灰色のジニア Side Story 「最愛」
明確な記憶はいつからだろう
それは物心がついてからの記憶か
産まれてからの記憶か
誰も持っていない
産まれた時の記憶
それは他人の記憶
他人のための過去
☆
三七〇七年──。
「彼女は、僕が見つけたんです」
職員の男は、そう言うと、目の前の書類に視線を落として続けた。
まだ若い男だ。二〇代半ばといった感じだろうか。真面目そうで線の細い印象だが、決して感じの悪い男ではない。
「この孤児院に配属された次の日だったので……よく覚えています」
目の前には、テーブルを挟んだソファーに並んで座る夫婦がいた。
夫のガーディン・ホワイトと妻のルイーサだった。時折、二人はテーブルの書類に目をやりながらも、男の話に耳を傾けていた。
「朝、あの子は施設の前に座っていました。服はボロボロ……髪もボサボサで……顔から何から汚れて……まるで浮浪者のようでした」
テーブルの上に広げられた何枚もの書類には名前と当時の資料。
「ポケットに……まあ、いわゆる製造データってやつですか。それがあったので年齢が三才であることは分かりました。三才で出荷されたようです。あの子が自分で口にしたのは名前だけです」
「……トモ…………」
ルイーサが呟く。
その声で、軽くルイーサに顔を向けたガーディンが口を開く。
「……あの子に……その……〝前の親〟というのは……」
男が応える。
「全く分かりません……もっとも、あの年齢でしたからね。最初の頃は言葉も片言でしたが、今はコミュニケーションに問題はありません。とは言っても、あまり積極的な子ではありませんけどね。自分から他人に話しかけるより、一人でいることのほうが多い……」
するとルイーサが口を開く。
「分かっているのは、彼女が〝イノセント〟だということだけなんですね」
「……はい、それ以外のことはこちらでも……苗字も分かりません……あの子も覚えていないようです。まあ、イノセントは捨てられた時点で名前も苗字も破棄されますから、戸籍的にはデータしか存在していない状態です。そして……あの子は自分がイノセントであることを分かっています」
「しかし、彼女は自分の名前をはっきりと伝えました」
ルイーサは男の目を見て言うと、力強く続けた。
「彼女に何があったのかは分かりませんが、あの子は自分の名前をしっかりと主張出来ています。自分が誰なのかを知っています。それだけで充分です」
その言葉にガーディンが続ける。
「私もさっき彼女に直接会うまでは、昨夜の妻の話を半信半疑に感じていましたが、イノセントかどうかなんてどうでもいい。何かは分からない……ただ、妻を信じるべきだと思いました」
実用化されて、実際に商業ベースに乗った人工生命体──イノセント。
遺伝子レベルでのチェックをしなければ、人間との差異を見つけることは難しい。
それは、人工的に作られただけの、ほぼ人間と言える物だった。しかし〝神の領域〟に入り込んだその現実に嫌悪感を抱く者は多く、世界的な議論は未だ続いていた。
工場の培養液の中で作られ、育てられ、人々が求める年齢で出荷することが出来る。
そして、時にそれは労働力として重宝され、または養子として需要を満たしていった。
世界的な人口の減少が、その需要と供給のバランスに影響をもたらした現実は確かにあった。医療技術の向上からの平均寿命の上昇があるにも関わらず、なぜか出生率は低下し続けていく。もはや受け入れていくしかない静かな恐怖が風潮を埋めていったのかもしれない。
なぜ出生率が減ったのか分からないまま多くの議論が繰り返されたが、誰も世界を納得させられるだけの材料に辿り着けないまま、多くの国が賛成派と反対派に二分されたかのような、そんな不穏な時代だった。
当然のように、過激な者達は物理的なテロ行為でイノセントに拳を向けるが、やがてイノセント達は〝人間〟としての権利の主張を始める。しかしその多くは、人間のエゴによって自由になったイノセント達に他ならない。人間に管理されている内は牙をむく必要などない。しかし必要が無くなって捨てられたイノセント達にとっては、人間は忌むべきものでしかなかった。
やがて憎しみの連鎖が、多くの国の内政問題として定着していくことで、新しい形での世の中の在り方が模索されていた。
その波の中に飲まれた五才のイノセント──トモもまた、その一人だった。
ガーディンとルイーサは、必要書類への署名の前にトモと話をするべきだと感じていた。
自分達が養子にしたいという気持ちの前に、トモ自身が自分達を受け入れてくれるかが大事だと考えたからだ。二人はあくまでトモを一人の人間として──一人の〝命〟として扱うべきだと思っていた。
しかしトモは何も迷ってはいなかった。決して孤児院での生活が嫌いだったわけではない。初めてルイーサが話しかけてくれた時に心は決まっていた。
「ここ……夕方、綺麗なのよね」
微かに夕日に染まりかけたルイーサのその表情が、なぜかトモの心の中に入り込んだように感じた。強引にではない。自然に。夕日が差し込むように入り込んできた。
何も持っていない、何も持ってはいけないと思っていた自分の隣に、なぜかそっと寄り添うルイーサに、トモは心を奪われていた。
☆
三七〇六年──。
エマ・オーグスティール。
とある政治家の妾として生きてきた母親のために、一六才で嫁いだ。
エマは自分が必要とされない人間であることを分かっていた。
嫁いだ先は都会だった。母と生きてきたのは山間部にある田舎町。そんな閉鎖的な世界では妾という立場は決して優遇されるものではない。妾の娘を快く思わない者達から逃げるため、そのためなら、決して望まない結婚であってもどこか開放感があるのも事実だった。
都会の中なら、多くの人の中に紛れてひっそりと生きていくことも容易いだろうという安易な考えもあった。
しかし、嫁いだのは資産家一族の三男。その男も、やはり必要とされているようには見えない。二八才という年齢からか、本人の意思に反して親が決めたものだった。それを知ったエマは、都会には都会なりの息苦しさがあることを学ぶことになる。
夫は親の決定に反旗を翻すように、家へとやってきたエマを籍に入れようとはしなかった。
とは言っても、決してエマに冷たく接したわけではない。むしろ外から見たら普通に夫婦に見えたことだろう。彼なりの親への反発なのだろうと、その頃のエマは考えていた。
初めて嫁いだ日のことを、エマは時々思い出した。
大きめの手提げ鞄を一つだけ持ち、初めて都会の駅に降りた時。
なぜか、少しだけ空気が重く感じられた。肩にかかるくらいの短い黒髪が、なぜか湿気を含んだように重みを持つ。
高級車で迎えに来たのは運転手のみ。車の窓から見える景色だけで都会の空気を感じ、到着したのは少しだけ郊外の高級マンションだった。
最上階の一二階はワンフロアのみ。もちろんエマには想像も出来なかった世界だ。
会ったこともなく見たことすらもない二八才の男性への不安と、僅かばかりの高揚感。田舎での抑圧から、数えるくらいしか言葉を交わさなかった母親からの解放。
マンションの入り口からエレベーターで最上階に向かう間、なぜか浮かぶ母親の顔。エマは母の不機嫌な顔しか見たことがない。笑顔を見たことがなかった。親子二人で出かけたこともない。外での生き方は学校の友達から教わった。思えば、満足に会話もしたことがない。
そして、周りから聞こえる〝母親〟という存在は、明らかにエマの母親とは違った。
父親の存在を知らないため、もちろん夫婦というものがどんなものかも知らない。それはエマにとって、もはや外からの作られた情報の知識だけ。色々なメディアを通じて情報だけは入ってくる。しかしリアルなものではない。決して触れることが出来なかった世界。
その世界を、これから自分が作っていかなければならない。
エレベーターを一歩降りると、広い廊下と、目の前には分厚そうな立派な玄関扉。エマには見たことのないような細かな装飾が施された物だ。
運転手の男がインターフォンのボタンを押す。
「エマ様をお連れ致しました」
『ああ、いいよ、入れてくれ』
小さなスピーカーから大人の男の声が聞こえた。
同世代の男友達の声とも違う。田舎での行きつけの商店の店主くらいしか、大人の男性の声を身近で聞いたことがない。そのくらいエマは、外との接触を避けて生きてきた。母と同じように。
入るとすぐに、短い廊下を真っ直ぐに進んで広い部屋が現れた。
テーブル、ソファー、壁沿いのいくつもの家具に至るまで、いかにも金のかかった物であることが田舎育ちのエマにでも理解できた。左手の大きな窓から入り込む日差しも大きい。そして高い天井──。
近くの扉が開いた。
男が現れ、エマに近づく。
流石に身なりがいい。エマは自分の服装が途端に見窄らしく感じ、自然と視線を落としていた。男の顔を直視することが出来ない。
決して真新しい服ではなかった。それなりに頑張ってきたつもりではあるが、やはり気潰された感は否めない。色褪せすらある。
「エマだね。話は聞いてるよ。遠くから大変だったね」
フルオ・ベネディクス──二八才。
大きな資産家の三男とだけ聞いていたが、エマはそれ以上の話はあまり多くは聞かされていない。他は親が経営する会社の幹部に位置しているということくらいだ。
その日分かったのは、少なくとも裕福な生活をしており、この広い家で一人で暮らしているということだけ。
エマは、もしかしたら自分とは違う形で居場所の無い人なのかもしれない、などと勝手に想像していたが、実際に会ってみるとそんな印象はない。威圧的でも無く、物腰も丁寧だ。声も柔らかい。
「少し休んでくれ。疲れただろう。僕はこれから出かけるが、もう少しで仕立て屋が来ることになっている。服も新調しないとね」
フルオはその物腰の印象なのか、柔らかくエマに語りかけてくる。
しかし、笑顔はない。
その目に、なぜか母と同じものを感じた。
日々が過ぎていく中で、エマは、家の中での自分の立ち位置を求めていた。
自分が結婚した実感も、妻になった実感もない。事実、なぜかフルオは籍を入れようとしない。戸籍的には、未だ夫婦という形ではなかった。
フルオは決して無駄話の好きなタイプではないのだろう。少なくともエマにはそう感じられた。唯一顔を合わせる朝と夕食の時間でも会話は最小限だけ。元々会話の少ない家庭で生きてきたエマにとっては苦痛というわけではなかったが、それと同時に、夫婦や家族というものが、何かそれとも違うことも分かっていた。
不安の中に、何か僅かな希望を抱いてここに来た。
しかし、自分が必要とされている実感はなかった。
きっと自分でなくてもいいのだろう。
形だけの夫婦とはいえ、別々の寝室で過ごす夜が嫌いだった。
しかもなぜかフルオは、週の半分は夜遅くに出かける。行き先を言ったことはないし、エマも聞いたことはなかった。
そして、エマの側から積極的に何かを求めることは無い。
何を求めていいのかも分からない。
一日、そして一日、何かが募っていく。
全てが初めての感覚。
初めての場所で、初めての経験だけが積み重なっていった。
そんな日々の中で、やがて、エマは懐かしい場所を見つける。
街の郊外にある小さな店だ。小さな喫茶店。
初めての空間のはずなのに、なぜか居心地のいい場所。
そこは決して治安のいいエリアではなかった。フルオからも行かないようにと言われていた場所。スラム街とまではいかないが、都会の街中とは明らかに雰囲気が違う。しかし、エマはフルオのいない昼、使用人の目を盗んでそのエリアに足を運ぶことが度々あった。
自分で何を求めていたのかも分からないまま、田舎に近いものを求めていたのかもしれない。
田舎は息苦しかった。
抜け出してきた。
嫌いだった。
母も嫌いだった。
思い出したくもない。
都会での新しい生活に憧れていた。
それなのに、今はこの喫茶店で、なぜか気持ちの落ち着きを感じている自分がいる。
「あんた、都会では珍しいタイプだよ」
初老のマスターはいつも気さくに話しかけてきた。他人との接触があまり得意ではないエマだが、なぜかこの店のマスターは嫌いではない。
「都会の産まれじゃなさそうだ……この店にはそんな奴らが沢山集まるのさ」
自分とは明らかに違う、人生を重ねてきたからこその言葉。多くを見てきたからこその言葉の重みを感じた。夫のフルオからは感じられない、別の大人だった。
「それでもここはあんまり治安のいい場所じゃない。あんたは若いお嬢さんだ。気をつけなよ」
よくマスターはそう言ってエマを心配するような言葉をかけていた。
「昨日なんか殺人事件だ……反イノセントだかなんだか知らないが……昔より物騒になっちまったよ」
夕方を迎える前には、必ずエマは家に帰るようにしていた。
☆
浴室の湯気に混じり、ルイーサの柔らかい言葉がトモの意識を包む。
「やっぱり……」
ルイーサはトモの髪のシャンプーをシャワーで流しながら、その長い黒髪を優しく梳かす。
「綺麗な髪ね……大事にしなきゃ……これはあなただけの物……そして、あなたは今日から私達の家族……」
最初の夜、トモはそれが〝家族〟というものであることをまだ知らなかった。
しかしその夜のことは、深く記憶に刻まれた。
暖かかった。
父というものも、母というものも知らない。
しかしそれが今、目の前にいる。
自分はイノセント。
人間ではない。
そして、自分は求められている。
誰かの顔が、頭に浮かぶ。
あの人は?
あの人は、自分を求めていたのか……?
誰かに求められていたのか……?
ガーディンとルイーサの元で、トモは多くを学んだ。
家族として迎え入れられ、決して裕福ではなかったが、決して不幸だと感じたことはなかった。
やがて学校に通い始めると、更に触れるものが増えていく。色々なことを吸収していく喜びを感じ、生きることがどういうことなのかを理解し始めていた。
トモがイノセントであることは、周りにも、もちろん学校にも隠されていた。まだそれは義務付けられていない。その法整備は二年近く後の事になる。
夫婦にとっては、トモは娘そのものだった。しかし世の風潮の中で、それをオープンにすることは憚られた。世間に反イノセント組織の活動が広がっていたからだ。近所にももちろんイノセントを嫌悪する人々が普通にいる。夫婦はトモを守るため、生活の多くをトモに依存していた。
そんな日々が続く中、ガーディンの弟──カーイと妻のレヴィが二人を訪ねてきた。
ガーディンの旧姓はヘール──しかし婿養子ではない。現在の姓──ホワイトは元々ルイーサの苗字だ。一度はヘールの苗字で結婚した二人だったが、夫婦は苗字をルイーサの旧姓──ホワイトへと変更する。
それはルイーサの出自に理由があった。
ルイーサには二才上の兄がいた。その兄と二人で孤児院で育った。ルイーサは五才で養子として孤児院を出たが、その後の兄の消息は分からない。その時点で苗字の変わったルイーサには不安が会った。苗字が変わったことで、いずれ兄が自分を探そうと思っても見つけることが出来ないのではないか?
ルイーサは引き取られた先で裕福な生活が出来たわけではない。社会に出、生活にやっと余裕が出てきた時に、ルイーサ自身も兄を探そうと思ったことがないわけではない。
しかし、そうしなかった。
あの頃の記憶や過去を捨てたい気持ちと、捨てることの出来ない現実。
いつか兄が自分を探そうと思った時のために、引き取られて一度変わった苗字を結婚の直後に戻した。もちろんガーディンにも相談の上。行政機関や裁判所等、手続きは大変だったが、それでも夫婦の苗字をホワイトにすることには何の迷いもなかった。そのことは、今でもルイーサはガーディンに感謝している。
唯一の兄との繋がりだった。
そのため、ガーディンの本来の苗字──ヘールはカーイが引き継いでいる。
その夜の二人の訪問は突然だった。
ちょうどルイーサがトモを寝かしつけた直後。
カーイとレヴィの表情は共に暗かった。しかもこんな夜に訪ねてくること自体が珍しい。
座る二人の前に紅茶の入ったティーカップを置いたルイーサが向かいに座ると、カーイが最初に口を開いた。
「……実は……養子を……考えているんだ」
「やはり……お前もなのか……」
ガーディンは無精子症だった。
そしてそれは世界的な問題となっているものでもある。結果的に出生率は下がっていく。それがイノセントを世間が受け入れていくベースの一つにもなっていた。
ガーディンもそれが自分一人の問題ではないことは分かっていた。もはや夫婦の問題になりながらも、自分のせいで夫婦の仲に亀裂を生じさせていた。ガーディンにとっては、その亀裂を埋めてくれたのがトモだった。そしてそれを選んだのがルイーサ。ルイーサとトモには感謝しかない。
そしてそれと同時に、弟のカーイにも子供が出来ないことが気になっていた。
そのカーイが続ける。
「レヴィと一緒に病院で検査をしてもらったよ……やっぱり……原因は俺だった……」
「そうか……」
ガーディンがそう応えて溜息をつくと、その手をルイーサが握った。
カーイが続ける。
「……産まれて間もない養子は、今はなかなかいないそうだ……兄さんみたいに孤児院も考えたけど……すまない、変な意味じゃないんだ──」
「ルイーサだよ」
ガーディンが即答して続ける。
「ルイーサも孤児院の出身であることは前に話したが……俺はルイーサを信じた……」
「そうか……市役所に行って話を聞いたんだが……悪く思わないでくれ……孤児院の子にはクセの強い子も多いと言われて……」
カーイのその言葉を受けて、隣のレヴィが視線を落としたまま言葉を拾い上げる。
「ごめんなさい……姉さんのことは好きなのに……あんなこと言われて……市役所で大声上げちゃって……私……悔しくて……」
ルイーサが口元に笑みを浮かべる。
そして続けた。
「事実よ。私もあまり素直な子じゃなかった。兄しかいなかったから……家族っていうものがどういうことかも分からなかったしね」
レヴィが顔を上げて応える。
「お兄さんは、まだ……?」
「……うん……いつかね……」
そこに、ガーディンが割り込む。
「イノセントは──考えたのか?」
カーイがすぐに応える。
「市役所でも勧められたよ……赤ん坊が欲しいなら確実だとね」
「トモがイノセントなのは話しただろ。二人にしか話してはいないが……」
「あの子はいい子だよ、兄さん。それは分かってる。でも最近のニュースは知ってるだろ? 怖いんだ……」
「俺達は、あの子を全力で守るよ。トモは生きてる──〝命〟そのものだ。ルイーサはそれを信じさせてくれた……」
☆
二人での結婚生活はもうすぐ一年になろうとしていた。
何も変わらない日々。
移り変わるのは季節だけ。
そして、未だに籍を入れてもらってはいなかった。
なぜだろう。フルオはどうしても自分を認めたくないのだろうか……そんな懐疑心ばかりが募る毎日。
籍を入れてもらったら、夫婦になれるのだろうか。
夫婦とはなんだろう。
家庭とななんだろう。
家族とはなんだろう。
子供がいれば、家族になれるのだろうか。
子供がいれば、夫婦になれるのだろうか。
子供がいれば、フルオの気持ちも変わってくれるのだろうか。
自分は何のためにここに来たのか。
夫婦になるためだろうか。
家族を作るためか。
子供を産むためか。
逃げるため?
何から?
現実から?
母親を捨てるように田舎を出てきたせいか、自分が娘だったからなのか、子供を持つとしたら娘が欲しいと、なんとなく思っていた。
男の子がダメということではない。
ただ、男性に対しての免疫が少ないせいか、自然と女の子の方が接する時のイメージは湧きやすい。
外に出ていても、自然と幼い子を連れた親子の姿が目に入る。
最初は僅かばかりの希望だったかもしれない。
しかし、それは少しずつ、抑圧された毎日の中で膨れ上がっていく。大きくなった時に、それを現実へと昇華させたかった。
しかし、その表面の皮はあまりにも薄かった。
今にも破れてしまいそうだ。
「旦那様は、男性としては不能者になります」
買い物帰りの車の中で、ある時、運転手がそう言った。
「何年も前からです。それ以来、女性の方とお付き合いしたことはありません。ですので、奥様との接し方も難しいのでしょう」
……それは、私のせい?
……会話が少ないのも?
……私に触れようとしないのも?
いつもの夕食。
いつもと変わらない静かな風景。
しかし食べ終わった直後、最初に口を開いたのはエマだった。
「今夜も……出かけられるのですか?」
フルオには何も驚いた様子はない。
「ああ、もう少ししたら出るよ」
しかし、次のエマの言葉に、フルオは動きを止めた。
「……子供…………欲しいんです……」
分かっていた。
無理なのだ。
子供を作ることはできない。
家族を作ることはできない。
夫婦になることはできない。
やがて、フルオは小さく溜息をついた。
エマはそれを見逃さない。
何かが弾けるように話し始める。
「もう一年です。私はあなたの妻になるためにここに来ました。あなたの家政婦では──」
「正式には夫婦ではない」
冷静な口調でフルオが続ける。
「まだ籍も入れていないしな。子供など生活の邪魔になるだけだ。金もかかる」
……作れないくせに…………
何も返せないまま、エマは動けなくなる。
……お金なんかいくらでもあるくせに……
そして、その夜、フルオは帰って来なかった。
眠れないまま朝を迎えたエマを訪ねてきたのは、警察だった。
その朝、初めてエマはフルオが反イノセント組織の人間だったことを知る。
そして、夜のテロ活動の末に命を落としたことも……。
社会的には、正式な妻ではない。
内縁の妻──もしくは母と同じ…………。
やがて、そんなエマが家を追い出されるのに時間はかからなかった。
僅かなお金を握らされ。
一年前に来た時の鞄だけを持たされ。
その家での最後の朝は、唐突に訪れた。
それまでの一年間の日々が、一歩ずつ思い出される。
何も無かった。
ただ、生きただけだった。
何も無い日々だった。
最初にこの街に来た時の気持ちを思い出せない。
思い出したくない。
そしていつの間にか、エマはいつもの喫茶店に来ていた。
何時間も、ただ歩いた。
「今日はどうした? 随分と暗い顔だな」
いつものように話しかけてきたマスターにも、どうしても言葉を返せない。
何時間もそこで時間を潰し、エマは店を後にした。
外はだいぶ日が傾き、夕暮れすらもその役目を終えようとしていた。
今夜泊まる所もない。
田舎にも帰れない。
行ける場所はなかった。
夜になると、このエリアは姿を変える。元々治安の悪いエリアだ。エマのような若い女性はどこにもいない。
行く宛てもなく、とりあえず今夜の宿を探そうと歩いていたエマに、男が声をかけてきた。若い男の声ではない。
「ねえちゃん、男欲しいなら世話するぜ」
なぜか、エマは足を止めた。
嫌な声だった。
しかし、どこか懐かしい。田舎ではよく聞いたような声だ。
「若いのもいるぜ……イノセントでも良ければな」
「イノセント?」
エマは応えていた。
「ああ……最近は色んな趣味の客がいるからよ。捨てられたイノセントの行き場所なんてこんな所ぐらいさ。だから男でも女でも客になる──」
寂しかったのだろうか……?
その時のエマは、自分で自分の気持ちを理解出来ていたかどうか分からない。
「イノセントを買えるの? それとも今だけ?」
路地を案内されながら、エマは男に訪ねた。
「どっちでもいいさ。でも買うとしたら安くはねえぜ」
お世辞にも綺麗とは言えない狭い路地だ。夜の闇のせいで、足元に落ちているものが何なのかすら分からない。
小さなドアをいくつか通り、やがてエマの目に入ったその光景は酷いものだった。
小さな部屋に、一〇人程がひしめき合っていた。
一〇人程のイノセントが──
──男──女────子供────
エマがいつの間にか口を開く。
「……赤ん坊は……」
「は⁉︎」
「……赤ん坊は……いないの……?」
「いるわけねえだろ赤ん坊なんて──そりゃあ何日かくれりゃ手に入れられなくもねえが……高くつくぜ」
「……女の子……女の子…………」
それはまるで、呟いているかのような声。
何も考えられなかった。
自分が、自分ではないような、そんな感情だった。
エマの本能が囁く……。
「女の子⁉︎ ここで女の子供っつったら……おい! お前! 来い!」
男が部屋の隅を指刺した。
そこには、一人の少女がいた。
ボロボロの白いワンピースを着せられた一人の少女。
その子は男の声に怯えるように、別のイノセントの後ろに隠れようとする。
「おい! お前だよ!」
「やめてっ‼︎」
いつの間にか、エマの足が動いていた。
そしていつの間にか、その少女を抱きしめていた。
「いいけどよ、ねえちゃん、金あるんだろうな──そいつは俺が工場から裏ルートで連れてきた奴なんだぜ。最近はそういう趣味の客もいるからよ」
エマは少女を抱き抱えると、ポケットに入っていた、握りつぶしたお札の束を押し付けた。
男はそれを広げるようして数え始めて言った。
「あ……ああ、分かった……いいよ。これだけもらえるなら文句はねえ。さっさと連れていきな。おかしな客だぜまったく──」
エマは少女を抱えたまま、走っていた。
少女の長い黒髪を揺らしながら。
お金は少ししか残っていない。
その僅かなお金で食べ物と飲み物を買うと、いつの間にか人気の無い場所を探した。
橋の下。
草むらの中。
エマは、少女と二人で、その日初めての食事をとる。
そして、眠った。
☆
カーイとレヴィの二人が養子を迎えるのには、それほど時間はかからなかった。
もうすぐ一才になる赤ん坊のイノセント。
ガーディンとルイーサも、その子を笑顔で迎えた。
もちろんそこには、六才になったトモの姿もある。
レヴィが赤ん坊を抱きながら、膝をまげ、トモの目線まで降りて言った。
「妹だと思って、仲良くしてくれる?」
トモにとっても、赤ん坊は初めて見る存在だ。
触ると壊れてしまいそうな感覚もありながら、子供ながらに、愛おしく感じた。
そして、トモが聞く。
「……名前は……?」
すると、レヴィがゆっくりと応える。
「……カーナ……カーナ・ヘール…………」
「……カーナ…………」
それから二年──。
三七〇九年──。
トモ・ホワイト──七才。
カーナ・ヘール──二才。
二人は本当の姉妹のようだった。
もちろんまだカーナは幼い。言葉も片言。
しかし明らかにトモがカーナに対して愛情を持って接していることはルイーサにも分かった。
まだカーナは自分がイノセントであることは知らない。
カーイとレヴィもいずれは話そうと考えていた。物心がついたら、しっかりと話すべきだと思っていた。それはイノセントであることを自覚しているトモのためでもあった。
しかしその考えに揺らぎが無いわけではない。
知らない方が、もしかしたら幸せに暮らしていけるのかもしれない。もちろんそれは戸籍を欺くことであり、その改竄が出来なければ、いずれ自分の戸籍を見た時に分かること。
夫婦としては、例えイノセントであっても自分達の子供であり、何も人間と変わらない。
もちろん何よりも大事な存在。
しかし、カーナ本人はどうなのか。
自分で選んで二人の子供になったわけではない。
自分がイノセントだと知った時、それをどう受け取るのか──カーイとレヴィにはそれが怖かった。
そんな時、以前から燻っていた戦争が始まる。
それは明らかに、人間とイノセントの戦争だった。
世界中にイノセントが存在しているとはいえ、イノセントが悪として考えられはしないのか。その時に愛する娘──イノセントのカーナはどうなるのか。
それはガーディンとルイーサにとっても同じ。もはや無視の出来る世界情勢ではなくなっていた。
しかし、何としても、トモとカーナを守らなければならない。
その気持ちに変わりはなかった。
そして、
ルイーサの元に、一本の電話が入る。
それは、子供の頃、孤児院で生き別れた兄──ルクスからのものだった。
受話器の向こうから、懐かしいような、それでいて初めて聞く大人になった兄の声が聞こえる。
『市役所のデータから追いかけた……』
そういう兄の言葉に、すぐにルイーサは言葉を返せなかった。
会いたかった兄。
兄に見つけてもらうために苗字も戻した。夫であるガーディンにも無理を強いた。
しかし、思い出したい過去ではない。
『結婚もしてるそうじゃないか……安心したよ』
「兄さんは? どうしてるの?」
『ラスカ・パーティスって科学者を知ってるか? 俺はその人の家で使用人をしていたんだが、その娘と結婚したんだ。婿養子だが』
ラスカ・パーティスはイノセント研究の科学者だった。確かに世界的に有名な人物でもあるが、同時に反イノセント組織にとっては危険人物でもある。実際に何人もの関係者がテロ活動で殺されていた。
「兄さんは大丈夫なの? そんなところに婿養子なんて──何かあったら──」
『お世話になったんだ……見捨てることは出来ない……』
……関わってはいけない……
反射的に、ルイーサはそう感じた。
『妻が妊娠したんだ。来年には子供も産まれる──お前は?』
…………!
『もう、子供はいるのか?』
……関わってはいけない……
「……兄さん……ごめんね…………」
ルイーサの声が震える。
「……もう……電話してこないで…………」
『どうしたんだルイーサ……』
「…………ここにも……こないで…………絶対に…………」
『ルイーサ──どうして──』
「…………お願い…………他人でいて…………」
『ルイーサ‼︎』
受話器を置くと、途端に静かになった気がした。
何の音も聞こえない。
……兄と……関わってはいけない…………
……あの子を危険に晒すわけにはいかない…………
……絶対に……トモを守る…………
ルイーサは、いつの間にか床に崩れ落ちるように両手をついていた。
止めどなく、視界が滲んでいく。
☆
ほとんど、お金は底をついていた。
鞄の中の僅かな洋服も売ったが、一食分にもならないまま、エマは少女の手を引いて数日を過ごした。
僅かな食料を分け合い、物陰で夜を過ごした。
少女はボロボロの白いワンピースのまま。
もちろん新しい服を買ってあげるお金もない。
その日の夕食は小さなパンを一つ──公園には水道もある。
二人がこの公園で夕方に食事をとるようになって、もうすぐ一週間が経とうとしていた。
街を見下ろせる公園のベンチに座り、味気のないパンを分け合う。いつもエマは少女に多めに分け与えていた。
少女のワンピースの横に、小さなポケットがあることにエマは気づいた。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
紙のようなものが見えた。
「これはなあに?」
少女は辿々しく紙を取り出すと、エマに渡した。
いくつかに折り畳まれ、擦り切れて皺だらけの紙──イノセントの製造データが書かれた認識証だった。
少女がこの世に産まれたことを証明する唯一の物……。
少女とこの世界を繋ぐ唯一の物理的な証……。
エマは紙を折り畳むと、少女のポケットに戻して言った。
「大事にするのよ。あなたがこの世に産まれた証だから……」
その言葉が理解出来ないほどに、まだその少女は幼い。
「まだ、名前もつけてあげてなかったね……娘が産まれたらつけたかった名前があるんだけど、いいかな?」
いつの間にか、夕日が辺りを包み込む。
少女は、オレンジ色に染まるエマの横顔を眺めていた。
「……トモ…………あなたの名前は、トモ…………私の娘…………私の名前は……エマ……」
幸せだった。
お金もない。
食べる物もない。
住む所もない。
行く宛てもない。
これからどうなるかなんて、想像もできない。
でも、幸せだった。
エマが立ち上がる。
そして、少女の手を取った。
「行こっか」
……この子を、守らなければ…………
……大事な小さな命を、私が守る…………
二人が、あの喫茶店に着いた頃には、時間はすっかり夜になっていた。
店に入る見窄らしい二人を見て、マスターが声をあげる。
「どうしたんだ⁉︎ しばらく顔を見せないと思ったら……何かあったのか⁉︎」
周りの客も驚いた様子で二人を見つめるが、エマはそのことにすら意識を向けられないほどに衰弱していた。
「まあ座りな」
マスターは二人を手近な席に座らせて続けた。
「この子はどうしたんだ⁉︎」
「……私の……娘です…………もう……行くところが…………」
「……娘? バカな……子供が欲しいっていつも言ってたじゃないか。いきなりこんな大きな……」
そして、マスターの表情が曇る。
しかしエマは、その顔すら見れずに視線を落としたまま。
「……まさか……イノセントか……?」
周りの客の数人が、その言葉に反応した。
椅子を引いて立ち上がる。
「裏で……買ったな……」
マスターが少女のポケットの紙を取り上げた時、エマは無意識に立ち上がっていた。
直後、マスターが振り解いた腕に、床に叩きつけられる。
起き上がる力も残っていない。
紙を見たマスターが、それを少女のポケットに戻すと、周りの男達に向けて口を開いた。
「どうする? いつものようにイノセントなんて殺して構わないが……この歳だ……小綺麗にすれば売れるぜ。組織の活動資金も余裕はない」
その力がどこからきたものなのか、考える余裕などなかった。
ただ、考えるよりも早く、エマは動いていた。
本能的に少女を抱え、店を飛び出す。
力など、ほとんど残ってはいない。
自分の体が痩せ細っていることにすら気がついていない。
ただ、今にも折れそうな腕で少女を抱え、今にも折れそうな足で走った。
背後から男達の声が聞こえていた。
いつの間にか、そこは、二人で初めて夜を明かした橋の下。
背後からの声が次第に大きくなってくる。
やがて男達に追いつかれたエマは、少女を──娘を川に向けて放り投げていた。
「にげてっ‼︎ トモ──」
その言葉が、頭に残った。
まだ三才、泳ぎなどもちろん知らない。
川の流れに逆らい、川に流され、やっと対岸に辿り着いた時は、だいぶ時間も経った後だった。
周りからは人の声はしない。
翌朝、少女は、そこがどこかも分からないまま孤児院の前で保護される。
川に浮かんだエマの遺体が発見されたのは、それから少ししてからのことだった。
☆
三七一〇年──。
戦火は世界中に広がっていた。
毎日のように空爆が続く中、その被害で住む所を追われたヘール一家は、ホワイト家へと身を寄せていた。
トモは八才、カーナは三才になっていた。
二家族で狭いアパートで生活するようになって、すでに一週間が経とうとしていた。
すでに仕事は無い。
全ての仕事と言えるものは廃業を余儀なくされ、僅かに残っているのは行政機関くらいなものだ。しかしそれすらも満足に稼働してはいない。この街から離れる人々も増え、街は閑散としていた。
食料も残りは少ない。
二組の夫婦は毎日、これからどうするべきかを議論し合った。しかし、どこに逃げても戦火を逃れることは難しかった。
そんな時、微かな希望が見えたのは、市役所での避難希望者向けの説明会を聞いてきたガーディンの言葉だった。
「シャトルが出るらしい。一機だけ、まだ残っていたようだ……」
すぐにカーイが噛み付く。
「バカな……空爆で全部潰されたって──」
「俺もそう聞いていたよ……! しかし、残っていたらしい……」
二人には共に無精髭が目立つ。
気持ちが落ち着かないのだろう。お互いについ声が荒くなってしまっていた。
子供達にはもちろんそれをどうすることも出来ない。しかし、トモもカーナも、常に緊張状態を強いられていることだけは肌で感じていた。
ルイーサが口を開いた。
「チケットは、市役所で?」
ルイーサも決して落ち着いているわけではなかった。
それでも、気持ちだけは常に強くあろうとした。
……子供達を絶対に守ってみせる……全てを捨てても、子供達をここまで守ってきた……
「ああ、市役所だ……しかし、あの金額を払ったら、それまでの食費すら……」
沈黙が続いた。
気持ちだけではない、金銭的にも余裕はなかった。
その沈黙を、それまで黙って聞いていたレヴィが破る。
「二人分なら……買えない?」
全員が顔を見合わせ、レヴィが続ける。
「子供達の分だけなら……買えない?」
その声は真剣だった。
座ったまま、膝の上の手と、唇が震えている。
部屋の隅で会話を聞いていたトモは、黙ったまま、隣にいるカーナの手を強く握り直す。
室内の空気は張り詰めていた。
一ヶ月後。
シャトルの出発当日。
いつも閑散としていた道路は渋滞していた。
歩道もまばらではあったが、やはり人の数は多い。
多くの人々が、同じ方向へと向かっている。
トモはルイーサに手を引かれ、カーナはレヴィに抱かれ、はぐれないように歩道を歩き続ける。
気持ち、少しだけ早足となっていた。
誰も口を開かない。
周りの人々もそうだった。
無言の群衆が、エアポートに進んでいく。
しかしその静かな群衆は、途端に辺りに響き渡る空襲警報で雰囲気を変えた。
増幅されたようなざわつきと共に、群衆の動きが早まる。
そして均衡が崩れ、一様にパニックへ。
遠くから、地面を通じて鈍い振動を感じる。
それは次第に大きくなってくる。
やがて、辺りの空気が震え始め、爆音に包み込まれた。
恐怖がトモの中に入り込む。
いつの間にか、前を歩く母の手を強く握り返していた。
そして振り向き、背後のレヴィに抱かれたままのカーナを確認すると、微かにホッとした自分を確認する。
前に向き直した直後、辺りが光に包まれる。
体が浮いた。
全ての意識を包み込むような爆音に包まれ、世界が暗転する。
訳も分からずに、トモは地面から顔を上げた。
周りが煙で充満する中、目を凝らした先にはカーナがいた。
トモと同じように顔だけを上げ、周りを見回している。
トモは突差にカーナへと駆け寄ると、カーナの体を包み込むように抱き上げ、周りに目をやる。
爆音のせいか耳がおかしい。
気持ちが悪い。
黒い煙が、少しずつ風に流されて散らされていく。
トモの足元。
瓦礫に埋まるように、レヴィの頭が見えた。
微動だにしない。
伸ばされた手の先には、カーイの姿。
どちらも顔は見えない。
しかし、生きていないことだけはトモにも分かった。
カーナを抱き抱えている手に力が入る。
「トモ‼︎」
ルイーサのその叫び声に振り返る。
「走って‼︎」
トモの肩を抱き抱えるようにしてルイーサは走った。
すぐ前をガーディンが走る。
「二人のチケットは私が持ってる! だから走って!」
ルイーサは叫んでいた。
周りに火柱が上がる。
その度に悲鳴が響いた。
やがて、目の前にエアポートの建物が見えてくる。
広大な滑走路と駐車場のその先に小さく見えるエアポートビルの周辺にも、黒い煙が至る所に立ち昇っていた。
絶望感の中にある僅かな希望に縋るように、数えきれないほどの群衆がひしめき合う。
流れが止まる。
群衆の流れは詰まっていた。
決して狭くないはずのビルの入り口でさえ、その流れを潤滑にすることは叶わない。
そしてそれは、空爆の格好の的となった。
蜘蛛の子を散らす間すら無い。
一瞬にして、多くの群衆が火柱と共に塵となっていく。
瓦礫と共に吹き飛ばされる人間の体が、その重さを感じさせないかように弾き飛ばされた。
空中を漂った瓦礫は、次の狂気となって群衆を襲う。
トモの目の前に落ちたその瓦礫は、かなり大きな物だった。
突然、目の前に、瓦礫に押しつぶされた父と母の姿が現れる。
最後に何か声をかける余裕もなく、何の会話も出来ないまま、それは突然に訪れた。
不思議と感情は湧いてこない。
何も考えられなかった。
そして、絶望と後悔が、少しずつ湧き上がってくる。
全てが無意味に感じた。
全てが意味の無いものに思えた。
これまでのことは、一体何のためだったのか。
しかし、ただ立ち尽くすトモの腕の中で、首に回されたカーナの腕に力が入った。
……生きてる……
……カーナは生きてる……
……わたしが、守る…………
トモは走った。
瓦礫の中、死体の合間を縫うように。
ひたすらに走った。
そして辿り着いたガラスの向こうに、シャトルが見えた。
周りの群衆の叫び声も、もはやトモの耳には届いていない。
チケットを持っていた母はもういない。
ここまでは辿り着いた。
しかし、トモには、これ以上どうすることも出来ない。
やっと、辺りが夕日に包まれていることに気がついた。
シャトルも、滑走路の表面も、カーナの表情も、オレンジ色に染まっていた。
誰かが、トモの横にしゃがみ込んだ。
トモが顔を向けると、その男性──かなりの年齢に見えるその男性は、優しい表情で外を眺めていた。
夕日に染まるその横顔を、トモは眺めた。
「お父さんとお母さんはどうしたんだい?」
そう話しかけてきた男性の声は、優しかった。
男性がその顔をトモに向けるが、トモは無言で頭を数回横に降る。
「妹かい?」
トモはカーナと繋いでいた手を握り直した。明らかにそれまでより強く。
「チケットは?」
トモは視線を落とした。
直後、男性は自分のチケットを取り出していた。別の手に持ったボールペンで、チケットの上に走り書きを始める。
そして、チケットをトモの手に握らせて続けた。
「これを持って搭乗口に行きなさい。係の人に見せるんだ。絶対に乗れる──君たち二人なら小さい。あの群衆の中でも掻い潜っていけるはずだ」
何かを言いかけたトモを男性が急かす。
「さあ! 急いで!」
トモはカーナの手を引き、群衆に向かって走っていた。
いつも、誰かに助けられた
いつも、誰かに守られてきた
いつだって、未来は想像とは異なる
思っていた通りになどなったことはない
わたし自身がこれからどうなるのかなんて、
わたしも、きっと誰にも想像できていない
ただ、何か意味はある
死んでいった人たちにも、必ず意味があった
わたしは、どんな意味を持って死ぬのだろう
その時まで、何があっても後悔することはない
……ありがとう…………エマ………………
灰色のジニア 中岡いち @ichi-nakaoka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます