前が与えられない。


「僕と冬原さんは書かなくていいの?」


「だって、目の前に本人がいるのに『友達』とか書きたくないよ。キミは書いて欲しいの?」


「いや、それでいいんだ。そもそも、関係性に名前をつけるなんて馬鹿馬鹿しいよ」


「そっか。その考えもいいね」




 やがて人間関係が出尽くしたのか、彼女は悩みながら名前を書くようになっていた。それでも既に三十人以上の名前が出揃っている。僕の身辺にこれだけ詳しいなんて、僕はこの人と相当仲が良かったんだろうなと思う。そして、それがたまらなく悲しかった。


「うーん。まだいそうだけどなぁ」


「いやいや、これだけあれば充分だよ。貴重な資料として持ち帰らせてもらう」


「あ、そうだ。ニクシィは? アカウント持ってる?」


 ニクシィとは、画像投稿をメインとしたSNSだ。僕はあまり使わないが、今時の若者はほとんど使っているだろう。


「そういえばあったね、そんなの。完全に忘れてた」


 検索をかけてトップページに飛んでみる。右上のログインボタンを押してみても、そう簡単に入れはしなかった。


「そういえばキミって、IDとかパスワードって覚えてるの?」


「それが、覚えているものと覚えていないものがあるんだよ。ニクシィに関しては、昔に使っていたメアドで登録したからもう入れないかも」


 パスワードを紙や電子でまとめておくような几帳面なタイプではない。家で資料の山を漁っても無為に潰えるだろう。


「じゃあ、あれがあるよ。ひみつのしつもん」


 パスワードを忘れた際の救済措置として出される質問に答えられる自信はなかった。しかし彼女は引き下がらず、僕はしぶしぶサイトを再度開いた。

『IDとパスワードを忘れた方』を押すと、一つだけ質問が表示された。彼女が向かいから身を乗り出して僕のスマホをのぞき見る。揺れた髪から甘い香りがして思わず目を逸らした。


「お、これだね。なになに……」



『あなたが一番好きなアーティストは?』



 心当たりはあった。中学時代に好きだったバンドで、今でもプレイリストに入ってるのがいくつかある。けれど、大事なのは高校生の僕がどう答えるかだ。僕は試しに、現時点で一番好きと言えるバンドの名前を入力した。


「お、すごい。合ってたみたい」


 首尾良く次の質問が表示された。ということは、ずっとそのバンドを一途に聴き続けているということだ。


「家にライブグッズがあったから、きっと何度か生で観てるはずなんだよね。あれ? そういえば、そのキーホルダーって……」


 隣の椅子に置かれた彼女の鞄に、赤いリスのマスコットがくっついていた。ちょうど僕も同じ物を持っていた。


「ああ、やっぱりスパリスのことだったんだ。私も好きだよ、そのバンド」


 今更ながらに気付いたが、僕は高校三年間で読んだ本、聴いた音楽、観た映画の内容自体は覚えているらしかった。思い出せないのは、それらを摂取したという行為自体のようだ。


「へえ。珍しいこともあるもんだ」


「偶然なんかじゃないよ。だって、私にスパリスを教えてくれたの、キミだよ」


「そうだったのか。嬉しいな、まだ好きでいてくれるなんて」


 質問が簡単で良かった、と心の中で呟いて僕は次の問いを見つめた。



『高校時代の一番の思い出といえば?』



 終わった、と思った。これはいくらなんでも無理難題だ。ピンポイントで欠落した部分を訊かれても答えようがない。

 けれど彼女は未だ希望を捨ててはいないらしく「うーん」と短く発してからこう言った。


「たぶんだけど、『山宵祭り』じゃないかな」


「ああ、山宵か。あり得るかも」


 山宵祭りとは、僕らの地元で行われる、そこそこ大きい夏祭りのことだ。山宵川を挟んで様々な屋台が立ち並び、締めには花火も上がる。

『山宵』とまで入力して、ふと疑問が浮かび上がった。どうして僕のことがこんなに分かるのだろう。


「あのさ、山宵祭りはたしかに地元じゃ大イベントだし、楽しくて思い出にもなりやすいと思う。でも、なぜピンポイントでこれだと思うんだ? 普通は修学旅行とか学校祭とか、高校で起こったエピソードが先に出てくる気がするんだけど」


 彼女は澄ました顔で答えた。


「だってキミ、高校嫌いだったじゃん。クラスにも馴染めてそうになかったし、いつもどこか違うところに行きたいって顔してた」


「そうだったのか……」


「うん。まあ、はっきり言って明るい性格でなかったね。基本的な性能は高いしコミュニケーションもしっかりと取れるタイプではあったけど、なんだか闇を抱えていそうだったよ」


 残酷な事実に打ちのめされそうになる。結局、人間なんてそう簡単に変われないのだ。話を聞く限り、今の僕は中学生から何も変わっちゃいない。


「僕は君と同じクラスだったの?」


「そうだよ。一年生と二年生の時に」


「ある意味、今のキミは僕よりも僕のことを分かっているのかもしれないね」


「そうかな。自分のことなんて、自分が一番分からないよ」


「そんなものかな」


「そんなものだよ」


 彼女はホットサンドを一口食べた。ハムが少し零れていた。「山宵祭り」と最後まで入力し、送信ボタンを押した。


「お、本当だ。これも通った」


「だから言ったでしょ。キミのことについては詳しいからね」


 自分より自分を知る誰かがいるというのは、きっと幸せなことだろう。僕のような特殊な状況を除けば。

 いよいよ、最後の質問になった。


『初恋の人の名前は何ですか?』


 僕はスマホを机の上に置き、目を瞑った。

 初恋というものを、僕は知らなかった。いや、かつては知っていたのかもしれない。しかし、覚えのない恋はカウントできない。僕の頭にそういった甘い記憶がないということは、高校で初めて恋に落ちたか、もしくはずっと朴念仁として生きてきたかのどちらかだ。


「本当に心当たりがないな。そもそも、高校の知り合いを数人しか知らないのにこれは無理がある。それどころか、まったく別の人物の可能性もある」


「そもそも、キミは恋をしたことがあるの?」


「それも分からない。でも、この質問が選ばれている時点で、僕は既に初恋を経験していると思うんだ」


「小学生の時とか?」


「それはないんじゃないかな。僕の記憶にないということは、少なくとも中学生までは恋愛感情を知らなかったんだろうね」


「ずいぶんと遅めの初恋だね。私が言えたことでもないけど」


「君も高校生だったってこと?」


「まあね。私の話はいいから、キミの初恋相手を考えようよ」


「僕が誰かと付き合ってたとかは……?」


「私が知る限りは、ないね。仮にあったとしても、それを誰かに言うタイプじゃないでしょ、キミ」


「それはそうかも」


 二人で唸る時間が続いた。時折、彼女が知っている女子で可能性のありそうな名前を入力してくれたが、僕はその人たちを知らない上に不正解だった。

 結局答えの出ないまま数分が過ぎ、僕は思い出したように尿意を自覚した。彼女は何度か質問にトライしようとしているので、スマホはそのまま置いていくことにした。



 久々に立ち上がった足元はふらふらした。溜息をつきながら男性用トイレの扉を開けた。その間もずっと答えを考えてはいたが、「もしや好きなアニメキャラの名前を入力したのではないか」という絶望的な仮定を思いついただけだった。

 僕がもし誰かに恋をしていたとして、その記憶がなくなったとしても、同じように恋人でいられるのだろうか。感動的なラブストーリーであればもう一度同じ人を好きになって終わればいい。けれど、これは現実だ。過去よりずっと無慈悲で残酷な、現実なのだ。

 忘れる方は幸せだ。事実を知らないで済むから。忘れられる方の心情なんて想像もしたくない。大学生の僕に付き合っている人がいなくて良かったと、心の底からそう思った。



 4


 用を足して席に戻ると、彼女は俯きながら僕のスマホを握りしめていた。「何してるの?」と問いかけても反応がなく、三度目でようやく顔を上げた。


「ログイン、できたよ」


「……え?」


 そう言って見せられたのは、ニクシィのホーム画面だった。タイムラインのデザインに見覚えがないのは、アップデートによるものではなく僕の記憶の問題だろう。


「答え、分かったの?」


「うん。たまたま入力したら、正解だったみたい」

「誰だったの?」


「それは、内緒」


 妙に歯切れが悪かった。彼女にしては珍しく目が泳いでいる。


「僕が知らないからって、気を遣わなくてもいいのに」


「それはいいとして、パスワードとかもっと真剣に考えなよ。いくらなんでも自分の誕生日はまずいって」


「やけに危機感の薄い高校生だったんだね、僕は」


「本当にね。ほら、今までの写真が見られるよ」


 僕は自分の投稿を眺めた。基本的には旅行先の写真や本屋、飲食店からの投稿が多かった。特にラーメンの写真はその半分以上を占めている。このあたりはずっと変わらないらしい。

 しばらく自分の過去を遡っていると、彼女が青白い顔で僕に言った。


「ごめん、私、お手洗いに行ってくるね」


 僕は無言で頷いた。

 設定欄を弄っていると、「アーカイブ」というボタンがあった。ヘルプを見る限り、投稿を一時的に非表示とし、まとめて保管する機能らしい。

 こういった情報は、以前の自分を知る貴重な参考資料だ。昔のアルバムをめくるような気持ちでアーカイブを押した。

 そしてこの時ほど、自分の行いを後悔した瞬間はなかった。



 そこには、冬原琴乃がたくさんいた。



 教室にいる彼女の写真。一緒にカフェに行った彼女の写真。僕の実家で勉強している彼女の写真。僕の知らない僕が、僕の知らない彼女の写真を撮っていた。

 真っ先に感じたのは、疑問ではなく申し訳なさだった。彼女が戻ってきた時に、どう説明しようか、あるいは謝罪をしようかをまず考えていた。しかし、説明しようにも僕はそれができない。

 時間が経つにつれ、心臓の鼓動も早くなっていく。もういっそ打ち明けずに隠蔽しようとも思ったが、僕もなぜこんなに彼女の写真があるのか知りたかった。その答えはこの世界で彼女しか知らないはずだ。


 数分が経過し、さらに数十分が経った。緊張感と共に募る違和感が上回るようになると、異変を感じ始めた。ここまで長いのはさすがに不自然だ。さっきから体調が悪そうだったし、トイレで倒れたりしているかもしれない。女性の店員に様子を観てくるよう頼んだ。

 そして、一分後に帰ってきた女性店員は告げた。


「お手洗いには、どなたもいらっしゃいませんでした」


 まるで夢でも見ているみたいだった。やけに粗雑な夢だった。



 5


 事態は僕の想像を遥かに超えて複雑なはずだった。きっと忘れてしまった過去があって、背景があって、彼女はこの場から消えた。現在の自分の行動を決めるのは過去だ。その過去を持っていない僕がいくら思考を巡らせたとて、謎は解けない。とりあえず、電話をかけよう。そう思ってメッセージアプリを開こうとした時だった。


 店主から何かを受け取った女性店員が、僕に話しかけてきた。


「お連れ様からお手紙と代金です」


 紙切れと五千円札を渡された。おそらく手帳を破ってこしらえたのであろう紙に、行儀良く文字が並んでいた。


 *****


 千尋くんへ


 急にいなくなってごめんなさい。

 あなたに謝らなければならないことがあります。私はキミに二つ嘘をつきました。

 一つ。私は、キミが記憶喪失になったのを知っていました。別の友達を経由して、私の耳にも入ったのです。おととい連絡した時にはもう知っていました。

 二つ。あの日連絡をした時、私はキミの友達だと言いました。確かに、ある意味それは正しいのかもしれません。けれど実際、私はキミの恋人でした。覚えていないと思いますが、高校一年生の夏から高校二年生の冬まで、私たちはいわゆる「恋人」と呼ばれる関係でした。

 なぜそんな嘘をついたのか、不思議に思うかもしれません。私は卑怯な人間です。

 正直に言えば、記憶をなくしたキミともう一度やり直せるんじゃないか、そんなことを考えていました。いきなり恋人と言ってもキミはきっと信じないだろうから、友達だと嘘を吐いてでもキミと会いたかった。そして、なにもかもなかったことにして、もう一度あなたに触れたかった。

 でも、無理でした。自分が、許せませんでした。私はあなたに酷いことをしました。どうか忘れたままでいて欲しい、それくらい酷いことです。結果、私たちは「恋人」ではなくなってしまいました。

 今のあなたには、綺麗な思い出だけが残っています。私のいない過去があります。そんなあなたに再び関わるなんて、私にはできません。


 どうか、お幸せに。私のことは忘れてください。

 私が初めて好きになった人が、同じように私を初めて好きになってくれたこと。それだけが嬉しかったです。


 さよなら。


 *****



 ひどい頭痛と吐き気がした。

 仮に恋人だと分かったとして、それはこの関係の呼び名が変わるだけだ。それによって態度や振る舞いが変わるなんて馬鹿らしい。なのに、どうして……

 今なら間に合うかもしれない。彼女を引き留めようと、僕は震える指でスマホのロックを解いた。焦ってパスワードを何度か押し間違え、ようやく彼女とのトークルームを開く。

 迷わずに電話ボタンを押した。が、一向に繋がる気配はない。もう改札をくぐってしまったのだろうか。

 電話を諦め、メッセージを送ろうとする。一番下に、見慣れない文字列が並んでいた。


『ことの は退会しました』


 今までアイコンだった猫の画像は初期設定の人影になっており、名前は「unknown」と記されている。これは、このアプリそのものを退会した際に表示される文章だ。


 僕は、彼女の家を知らない。電話番号も知らない。繋がっていたのは、この緑色のアプリひとつだった。

 関係性に名前をつけるなんて馬鹿馬鹿しいよ、と僕は言った。果たして、僕は誰かと「関係」を持っていたのだろうか。

 もし持っていたとして、それはアプリ一つを消して終わってしまうような儚いものだったのだろうか。

 心にわだかまっていた喪失感がはっきりと形を持ち、数秒経ってガラスのように砕け散るのが分かった。


 しばらくの間、椅子から動けなかった。コーヒーはとっくに冷めていた。


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