後編

 二〇年前──

 わたしは、ここで産まれた──

 父、マルカスと、母、シオーヌの間に──

 でも、

 わたしは、見ていない──

 父や母、周りの人たちから聞いただけ

 わたしは、わたしの産まれるところを見ていない

 誰でも、そうなのだろう

 例え映像が残されていたとしても、その映像は本物だろうか……

 映像など、いくらでも改竄が可能だ

 自分にそれを確かめる手段はない

 自分自身に、その〝記憶〟がないからだ

 なぜ、幼い頃の記憶は無いのか……それとも忘れているのか……

 少なくとも、自分は覚えていない


 〝自分がイノセントではないと、わたしに確かめる手段はない〟


 最初から記憶があればいいのに……

 どうして自分が産まれた時の記憶が無いのか……

 わたしには分からない──

 わたしは、いつ、どこで産まれたのか──





 サーマの事件から三日。

 チマは自室に軟禁されたままとなっていた。

 警備部からの聴取はあったが、チマ自身が犯人の顔をしっかりと見たわけではない。部屋のネットワークからの情報では、ベルスが軟禁されている事実は確認出来なかった。

 しかし、サーマは意識不明のまま。

 それ以外は、これといった情報を見つけられずにいる。トモやカーナにも大きな情報の動きは無い。とはいえ、ステーションのネットワークを検索して得られる情報にも限りがある。友達が無事ならば、それだけでも大きな安心材料だ。

 やはり、あの時カーナから情報を聞き出したことが今回のサーマの事件の理由だろうか……。

 そして、今一番の気掛かりはフレンだった。

 なぜかフレンも軟禁されている。ネットワークからの情報だけでは、その理由までは分からない。あの場にいたトモとカーナはどうしているのか……これ以上は知りようがなかった。

 誰かにメッセージを送りたくても、それは遮断されていた。

 フレンとはの付き合いはまだ四年程だったが、始めて会った時、想像していた以上に気の合う相手だった印象が残っている。フレンと仕事上での繋がりが多かったトモからの紹介だった。

 トモ自身もフレンを事あるごとに気にかけていたのが分かる。カーナと同じように、妹に近い存在なのだろう。しかしその度に、チマの中に嫉妬に近いものが生まれていた。そんな感覚を抱いている自分がチマ自身は嫌いだった。自分の中のまだ幼い部分が露呈しているようで、何か別の感情なのではないかと悩んだこともある。

 自分自身では出来るだけ大人であろうとしてきた。管理課に配属されて五年になる。仕事も色々と任されている。今までの現状に何か不満があったわけではない。

 しかしそんな自分の中にある、幼く未熟な部分。それに気がついていることを認めたくない自分がいた。

 トモとカーナの繋がりでサーマに出会った時も、出来るだけ自分を大人に見せようと去勢を張っていたのかもしれない。しかし憧れの大人だったトモにそれを見透かされることも多く、その度に自分の幼さを痛感していた。

 大統領の一人娘という現実を、もしかしたら幼い頃から重荷に感じていたのかもしれない。チマ自身そう思うこともある。しかし彼女達は違った。あくまで等身大の友達として、姉のように、妹のように接してくれていた。全員がチマの立場を理解した上で側にいてくれた。

 それぞれの感情は、それぞれ違うものだ。

 チマにもそれは分かっている。それでも一緒にいると楽しかった。小さなことで雰囲気が悪くなることがあっても〝姉〟のトモがいつも丸く収めてくれた。

 トモとカーナの大変な過去も聞いていた。二人の繋がりの深さも理解している。

 自分には二人と違って両親がいる。フレンとサーマもそうだ。

 自分は何不自由なく生活できる〝幸せ〟な人生を送っているはず。

 しかし、何かが気になる……。

 地球からの避難世代の中には、明らかにチマに対して何かを隠しているように思えてならない態度を感じることがあった。

 そうすると湧き上がってくる好奇心は一つ──。

 自らの出自……。

 どこかに〝戸籍〟があるはず。

 今まで調べようとも思わなかった。しかし、それは簡単に見つかった。行政区のネットワークに入り、戸籍のデータベース内で自分の登録番号を使って検索をすればいい。秘密にされているものではない。

 簡単に辿り着いたチマにとって、残念ながらそれは新しい発見となるものではなかった。

 両親のこと、自分の生年月日──知っている情報だけだ。何も真新しいものはない。

 では、自分はイノセントではないのか……?

 では、サーマは……?

 サーマはイノセントだから狙われたのか──?

 フレンは──?

 フレンはなぜ軟禁されている──?

 イノセントは、それと分からないくらいに人間と同じなのだろう。だからいつの間にか潜り込めた。サーマがステーション産まれだということは、可能性は否定できない。しかし戸籍に何の表記もなければ分からない。

 完璧だ──。

 そして、それは自分も同じ……。

 しかし、ならば、犯人はどうやって人間とイノセントを見極めているのか──。

 チマの中で、疑念と不安ばかりが巡っていた。

 データベースを閉じ、メインフレームまで戻る。

 モニターを、ただ眺めていた。

 何かないか──。

 半ば諦め気味に天井を仰ごうとした時、視界の端に点滅するものがあるのに気付く。

 ──メッセージ?

 ネットワークは辛うじて使えたが、メッセージのやりとりは出来ないようにされていたはず……なぜメッセージが送られてきたのか……。

 開いたが、アドレスがなぜか表示されない。誰が送ったものなのか分からない。

 しかし、その内容はもっと不思議だった。


 〝 428 〟


 メッセージに書かれているのは、三つの数字だけ。

 ──428?

 全く身に覚えがない。

 発信者不明の〝428〟のメッセージ。

 ──誰が?

 目的も分からない。

 ネットワークで検索をかけてみると様々なデータが見つかる。当然三桁の数字だけなので、各部署の公式文書の発行番号に引っかかるものがほとんどだ。多くの発行番号は、そもそもの桁数が三桁ではない。最低でも一〇桁はある。

 ──キリがない。

 可能な限り流し見はしたチマだったが、この中に何かあるのだとすれば〝送信者〟はもっとヒントをくれるはず──そう感じていた。

 ──個人番号?

 ──それなら四桁だ

 現在は三桁で間に合っているが、将来的なことを考慮して四桁に設定されていた。

 個人番号のアクセス画面へと戻る。

 少しだけ、手が震えた。

 ──0、4、2、8……

 表示されるエラーメッセージ──。

 使用されていない。欠番だった。

 病気や事故で亡くなった人の物だろうか。

 ──4、2、8、0……

 モニターが白く切り替わる。

 ──はいった……

 次々と表示されていく文字。

 ──王立、第七研究所……?

 ──イノセント……

 ──カプセル……

 ──〝生命体〟……

 ──〝一〇〇億年〟……

 専門用語が羅列されていく中、チマに理解できるものはいくつかの単語だけ。

 総合的な理解は到底追いつかない。

 ただ、

 見てはいけないもの、であることだけは分かった。





 三七〇五年──。

 メリル・パーティス──二四才。

 父、ラスカと母、エラールの間の唯一の子供──一人娘だ。

 王立研究所で働くラスカの元、何不自由なく生きてきた。すでにラスカの研究成果は世間に発表されて数年が経つ。

 言わばエリート家族……のはずだった。

 メリル自身、最初の発表時は大学にいたが、それほど倫理問題が大きくなるとは思えなかった。しかし実用化が発表されてからは違った。大学での明から様な嫌がらせは日に日に増していく。毎日途切れることのない罵声に耐えられず、やがてメリルは退学を決意した。

 家族で家に隠れるようにして生きる毎日。

 父のラスカですら、研究所に行ける回数は明らかに減っていた。

 庭に火炎瓶を投げ込まれたことでの火事騒ぎも数回、無言電話や抗議の電話は数えきれない。銃弾を撃ち込まれたこともあった。当然、それに嫌気が差して使用人は減っていくばかり。もちろん身の危険を感じたことばかりが理由ではないことくらい、メリルにも予想はついた。

 家族以外の限られた人間──使用人ですら残りわずか。大学を退学した経緯から、メリルには友達と呼べる相手もいない。自然と、家族の会話も少なくなっていった。

 決して父のことが嫌いなわけではなかった。そのつもりだった。しかし事の発端が父の研究であることも理解している。

 メリルは大学では教育学を学んでいた。元教師の母親に憧れてのことだった。そのため、当然ながら父親の生物工学の世界に詳しいわけではない。だから父を責めきれない自分がいる。

 しかし、

 ──父が、あんな研究をしなければ……

 そう思ったことは何度もあった。

 父だけの研究ではない。父だけを責めても仕方のないことだった。それはメリルにも分かる。しかし、自然と父を避ける自分がいる。メリルはそんな自分も嫌いだった。

 もはや、家族全員の心が疲れ切っていた。

 いつの間にかカーテンを開ける習慣もなくなり、陽の光を浴びることも無くなっていた。配達される食材を使用人が調理し、食事には困らないはずなのに、最近は〝味わう〟という行為も忘れ、それに対する感謝も無い。以前は聞こえていた外からの鳥の囀りも、最近はなぜか聞こえない。

 当然、無意識の内に外からの情報も遮断するようになっていた。

 メディアからの情報は決して明るい物ではない。全てが自分達に向けられている──そう思えてならない。いつの間にかテレビのコンセントが抜かれていたことにもメリルは気がつかなかった。

 そんな無機質な毎日が続く中、最後まで離れようとしなかった使用人がいた。

 ルクス・ホワイト──二八才。

 六年程前から、長く使用人を続けていたルクスは、密かにメリルに恋心を抱いていた。もちろんそれが許されないことであることは彼も分かっていた。しかしその気持ちを押し殺したまま、気がつけば使用人は自分一人──。

 家族の変わり果てる姿を見てきた。

 親の顔を知らないルクスにとって、孤児院を出て路頭に迷っていた自分を拾ってくれたパーティス家は家族同然の存在でもあった。唯一の妹は行方が分からないまま。パーティス家から離れようなどとは考えたことも無かった。同時に、家族が壊れていく姿を見ているのも辛かった。

 そしてその年、ルクスはメリルと結婚する。

 婿養子として。

 結婚式も、その後の披露宴もない。

 家族だけ。

 四人だけのささやかな結婚だった。

 決して同情ではない。それがあるとしたら、それは外からの視線でしか生まれない感情だろう。なぜならば、すでに彼にとっては、パーティス家こそが家族だったからだ。

 もはやルクスは、使用人としてではなく、家族としてパーティス家を守っていくことしか考えられなかった。





 これほどまでにコーヒーの味を感じなくなったことは初めてだった。

 フレンは暇潰しの延長でコーヒーを入れ続けたが、流石に三日目ともなるとその回数は減っていた。

 工学課での職務中に突然警備部が訪ねてきた。そのまま理由も教えられないままに自室に軟禁されたまま、警備部からはなんの情報も与えられない。今回ばかりは逃げられなかった。

 ……トモがいてくれたら……

 そう何度も考えたが、全てが無駄なことだった。

 ネットワークで調べた限りで分かるのは、サーマの事件とチマの軟禁のみ。

 サーマの容態も分からないまま、ただ不安と疑念だけが思考を押し潰す。

 事件とイノセントに関係があるのかどうかも分からない。

 イノセントが狙われているとするなら、どうしてサーマが……?

 わたしもサーマも、チマもステーションで産まれてる……。

 ──わたしは本当に、人間なの?

 カーナの話からすると、可能性はあった。その疑念をどうしてもフレンは拭い去れない。ただ溜息を吐き続け、イライラとする気持ちの発散先を探し続けていた。

 いつもなら気にならないようなことまで気になりだす。

 雑然としたテーブルの上のガラクタが目に入るだけでサーマを思い出した。

 ……そういえば、いつもサーマに掃除掃除ってうるさく言われてたな……

 意識不明なまま──そんな情報しか分からないもどかしさ。

 軟禁されていなければ、いつものフレンなら走り回って情報を集めていただろう。メッセージのやりとりすら出来なくされている現状としては、やはりイライラが募る。

 サーマはイノセントなのか──。

 なぜ襲われた──?

 なぜチマとフレンが……。

 トモとカーナはどうしているのだろう……。

 ……こんな時、トモならどうするだろう……?

 トモはいつもみんなに頼られる存在だった。姉のような存在。よく工学課に出入りする関係で知り合ったが、特別トモがフレンを気にかけるようになったのは、やはりチマとのことだ。

 今思えばなんてことのない喧嘩だった。

 チマは元々無口なタイプだ。周りの誰に対しても一歩引いているところがある。決して本心を簡単に見せる性格ではない。そのせいで他人からの勘違いを生むことも多々あった。それでもチマ自身はそれを気にしていない。あまり他人からどう思われているかを気にすることはなかった。

 よく言えばマイペース。悪く言えば他人に関心が無いとも言える。

 それに対してフレンは決して無口なタイプではないが、人に対して本心を見せたがらない部分はチマと似ていた。しかし他人からの評価を極度に気にする繊細な部分も併せ持っている。人に認められたい気持ちが強いために上昇志向は人一倍だ。それが功を奏して工学課でもそれなりに仕事を任せられることも多い。それが縁でトモとも少しずつ関係を深めていった。

 よく言えば積極的。悪く言えば空回りで失敗することも多い。

 未だにフレンにとっては分からない部分があった。

 なぜかチマの態度を冷たく感じる時があったのだ。最近でこそなくなっていたが、フレンがトモと仲良くしていた現場を見られると、なぜかチマのフレンに対する態度は冷たく感じられた。しかも問いただしても話そうとはしない。

 トモに原因があるのか、フレンに問題があるのか。

 トモに言わせると、

「嫉妬してるんでしょ」

 ということらしいが、やはりフレンには分からない。

 トモは必ずこう付け加えた。

「それが彼女の可愛いところじゃない」

 不安に押しつぶされそうな今、なぜかフレンには、そのチマの気持ちが少しだけ分かるような気がしている。

 そして、なぜかそんな思い出すらも愛おしく感じていた。





 未だサーマは目を覚さない。

 三日が経つが、これからどうなるのかは、医療課のカーナですら分からなかった。

 カップにまだ半分以上残ったコーヒーはすでに冷めきっている。しかしカーナにその自覚は無い。日々の診察データをモニターで眺めてはいるが、それもあまり頭に入ってきていない。

 ──トモは、何を知っているの?

 背後の扉が開く音で、カーナは我に返った。

 振り返ると、そこにいたのは管理課のベルスだった。ベルスは後ろ手で扉を閉めて口を開く。

「あまり、ここには来ないほうがいいと思って……避けていたんだがな」

 そう言うとベルスは、いつもの重そうなブーツの音を立てながらゆっくりと診察室の中央まで歩を進めた。そして続ける。

「最近はあまり君のほうからのアクセスが無いのも気になっていた」

「別に……」

 モニターに視線を戻したカーナが続ける。

「用が無いなら、必要ないでしょ。わたしは実行班じゃない」

 そしてモニターを消した。

 それを見たベルスが応える。

「確かにそうだが……サーマの一件か?」

 背を向けたまま何も応えないカーナに、ベルスは続けた。

「彼女の容態はどうだ? まだ意識が戻らないとは聞いた」

「……やっぱり……あなた達なの?」

「彼女に、生きていてもらっては困るからな」

 無機質なベルスの声が続く。

「危なく、チマの奴にも見られるところだった……」

「彼女はあれから、警備部に軟禁されてる……フレンまで……」

「知ってる。俺の部下だ。もしも、見られていたら面倒だからな。二人とも、俺が警備部を焚きつけた」

「……サーマは──」

「最初の事件を──目撃した可能性がある」

「……それだけ?」

 カーナが振り返る。

 自分を見下ろすようなベルスの視線を浴びながらも続けた。

「あの子はイノセントじゃ──」

「違うよ」

「違う⁉︎」

 椅子から腰を浮かしかけるカーナ。

「イノセントだけって言ったじゃない‼︎」

 机の上のカップを大きく手で払う。冷たくなったコーヒーを辺りに撒き散らしながら、プラスチック製のカップが床で軽い音を立てて転がった。

「あの子はここの産まれだから戸籍を見ても分からないが、調べたよ。イノセントじゃなかった」

「戸籍?」

「ああ、避難組はイノセントの表記があるからすぐに分かるんだが、ここの産まれは表記が無い。分かりにくくするためだろうな。だからあの子は調べた。親も問題ない」

「だったら──!」

「目撃者を生かしておいては後々面倒なことになる」

「あの子は──サーマは遺体を発見しただけ──犯人は見てない!」

「それにしては──」

 ベルスは一歩だけ前に進んで続けた。

「随分と熱心に〝イノセント〟のことを調べていたようじゃないか」

 ──!

「ここにも来たんだろ? 〝みんな〟で」

 カーナは何も応えられないまま、浮かしかけていた腰を再び椅子に落とした。

 追い討ちをかけるようにベルスが滲み寄る。

「カーナ……何を話した?」

「……わたしは……」

 絞り出すような、か細いカーナのその声を、ベルスはすぐに遮る。

「〝友達〟が大事か?」

 ……!

「だったら、我々に対する忠誠心を示してくれ」

 カーナが視線を落とす。

 ベルスが続けた。

「誰にも分からないように、サーマを殺せ──」

 …………。

「色々と体に繋がっているんだろ。副主任の君ならなんとでも出来るはずだ」

 ベルスの片足だけが振り返りかける。

「頼んだぞ」

 そう言ってベルスが体を回し始めた時、カーナの声がした。

「……反イノセント組織……? ただの殺人集団じゃない…………」

 無言で、ベルスは視線を落としたままのカーナを見る。

 カーナが続けた。

「ここの……権力が欲しいだけなんだ!」

「……どうやら……君は勘違いをしてるようだね」

 ベルスの声はあくまで冷静だった。

 そして、その声が続く。

「イノセントの存在を許すわけにはいかない。君も同じ気持ちだから我々に賛同して──」

「だったら! だったら‼︎ ……サーマを…………」

 カーナの声が消えそうになるのを、ベルスが掬い上げるように口を開く。

「カーナ……君はさっき〝権力〟と言ったね……言うなれば、これは〝復讐〟なんだよ」

 ベルスのブーツの音が続く。

 扉の前で歩を止めるベルス。

「巻き込んでしまって、すまなかったな……サーマの件は頼むぞ」





 4280。

 それが誰の個人番号なのか、未だチマには分からないまま。

 ステーションの人口はまだ一〇〇〇人以下。とすれば、あの個人番号はおかしいことになる。誰のものでもない。

 おそらくは何かを隠すため──。

 そう考えるしかなかった。

 メッセージの送り主も不明な中、チマは完全に行き詰まる。

 しかし、誰かが自分に情報を流したことだけは間違いなかった。

 ──可能性があるとしたら……。

 父と母が部屋を訪ねてきたのは、その夜のことだった。

 元々広い部屋ではない。中心にある小さなテーブルを挟んで、その上にはコーヒーの入ったカップが三つだけ。

 三人とも、積極的にそのカップに口をつけようとはしなかった。

 静かに、僅かに空気が重い。

 そんな中、マルカスが口を開いた。

「最近は、辛いことが続いているな……しかもお前の友達はまだ入院中だ。率直に言うと、私達も心配でね。しかも警備部がピリピリとしているから、お前もこの間から不安だったんじゃないか?」

 ──父はどこまで知っているのだろう。

「色々と君達が調べていたようだと……ベルスからも聞いてる」

 ──主任?

 ──どうして?

「何を知りたいんだ? チマ……私に答えられることなら教えてあげるよ」

 隣にいる母のシオーヌが言葉を繋ぐ。

「……あなたは、小さい頃から好奇心の強い子だったわ。でもね、危険まで犯して欲しくはないの。あなたは私達の一人娘なのよ」

 チマは二人に背を向けた。

 パネルを操作する。


 〝4、2、8、0〟


 モニターに映し出される大量のデータ。

 マルカスとシオーヌは、その光景をみて固まる。

 目を見開き、言葉を失う。

 ──やっぱり……これは見てはいけないもの……。

 二人の表情を見て、チマはそれを確信した。

 ──もう、戻れない。

 先に口を開いたのはシオーヌだった。

「……あなた……どうして、それを……」

 完全に声が震えている。

 マルカスがそれに続ける。

「……何を見たんだ?」

 チマは、そのモニターを背景にしたまま立ち上がる。

 マルカスとシオーヌはその目を追っていた。

 両親を見下ろしながらチマは思っていた。

 ──誰を、信じたらいい?

 震えた両目で、両親は自分を見上げている。

 やがて、チマは無意識に口を開いていた。


「わたしは、人間なの?」


 まるで、時が止まったかのようだった。

 図書室で見つけた物理の専門書を見ながら、時間に関する不可思議な物理法則を少しずつ理解しているかのような、そんなクラクラとする感覚。

 それと同じかもしれないと、その時のチマには冷静なもう一人の自分もいた。

 どんなに考えたところで、それは理論でしかなく、過去はあり、未来もあり、そして今の自分がいる。決して時は止まったりなどしない。

 自分が知りたいこと。

 簡単だ。

 自分は、なぜここにいるのか──。

 それは過去を紐解くことであり、未来に繋げる意味をもつ。

 少しずつ、両親の目が変わっていくのをチマは感じていた。

 やがて、マルカスが口を開く。

「これから、君の話をしよう……」

 チマは立ち上がったまま、ただ頷く。

 マルカスの話が始まる。

「もう……イノセントのことは知っているようだな。結論から言えば、君はイノセントではない」

 …………。

「君の本当の母親は、このステーションに避難した直後、君を出産してすぐに亡くなった……君は私達の養子なんだ」

 ……養子……。

「残念ながら父親のことは分からない……到着した時には陣痛が始まっていた……君が無事に産まれた時は、周りのみんなで喜んだものだ……地球で戦争を経験してきたからね……分かりやすく言えば、人間とイノセントの戦争だった……愚かなものだ……ここでも同じことが起きている……」

 マルカスは自然と目を伏せて続ける。

「私達には子供がいない──シオーヌは……イノセントなんだ……」

 ──!

「地球では隠す必要はなかったが、ここでは秘密にしてきた……非難してきたシャトルの中にはシオーヌだけではない……他にも当たり前のようにイノセントがいた。そのくらい、地球では当たり前の存在だったんだ」

 いつの間にか、マルカスの隣に座るシオーヌも俯き、体を震わせていた。その手は、強くマルカスの手を握っている。

「我々避難世代はね……暗黙の了解というのか……なんとなくイノセントの話題には触れないようにしていた……みんな同じ人間としてステーションで共同生活をしてきた。しかし今ほど完全に隠していたわけではない。戸籍を見ればしっかりと書かれている」

 ──戸籍に?

「君もカーナから色々と聞いたと思う……彼女を計画に巻き込む決定をしたのは私だ……許して欲しい……」

 …………。

「彼女が、計画に完全に賛同していないことも分かっていた……悩んでいたようだね……しかし、すでに計画は動いていた。工学課から技術報告を受け取った時は、確かに私も悩んだよ……だが、もしかしたら、イノセントの存在をみんなに認めてもらいたかったのかもしれない」

 マルカスは、そう言うと軽くシオーヌを見て、震える手を強く握りしめた。

 チマが口を開く。

「不妊治療って……」

「ああ……ステーション内で多いことが問題になってね……そこに潜り込ませた……」

 …………。

「これは知っているかな……地球も同じだったんだよ。だから私は決断した」

 ──だったら……。

「しかし、ここで産まれたイノセントの戸籍には記載が無い」

 ────!

「人間として生きて欲しかったんだ」

 ……そんな……。

「イノセントは人間なんだ。シオーヌだって……」

 …………。

「……わたし……」

 絞り出すように、チマは言葉を続ける。

「……わたしの……本当の……名前は…………」

 そして、涙が溢れ出す。

「……チマ……パーティス……母親の名前は……メリル・パーティス……」

 マルカスのその言葉は、チマには宙に浮いているように感じられた。

 もはや、感情の行き先も分からない。

 しかしチマは、確認しなければならない。

 懸命に言葉を絞り出す。

「……サーマは……」

「彼女は人間だ」

 即答したマルカスが続けた。

「私も事件の後で不思議に思って調べた。しかし、彼女の母親は不妊治療を受けていない。しかも二人とも人間だ」

 チマはなぜかホッとした。

 そして気がつく。

 イノセントに対しての、僅かな嫌悪感──。

 育ての母はイノセントだった。

 しかし、その事実をまだ受け入れられない。

 今まで母親だと思っていた人は〝人間〟ではなかった。

 人工物──。

 イノセントは、人間──?

 もしかしたら、自分が人間であることに一番安心したのかもしれない。

 しかし、その話は真実だろうか……?

 ──わたしは、自分で、わたしの産まれるところを見たわけではない。

「カプセルのことは調べたかい?」

 マルカスの声に、チマは我に返って応える。

「カプセル?」

「あれはイノセントの全ての大元だ。あれがなければイノセントは生まれなかった」

 ──資料の中に……

「命だよ。完全にあれは〝命〟だった。人間が〝命〟を作り出すことに成功したんだ」

 ……そんな……

「あれは地球で作られた物だったが、その基本設計を最初に完成させたのは、何十年も前の、このステーションで……私の母が……それを完成させた……」

 ……どういうこと……

「……そのデータを地球に送り、そのまま母はモジュールを切り離し……そしてモジュールを解体した……」

 ……どうして……

「……耐えられなかったのかもしれない……人間がゼロから〝命〟を作り出すなんて……それを求めていたはずなのに……いざ完成すると、母は同僚の研究者を殺してデータを破棄しようとした……私もショックだったよ……」

 …………どうして……

「しかし、私の妹は──キャズリオールは諦めなかった……シャトルに乗り込む直前に連絡をもらったよ……見つけた、と……」

 止めどなく吐き出されるかのように、マルカスの言葉が続く。

「その〝命〟は頑丈なカプセルの中にある……一〇〇億年後に開くようにセットする……だから一〇〇億年後に人間を……地球に戻してくれと……」

 ──資料にあった一〇〇億年って……

「今の地球の大気組成が昔に戻り、人間が生活できる状態になるまで一〇〇億年はかかると……妹はそう言っていた……科学者だったからな……しかし、それが遺言だった……私にではなく、生き残った人類への……このステーションで、人類は終わるわけにはいかないんだ……ステーションが保たなくなった時のために、コールドスリープの研究も続けてきた……」

 ……そんなことまで……

 チマには想像もできないような重圧……背負っていたのはステーションの維持だけではない。

 人類の存続そのもの。

 〝神の領域〟に手を出してしまった母と、一生その呪縛から逃れられない兄妹……。

 チマには、そんな構図に見えた。

 自分の母が作り出した〝命〟を決して否定することなど出来ないのだろう。

 しかし、このステーションには、それを否定する者達がいる……。しかも、それもまた、地球と同じ……。

 多くを、チマも知ることになった──。

 もう、後戻りは出来ない。

 自分がどうしなければならないのか、早急に決めなければいけない。

 あまり時間は残されていないようだ。

 なんとなく、それだけは分かった。





 管理課に所属して二年目の頃、いつものようにチマは仕事終わりにトモに捕まっていた。

「面白い子がいるんだけど、会ってみない?」

 教育課程に入った頃から、なぜかチマはトモに付き纏われていた。とは言っても、別にチマもトモを嫌っているわけではない。頼りになる姉のような存在だ。トモのお陰でカーナやサーマとも知り合えた。

「どうして?」

 少しだけ不機嫌そうにチマが応える。

 決して仕事中に何かが合ったわけではなく、新たに他人と関わりを持つことが億劫に思えたからだ。なぜかトモは、事あるごとにチマを他人と関わらせようとする。少なくともチマにはそう見えた。

「今年からうちの工学課に入った子なんだけど、フレンって子知らない? あなたより一つ下の子だから学校で会ってるかもしれないけど」

「ああ……知ってる。話したことはないけど」

 チマは食堂のドリンクサーバーからコーヒーの入ったカップを取り出しながら、興味なさげに応える。

 トモが少し遅れて紅茶のカップを取り出しながら続けた。

「凄いのよ彼女。私が移動したら彼女に仕事を引き継がせてもいいくらい」

 チマはテーブルに着きながら、やっと向かいに座るトモの顔を見た。

「トモ、移動するの?」

「うん……近々ね」

「どこに?」

「代農食品技術課」

「どうして?」

「んー……人事の関係とか、色々あるのよ」

「……ふーん」

 チマがコーヒーを一口飲みかけたところにトモが食い込む。

「で? 歳の近い友達っていいと思わない?」

「いらない。トモがいる」

「でもほら──」

「カーナもいるしサーマもいる。後はトモがいれば充分」

「そうだけど……わたしは結構歳離れてるから──」

「別に……まだ若いよ」

「そう言われるのは悪い気はしないけど……」

 トモが心配してるのはフレンのことだった。

 トモはフレンにかなりの依存性を感じていた。ここ数ヶ月でフレンとの仲は深められたが、その結果としてフレンに依存されている現実にも気づいていた。困っているわけではない。しかしこれといった友達のいないフレンを残して課を移動することが憚られたのは事実だった。

「チマって、管理課にいると他の課と関わることってほとんど無いでしょ? 工学課だとあちこちとやり取りがあるからいいんだけど」

「別に困ってないよ」

「でもね……フレンって、友達作るの苦手なのよね」

 ……そういうことか

 チマはやっと理解した。

「トモは……相変わらずお節介だよね……そうやって他人のことばかり気にして……」

 以前から、チマ自身、そのお節介の世話になっている。

 他人と関わりを持つことが悪いことだとは思っていない。自分でも、なぜ自分がそれを敬遠するのか分からないまま生きてきた。

 だが、大統領の一人娘に対する周囲のよそよそしさは嫌いだった。

 しかしトモだけは違った。

 なぜか最初から〝友達〟のように接してきたのはトモだけだった。

 確かに両親とも仲はいい。それぞれ〝過去〟を持った者同士でなければ分からない繋がりもあるのだろう。チマはそのくらいに思っていた。その上でトモが自分を大切にしてくれているのも分かっている。

「……まあ……そうかもしれないけど……」

 トモが言葉を選んでいるが、チマから見ると、こういう時のトモが少し子供っぽく感じて微笑ましく感じる時がある。

「いいよ。仕方がないからトモの顔を立ててあげる」

「そんな言い方ないでしょ。近所付き合いも大事なんだから。ただでさえこんな狭いステーションの中で──」

「またやってる」

 カーナの声だった。片手には湯気のたつカップを持ち、その後ろには寄り添うようにサーマの姿も見える。

 トモがカーナの顔を見るなり言葉を弾かせる。

「カーナからも言ってやってよ。チマに人付き合いの重要性を分かってもらいたいんだってば」

「そんなもの強制することじゃないでしょ。チマにはチマなりの人付き合いがあるんだから」

 仲の良さの垣間見える遠慮のないやりとりが、チマには心地良い。

 カーナがトモの隣に座りながら、更にその横に腰を下ろしたサーマに声をかける。

「ね? サーマ」

 すると、ゆっくりとサーマが返した。

「……わたしは……カーナがいるから……」

 いつもの光景。

 いつもの雰囲気だ。

 そんな毎日が過ぎていた。





 今、カーナの目の前で、サーマが横になっている。

 両腕からの点滴だけでなく、鼻と口にもチューブを入れられ、医療課のカーナから見ても痛々しく感じる。

 サーマの自慢の長い髪も今はもう無く、頭には包帯が巻かれていた。

 意識が戻ることはないのではないか……?

 カーナはそうも思っていた。頭部の裂傷はかなりのものだ。意識が戻る可能性は低い。例え戻ったとしても記憶障害も考えられる。

 それならば……このままでも……

 ……しかし……

 ……自分のせいで、みんなが危険に晒されている……

 ……すべて、自分が悪い……

 ……もしかしたら……

 ……あの時、自分が話さなければ……

 ……サーマは…………

「……サーマ……」

 いつの間にか、カーナは無意識の内に口を開いていた。

「……サーマ……あなたは、一人が好きだったよね……でも……違うことは分かってた……チマやフレン……あなたは友達が増えたことを本気で喜んでた……」

 カーナは手にしていた鞄をベッド脇にそっと置いて開く。

「……良かったね……」

 中から小さく透明な円柱の容器を取り出すと、同じく鞄から取り出した注射器をそれに刺した。容器の透明な液体が、全て注射器に吸い込まれていく。

「……あなたは……みんなを救うの……」

 その注射器の中身を点滴のパックの中へ……。

「……大事な……友達を…………」

 ……これで、自然死に見える……

 ……これが、わたしの責任の取り方……

 涙は出なかった。

 気持ちも、思ったほど痛まない。

 ──人を、殺すというのは、こういうものか──

 不思議と、恐怖も無かった。

 鞄を閉め、カーナはサーマに背を向ける。

 しかし、なぜか足が動かない。

 ……わたしは、やるべきことをした……

 ……これで他の友達は救われる……

 ……もう……

 ……何も怖くない……

 カーナは、自分の頬を涙が伝うのを感じてハッとする。

 ……なに……?

 ……どうして……?

 ……サーマは意識が戻らないまま亡くなる……

 ……あの怪我では仕方がない……

 ……どうしようもない……

 ……だから……

 ……わたしが殺した……

 そして、病室の扉を開ける。

 そこにいたのは、サーマの両親──。

 母親がカーナに声をかける。

「あらカーナちゃん。いつもありがとうね。今日は──」

「今日の診察は終わりました。ごゆっくり」

 カーナは病室を後にした。




 警備部と反イノセント組織が衝突したのは、その夜──。

 再び起こった殺人事件の現場に警備部が居合わせたのが始まりだった。





 三七〇九年──。

 世界は混沌としていた。

 すでに世界中にイノセントが浸透して長い。

 初めこそ倫理問題を掲げて反対する世論に意見は分かれていたが、世界的な出生率の低下と人口減少問題が多岐に渡る意見の中に入り込んでいった。

 出荷される年齢を自由に設定出来るため、養子として、または労働力として人間の中に溶け込む。しかも、人間と同じように成長し、感情を持つ。人間と同じように学べば、同じように知識を吸収する。見た目は人間と変わらない。

 それはもはや人間だった。

 イノセントが人間と同じ権利を求めるのは、当然の流れだったのかもしれない。

 しかし問題は、その時すでに、各国の政府等の主要機関にイノセントが浸透していたことだ。

 やがて、そのイノセントに対して反旗を掲げる勢力が世界中に台頭する中、さらに世界を不安に陥れたのは、イノセントが指揮をとる国家の誕生だった。

 そして不穏な空気が世界を包み込んでいく中、情勢は複雑に入り乱れていく。

 通常の国家であっても、すでに多くの割合でイノセントが存在する。それは日々の生活の中だけではない。軍隊にも多くのイノセントが当たり前に存在した。

 もはや世界中が、誰が敵なのか、何が敵なのかが分からないまま、武力衝突を引き起こすことになる。

 そんな緊張する風潮の中、アイカルとラスカは相変わらず研究室に籠る毎日を過ごしていた。

「だいぶ緊張してきたな」

 アイカルが柄にもなくそう呟くと、応接室のソファーに深く腰を落とした。

 お互い七〇を過ぎ、いつ引退してもいい歳だったが、なぜか二人は研究室にしがみついている。周りの研究員がどんどん若くなっていくのを感じながらも、なぜかイノセントの研究が終わったように感じられない。それはイノセントの影響が日に日に大きくなっているのを肌で感じているからだろうか。

「珍しいな。今夜の懇親会か?」

 ラスカが皮肉を込めた笑みを口元に浮かべながらそう言うと、アイカルは眉間に皺を寄せて応える。

「バカな……今日のニュースのことだ。最近の世界情勢のことだよ」

「そんなことか。今更後戻りは出来ない。次はタイムマシンでも作る気か?」

「後悔をしてるわけではない。私は戦争の信奉者ではないというだけだ」

 そう言いながらも、アイカルに全く後悔が無いわけではなかった。

 確かに自らの手で〝命〟を作り上げたことは生物工学の世界では革命だった。自分が歴史に名を残した事実に高揚する気持ちは現在でもある。大変なことを成し遂げた。しかし、世界では戦争が始まろうとしている。しかもその理由の大きな割合を占めるのがイノセントとなれば、決して穏やかなままではいられなかった。

 自分が子孫を残せなかったことを、歴史に名を残すことで埋めているのかもしれない。冷静にそう考えたことはアイカルにもあった。しかし、その影響力はあまりにも大きい。名を残すどころか歴史に影響を与えてしまっている。しかもそれは人類の存続をも脅かしている。

 ラスカが溜息をついて口を開く。

「労働力になるのは分かっていたことだ」

「私は戦争のためにイノセントを作ったわけではないよ」

「兵士だって労働力だ。そこから逃げるのは科学者としては間違っている」

「科学は戦争のためだというのか?」

「過去の歴史を見ろ。科学の発展はいつも戦争と共にある」

「では今回が初めてかもしれんな……科学そのものが戦争を生むのは……」

 アイカルのその言葉を聞くと、ラスカは白衣のポケットからタバコを取り出して火を付ける。大きく天井に向かって煙を吐き出すと言った。

「戦争の原因など……俺達が考えてどうなるものではない。いつも戦争に都合よく利用されてきたのが〝科学〟と〝宗教〟だ」

 ほんの少しだけ間を開けてアイカルが応える。

「……否定はしない。しかし逃げているようで関心は出来ない」

「……あんたも歳とったな……一つだけ聞かせてくれないか? 神が本当にいるなら、どうして戦争なんか起こるんだ? どこの国の兵士も、神に守ってもらいながら人を殺すのか? それとも許しを乞いながら殺すのか?」

「私は兵士ではない。戦場の兵士の気持ちなど分かるものか」

「それなら、あんな〝悪魔〟を作り出した俺達を……神は許してくれるのかな……」

 それに応えられないアイカルを助けるかのように、応接室の扉が大きく開いた。

 入ってきたのは助手のキャズリオールだった。

「あら、今日はもうお疲れですか?」

 最近の研究成果の少なさからか、その言葉は皮肉めいたものにも聞こえる。

 アイカルが溜息まじりに応えた。

「なあに、いつもの科学談義さ。今夜の懇親会のことかい?」

「まあそれもありますけど……私も暇つぶしに外回りの仕事をしているわけではありませんので……今日はその成果を披露しに来ました」

「今更イノセント研究に乗ってくる企業があるとは思えんが……この風潮的に」

 ぶっきらぼうにそう言うアイカルの目の前に、キャズリオールは紙の束を突き付けた。

 そして続ける。

「〝カプセル〟の行方を掴みました」

 アイカルとラスカが同時に身を乗り出す。

 キャズリオールが続ける。

「昔……テロリストに盗まれてから行方不明になっていたカプセルです……私の母が成功させたものより前のデータモデルですが、母はそれを完璧なものにするために宇宙ステーションでの研究を続けたんです」

「……しかし、ならどうして……」

 アイカルの呟くような言葉にキャズリオールが続ける。

「母がモジュールを破壊する前に私にメールを送っていたことは覚えてらっしゃいますか? 母が作ったものは、最初のモデルよりも、もっと強大なものだった……常々母は最初のモデルを〝命〟そのものだったと言っていましたが、母が作ってしまったものは……そうですね……言い換えれば〝超人類〟のようなものだったのかもしれません……きっと、それを見て母は恐れた……人類にとって脅威になると……」

 アイカルが再び呟く。

「それが……送信された未完成なデータからイノセントを生み出せた理由か……」

 ラスカも口を挟む。

「完璧なデータが送られていれば、イノセントはもっと凄い存在になっていたと?」

「それは分かりません……しかし、その資料にあるカプセルのデータは……命そのもの……母はそれを実用化出来るものにしたかった……ただそれだけだったのに……」

 ラスカが応える。

「今のイノセントだって、戦争の火種になろうとしてるのに──!」

「戦争を作り出したのはイノセントの存在ではありません! 在り方です!」

「詭弁だ! 今回の戦争は危険すぎる! 大袈裟じゃない! 人類の危機なんだぞ!」

「──あのカプセルさえ見つけられたら……人類は──」

 アイカルがキャズリオールを遮る。

「君は……人類が滅亡した後のことを考えているんじゃないのか?」

 ラスカが目を見開いてアイカルを見る。

 そして口を開いた。

「……どういうことだ」

 アイカルが続ける。

「今回の戦争は核が使われる可能性が高い……イノセントが新しく作ったあの国……元々、核の抑止力で大きくなったような国だった……だからこそ世界中が動いてる……一発でも撃たれたら必ず相手も核で報復するだろう……そうなったら、もう手が付けられない……君はその後のことを考えているんだろう?」

 キャズリオールはソファーに深く腰を下ろした。背中を丸め、頭をさげ、何かその表情を見られまいとしているようだ。

 すぐには応えなかった。

 そして、ゆっくり口を開く。

「……もしも先生が言うように神様がいるなら……私達を許してくれるんですか?」

 アイカルは応えなかった。

 キャズリオールの微かに震えた声に、出しかけた声を押し殺す。

 何を言えるだろう……何を言おうとしたのだろう……アイカルの中で自問自答が回り始めていた。

 彼女を否定することなど出来ない……。

 彼女は、我々より大きなところを見ている……それだけはアイカルにも分かった。

 もはや、自分達ではどうすることも出来ないところまで世界は動いていた。

 いや、いつもそうなのだろうともアイカルは思った。

 全てがそうだった……いつも思い通りになど進まない。

 イノセントのことも……。

 自分の行動に対しての後悔など、きっと、もはや何の意味も持たないのだろう……。

 やがて、静寂を破るようにしてラスカが口を開く。

「来年には……孫が産まれるんだ……こんな世の中に…………」

 アイカルは、それには何も応えられずにいる。

 しかし、何か責任の取り方はあるような気がした。





 それは、もはや内戦のようだった。

 殺人現場を警備部の職員が目撃したことを始まりとして、ステーション全体に警報が鳴り響く。

 それぞれの勢力の人数が増えると、やがて衝突が始まる。

 警備部の職員の一人が首から血を吹き出して倒れると、もはや歯止めは効かなかった。

 緊急事態であることだけはステーション全体に伝わっていった。あちこちのスピーカーからは警報だけでなく、アナウンスがけたたましく流れ続ける。しかし、手近な部屋で安全を確保するように言われても、それが簡単に終わらない現状をステーションの構造が増長していた。

 明らかに混乱が広がっていく。

 警備部にとっても、このような事態は初めてのことだった。パニックから統制がとれないまま、ただただ被害者を増やしていく。

 もはやマルカスの声すら届かない。

 多くの人々が武器になる物を手にし、手当たり次第に振り下ろしていた。

 冷静さを保とうとしても、流石のマルカスですら焦りを隠せないまま、第一会議室のモニターに送られるデータを見つめ続けた。モニターの右上に警備部からの音声データが表示される。

 それは状況を知らせるものと断末魔の両方だった。

 ──どうする……どうすれば抑えられる……

 会議室には何度も行政官が報告に訪れるが、被害の拡大を伝えるものばかり。

 しかし、何度目かの訪問者は違った。

 マルカスが振り返った時、扉の前に立っていたのはベルスだった。

 ベルスが後ろ手で扉に鍵を掛け、その瞬間にマルカスの中で緊張が走る。

「大変なことになったな」

 ベルスはあくまで冷静な声だった。

 マルカスは冷静を装うことに必死だったが、それを演じられている自信がないまま応える。

「……そうだな……やはり反対組織がいたようだ」

「もう殺人事件がどうとか、そんな状態でもないな」

 そう言いながら、ベルスはゆっくりとマルカスに近付いていく。

 距離を目で測りながら、マルカスが応えた。

「聞いたか……サーマが死んだよ」

「……そうか……あの子はイノセントじゃないのに……」

「……ああ、違った……残念だよ……君が反イノセント組織のトップなことがね」

 ベルスの足が止まる。

 決して驚いているような表情ではない。

 マルカスが続ける。

「イノセントが狙われているなんて、まだ話したことはなかったはずだ──反論してくれベルス」

 マルカスは僅かな希望にすがりたかった。

 二〇年に渡ってステーション管理の陣頭指揮をし、自分の相談にも気さくに応じてくれていた目の前の親友が、今は殺人者として立っている。

 決して信じたくはない情報だった。こうしてる今でも半信半疑だ。

 こんなことが許されるはずがない。

 あまりにも、マルカスにとって目の前の現実は厳し過ぎた。

「どこまで知ってる?」

 ゆっくりとマルカスに近づきながら、ベルスは続けた。

「俺の周りにまで警備部を彷徨かせやがって……俺が何者か大体分かってるんじゃないのか?」

 現実は、やはり残酷だった。

 それは地球だけではない。ここでも同じだった。

「ああ……調べさせてもらったよ……お前は……私の母がステーションで殺した研究者の息子だ」

「よく辿り着いたな。お見事だ」

「苗字が変わっていたから簡単ではなかった……だがここの戸籍以外に……お前の場合は二〇年以上前からのデータも残っていたからな。戸籍を操作しても過去は消せない……」

 マルカスの背後のモニターから、再び警備部の叫び声が響く。

 ゆっくりと靴音を響かせながらベルスが応えた。

「父親があんたの母親に殺されてから、俺の母親は自殺した……それから俺は養子に出されて反イノセント活動さ……肉体労働の延長でステーション勤務になるとは思わなかったが……結果としてここにいる……最初からイノセント狙いの殺人だと気がついてたな? その前から俺はあんたのことは調べさせてもらってたが──」

「情報屋がいるのか……念のためにカーナは泳がせておいたが……」

「お互い様だろ?」

「……こんなことになって……これからどうするつもりなんだ」

「たまたまこうなっただけさ……まあ、所詮は素人の集まりだ。いずれはこうなっただろう。最初の殺人も怖がって死体を隠そうとしやがって……ここで生きてる奴らに現実を教えたかったのさ……事件が公にならないと意味が無いってのに、あいつら……」

 軽く口元だけに笑みを浮かべながらベルスが続ける。

「それでもイノセントの話をすると簡単に仲間は見つかったよ。地球と同じさ。ただ唯一違うのは、人を殺した経験のある奴がいなかったってことくらいかな。だから俺が最初に殺してみせた──」

「最初は──お前が……」

「俺は〝経験〟があるのさ」

「ばかな──」

「二〇年前……お前達がシャトルでここに来た時……ここにいた職員は何人だった?」

 ……!

「本来なら二〇人近くはいつもいたんだ──地上での核ミサイルの情報を聞いたら……あいつら気が触れたようになりやがって……仕方なく一〇人以上殺してやったよ……〝コロニー〟でな。それ以来、残った奴らにとっては俺がトップだった」

「それでコロニーを……」

「ああ……移住されちゃ困るんだよ。まさか今でもあんなサイズで残っていたとは思わなかったがな」

「どうしてもイノセントが憎いのか……? それとも私の母への復讐か──⁉︎」

「ああ……こうなったら後戻りなんかする気はない……あんたの〝城〟を滅茶苦茶にさせてもらうよ。あんたの母親がやったみたいにな──!」

 突然、ベルスの腰の無線機が音を立てる。

 マルカスの目の前まで迫っていたベルスは、ゆっくりと数歩下がって無線機のスイッチを押した。

「どうした?」

『──色々と大変みたいですが……こっちも大変ですよ──』

 管理課のシェリンの声だった。

『──あいつが──また来ました──』

「コロニーか⁉︎ 衝突の可能性は⁉︎」

『──八〇%────』

 それは、ベルスがその言葉に一瞬だけマルカスから視線を外した直後だった。

 ベルスの目の前が白く染まる──。

 まるで視界を奪われたようだった。

 いつの間にか体が落ちるのを感じる。

 何かは分からなかった。

 しかし、何度も頭に振動を感じる中、やがて、意識が遠くなっていく……。

 そして、血溜まりの床の上に、マルカスが立ち尽くしていた。

 不思議と鼓動は早くなかった。

 おかしなくらいに落ち着いている自分がいる。

 人類のため────

 人類のため───

 人類のため──


 しかし、この涙はなんだろう


 間違いなく、何かの終わりを感じている自分がいる。

 マルカスはゆっくりとモニターまで戻ると、パネルのスイッチを押して口を開いた。

「……トモ……聞こえるか?」





 三七一〇年──。

 世界全体が戦争の中にあった。

 前年に始まった小国同士の武力紛争が、瞬く間に世界を戦火に変えていく。

 年が変わったところで、世界のどこにも明るいニュースは無かった。

 殆どの国がそうであったが、敵国との対外的な戦争だけでは終わらなかった。内側にいる反イノセント組織が、国の中から情勢を蝕んでいく。国同士の同盟関係ですら無駄になりつつあった。軍隊の中に反旗を掲げる部隊が乱立すると、もはや何が敵なのかも分からなくなっていく。

 全ての国が全ての国と戦っていく中で、やがて国を国として維持できなくなる所も増え、もはや国同士の勝ち負けの基準も分からなった。

 そんな混沌とした世界情勢の中──。

 その日、珍しくアイカルはラスカの家に出向いていた。

 世界情勢の緊迫化から、研究所が反イノセント組織の攻撃を受けることも増えたからだった。それに加えて、所内での盗聴器の発見もやはり理由としては大きい。

 そして助手のキャズリオールはすでに研究所を出発して数ヶ月になる。定期的に連絡をもらってはいるが、カプセルは未だ見つかっていない。

 テレビやラジオはニュース一色になり、核戦争の恐怖を連日垂れ流している。

 いつの間にかプロパガンダも消えた。

 無駄だからだ。

 敵は外にも内にもいる。

 そしてそれは、研究所としても他人事ではなかった。紛れ込んだ反乱分子はもう何人も見つかっている。どこにも安全な所など無いようにも感じられた。

 事実、アイカルの自宅は年末に放火されて消失したばかり。国の用意してくれた集合住宅に転がり込んだが、貴重な資料の多くがもう元には戻らない。

「もう、あんなものは必要ないのさ……」

 その日も、アイカルはそう言って寂しげな表情を浮かべていた。

「今更、どんな研究も無意味だ……そうは思わないか?」

 そう問いかけられたラスカにも、その気持ちを理解できない訳ではなかった。

「なんだか……世捨て人にでもなったみたいだぞ。お前さんらしくもない」

 そう口にしたラスカだったが、もはや本気で皮肉を言っているつもりはない。

 そしてアイカルにもそれが分かる。

 長く、共に研究を続けてきた。

 お互いに独身の頃からだ。

 共感する所もあり、同時に何度もぶつかってきた。

 それでも、お互いに〝悪魔〟になりたかったわけではない。

 いつも良かれとやってきたことが、今、世界中を地獄に巻き込んでいる。

 在り方──カプセルを探しに行く直前のキャズリオールのその言葉が、ラスカにはずっと引っかかったままだ。アイカルもラスカも、決してそれを間違ったつもりはなかった。

 アイカルのように子供を持てない夫婦からは事実として感謝されることが多かった。

 それでもアイカルは自分の気持ちに大きな穴が空いたままであることにも気がついていた。

 どうして自分は──イノセントを養子にしなかったのだろう……。

 キャズリオールはシングルマザーとしてイノセントの女の子を養子にしている。

 しかし、なぜかアイカルは、イノセントを養子にしようとは思わないできた。

 父親になりたかった。

 無精子症であることを知った時、自分のこの世に於ける存在価値が崩壊したような気持ちだったことを覚えている。確かに父親になることだけが生きる糧であるとは言わない。しかし、生物学的に見れば、子孫を残せない自分は〝群れ〟の中では必要のない一個体に過ぎない。種の繁栄に貢献できないのだとすれば、生物として何のために産まれてきたのか。

 そんな感情を押し殺しながらの研究だった。

 ラスカにも、誰にも理解して欲しいとは思わなかった。

 理解してもらえるとも思っていない。

 妻も決してアイカルに要求しなかった。責めたこともない。去年の夏に亡くなるまで、アイカルを妻として支えてきた。研究に没頭することだけが生き甲斐だったアイカルでも、妻に対しては本気で感謝していた。

 そのせいか、妻の死から、ラスカやキャズリオールから無気力感を指摘されることが増えていた。一人になった寂しさか、世間への諦めか──確かに、今更イノセントの問題をどうこう出来るとは思っていない。舞台は完全に自分達の手を離れた。

 それを感じながらも、なぜか、胸のどこかに何かが残っている。

 諦めと、次の〝世界〟への希望。

 キャズリオールの探しているカプセルがどうなるのかは、正直分からなかった。世界中が戦時下の中で果たして見つけられるものか、キャズリオール自身の身を案じる気持ちももちろんある。

 しかしもう動いている。

 全てが、アイカルの手を離れていた。

「現時点でのキャズリオールからの報告は以上だ」

 アイカルはそれだけ言うと、分厚いファイルを閉じた。

 高齢にも関わらず未だにヘビースモーカーのラスカが、大きくタバコの煙を吐きながら呟く。

「どうなるのか……」

「そんなこと、我々に分かることではないのかもな……いつも自分で選択してきたつもりだった。だがどうだ。結局、未来なんて何も分からなかった」

「全てが失敗だったのか……」

「それすらも分からないんだよ……全ては結果だ。どうしてきたかなんて、もはやどうでもいい……どうなったか……だけでいい」

「そうやって、お前は逃げ続けてきたんだな」

「そうだな……」

 アイカルの表情はあくまで明るかった。

 そして続ける。

「求めていた未来は、全て自分の想像とは違う方向へと進んでいったよ……こんな未来は、自分で求めたものではなかった……」

「お前は、最後までそうやって悲劇の主人公を気取って死んでいく気か?」

「気取っていられるなら、それもいいさ……」

「全てを決めたのは、俺達だろ? その結果が今の世界だ──責任を取ろうなんて思うな。ただ、逃げるな。逃げずに死ね」

 吹き抜けのリビングを見下ろせる二階の通路に、二人の会話を聞いていたメリルがいた。妊娠から七ヶ月──すでにだいぶお腹も大きくなっている。

 昔も、リビングの二人の会話を聞いたことがあるような気がする……声を聞きながらメリルはそんなことを思い、軽くお腹をさすった。

 父のラスカの言葉が続いた。

「一ヶ月後にシャトルが出発する。一機だけまだ残っていた……まだ公にはされていない。だがもう少しで発表になるだろう……どうするかはお前次第だ。ここに残っていても、いずれは──」

「そうだな……自分で決めるよ……」

 それだけ言い残すと、アイカルは帰路に着いた。





 この感情を表すとしたら、どんなものがあるのだろう。

 バタバタとラボの中で動き回る他の職員の姿を、トモは主任室の中から眺めているしかなかった。

 恐怖

 不安

 後悔

 絶望?

 このステーションは、これまで築き上げてきた、唯一人類に残された希望だったはず。

 しかし、それが崩れ始めている。

 マルカスからの報告はそれを意味していた。

 もはや一時間前に受け取ったサーマの悲報ですら、その現実が薄らいでしまうようだ。

 自分はここまで何をしてきたのか……何のためか……誰のためか……このまま続いてほしかったのか……それとも、こうなることを望んでいたのか……分かっていたのか……。

 もはや自分の求めていたものが分からない。

 しかし、間違いなく何かが崩壊していくことだけは分かった。

 トモは他の職員に別室への避難の指示をすると、コンソールパネルを操作する。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……カーナ……そこにいるの?」

『──トモ⁉︎ どこにいるの?』

「そのままそこにいて……わたしなりの答えが欲しいの……すぐに行くから……待ってて……」

 トモは、第一会議室へと向かった。

 まだマルカスがそこにいることを期待したが、そこにいたのは彼だけではなかった。

 室内は真っ赤に染まっている。

 数人の警備職員、反イノセント組織と思われる男達が数名。

 マルカス以外の人間は、皆、血溜まりの中で倒れている。

 部屋の中心に立ち尽くしているマルカスの手には警備部の警棒が握られているのが分かった。

 トモの姿を見ると、マルカスは声を震わせる。

「……シオーヌが……殺された……」

 目の前に広がる光景に、トモは声も出せずにいた。

 シオールと思われる姿も確認できたが、それが誰のものか、それは血にまみれ、とても判別のつく状態ではない。

 マルカスの言葉が続いた。

「……もう……ダメなんだな……最後に……チマに……会いたかった……チマ……お前を本当の娘だと思っていたよ……」

 ……もう……ここは…………

「閉めてくれ……トモ……今までのことに感謝する……すまなかったな…………」

 何かを言いたかった。

 何も言えなかった。

 トモは数歩、廊下まで後退りすると、扉を閉めた。

 ……ここには……

 ……もう、絶望しかないの…………?





 血生臭い──。

 どこを見ても死体ばかり──。

 軟禁されていた自室を飛び出したチマの目に入ってきたのは、あまりにも凄惨な光景だった。

 恐怖と不安が実態を伴って目の前に存在する。

 自分が何をするべきか、そんなことは頭の片隅にも浮かばない。

 ただ、自分の目に映る光景を理解することが全て。

 警備職員の死体が転がっている現実が恐怖を増長させる。

 ……父が指揮を取っているはず……

 通路の一角にあるコンソールパネルに向かって第一会議室との連絡を試みるが、返答は無い。

 さらに募る不安の中で他の会議室や警備部を呼び出そうとするが、いずれも応える者はいない。

 友達みんなはどうしているのか──。

 入院中のサーマのことも気になった。

 手当たり次第に連絡を試みようとした時だった。

 鈍い振動を感じた。

 瞬間的に感じる。

 経験で分かった。

 ──デブリだ──

 少しだけ、冷静な自分が戻ってくるのをチマは感じていた。

 色々なことが起きている──今、最も必要なものは情報──。

 チマは第一会議室へと走った。





 フレンはけたたましい警報を聞いて部屋の扉を開けた。

 扉横に常にいた警備部の職員の姿が無い。

 アナウンスも響く──。

 ──避難?

 ──何が起きてるの?

 ネットワークは警報と同時に遮断されたままだ。何も分からない状態が、余計に不安を煽る。

 フレンは数日ぶりの廊下を進んだ。

 恐怖よりも探究心のほうが強くなっていた。説明もされないまま軟禁された理由も知りたかった。かと言ってどこに行けばいいのか……。工学課はなんとなく嫌だった。あのことを知って以来、自分の所属先とはいえ、気持ちの悪い印象しかない。

 しかも情報が遮断されたうえに、明らかに緊急なことが起こっている。

 時折、警報に混じって鈍い振動を感じた。しかも不規則に。

 ──トモの所に行かなくては……

 ──チマは?

 ──カーナは?

 ──サーマはどこ?

 胸の中で膨らんでいく恐怖を抱えながら、フレンはトモを探すために衛生管理部のモジュールへと急いだ。

 警報は鳴り続いていたが、不規則な振動を感じる以外は異常は見受けられない。

 分からない恐怖が、更にフレンを押し潰していく。

 衛生管理部のモジュールに着いても、状況は何も変わらない。途中、不気味な程に誰とも会わないまま、フレンは真っ直ぐトモのオフィスのある代農食品技術課へ急いだ。

 扉には鍵がかかっている。

 ──いないの?

 扉横のパネルのスイッチを押して、半ばフレンは叫んでいた。

「トモ! いるの⁉︎ いたらここを開けて!」

 頼れる相手は他にいない。

 いつものように、この不安を取り除いて欲しかった。

「トモ‼︎」

 直後、鍵が開く音が聞こえる。

 まるでそこに光を見たかのように、フレンは扉を開けて叫んでいた。

「トモ‼︎」

 しかし、研究室は電気すら点いていない。薄暗い中、奥にある主任室の明かりだけが室内を照らしている。

 突如その隣の扉が開いて、出てきたのは白衣姿のトモだった。

「トモ!」

 駆け寄ろうとするフレンをトモが制した。

「鍵を掛けてきて──待ってた──」

 その瞳はいつも以上に妖艶に見えた。そして、少なくともフレンには、少し怖くも感じた。

 フレンが鍵を掛けて主任室に入ると、トモはその鍵も閉めるように指示をする。

 ──どうしたの?

 当然、フレンには状況が理解出来ない。

 トモの様子は明らかにいつもと違った。

 どこか落ち着きがない。いつものトモには見えなかった。

「トモ……」

 自然と口から出たフレンの言葉に、トモが反応する。

「軟禁されてたって……」

「うん……チマも……サーマの事件は聞いたけど、あれから誰にも会えなかった……」

 ……伝えなければ…………

 フレンはトモに会えた安心感からなのか、張り詰めていたものが弾けるように詰め寄っていた。トモの目の前まで歩み寄る。

「何があったの⁉︎ チマは? カーナは? サーマは?」

 トモは、フレンと目を合わせようとしない。

 フレンが更に続ける。

「どうしたの⁉︎ 何か変だよ⁉︎ トモ! 何があったの⁉︎ 応えてよ!」

「……サーマが……」

 ──え?

 トモの肩が微かに震えていた。

「…………ダメ、だった……」

「どうして?」

 そう聞き返すフレンの目を見るトモ──。

 その目から瞬時に生気が消えたのを、トモは見逃さなかった。

「どうして? どうして? トモ? ねえ……どうして?」

 トモはフレンの両肩を掴んで応える。

「落ち着いてフレン……落ち着いて……お願いだから……落ち着いて……」

 トモ自身、自らが冷静さを欠いていることは分かっていた。

 そしてフレンは目の生気を失ったまま、今度は何も言葉を捻り出せない。

 そのまま、トモは無言でフレンを座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。そして、やっと口を開く。

「サーマは……イノセントじゃない……」

 フレンはそれを聞いても微動だにしない。

「サーマは……殺人を目撃したかもしれないと疑われてた……だから……」

「だれ‼︎」

 突然のフレンの叫び声が響く──。

「誰が殺したの‼︎」

「反イノセント組織……それしか分からない……今、警備部と衝突してる……今鳴ってるこの警報は──」

 トモは懸命に冷静さを取り戻そうとしていた。

「……なにそれ……なんなの……」

「医療課が頑張ってくれたようだけど……」

「……イノセントってなんなのよ……」

「人類はね……」

 少しずつ冷静さを取り戻しながら、トモが続ける。

「……もう、増えることは出来ないの……ダメなの……イノセントを作ったから……〝神〟と〝悪魔〟は一緒だった……」

「なんなのよそれ‼︎」

 フレンが立ち上がってトモを見下ろす。

 そして続けた。

「何も分からない! イノセントなんているから! イノセントなんているからサーマが死んだんだ‼︎」

 いつの間にか、トモも立ち上がっていた。

 いつの間にか、その目は、さっきまでとは違う。

「もうダメなのよフレン……もうダメなの……」

 いつの間にか、フレンに滲みよる。

「人類はもうダメなの……こんな小さなステーションですら戦争をする……」

 いつの間にか、フレンを壁に追い詰めていた。

「……わたしも……どうしたらいいのか分からない……」

 そして、いつの間にか、両手でフレンの首を締め付けていた。

 そして、自分でも気がつかなかった。

 トモの目に、涙が浮かんでくる。

「……悪いのは……イノセントなの……?」

 全身の神経を両腕に込めた。

 フレンは懸命に抵抗をするが、か細く声が滲むだけ。

「……ト………モ…………………」

 トモの涙が流れていく。

 やがて、その涙が一粒──床に落ちる。

 フレンの涙が、やがて床に溢れた。





 三七一〇年──。

 戦争が続いていた。

 エアポートの滑走路にはシャトル──スペースプレーンが一機だけ。専用のレールの上で、切り離し用ロケットへの燃料が注入されている。五〇〇名程度が乗ることが出来る大型タイプだ。

 宇宙ステーションには、元々駐留している人間が何人かいることは確認が出来ていた。

 マルカスの会社が辛うじて戦火を逃れていた一機を公にしたことで、エアポートはパニックとなっていた。これに乗ることが出来なければ生き残れない。

 マルカスはそれを知っていた。

 妹のキャズリオールからの電話をもらっていたからだ。一時間程前に核ミサイルが撃たれた。

もう時間は無い。

 妻のシオーヌを連れて、最初にシャトルに乗り込んでいた。

 ──人類を絶滅させるわけにはいかない……

 マルカスの中には使命感しかなかった。

 キャズリオールを信じた。

 母を信じた。

 爆音がシャトルの外から聞こえる。

 ──ここまで来たのか⁉︎

 ──このシャトルがダメなら、人類は終わる

 マルカスはそれを知っているだけに、その重荷を噛み締めていた。他の国でもシャトルで脱出している所はあるかもしれない。しかし〝カプセル〟のことを知っているのはマルカスだけ。

 ──自分が生き残らなければ……

 核ミサイルの発射の報道が出た直後から、このエアポートのロビーには群衆が押し寄せていた。

 時間は夕方。

 すでに敵とも味方とも見分けのつかない戦場がエアポートのすぐそばでも轟音を立てている。ロビーのガラス越しに火柱と煙が上がるたびに、ロビー全体が騒つく。

 ビリビリとした振動が常に辺りを包み込む中、煙の匂いのする埃だらけのジャケットに身を包んだアイカルがいた。そこに集まっている多くの人々が、それぞれ大きな荷物を持っているにも関わらず、なぜかアイカルは手ぶらだった。

 搭乗口に向けて群衆のパニックが押し寄せている。怒号と叫び声が響く中、疲れ切ったように小さくため息をついたアイカルは、その群衆を避けるようにして少し離れた椅子に腰を下ろした。

 チケットを手にしている者もいるだろう。だが、おそらくほとんどはチケットを手に入れることが出来なかった者達だろう。

 パニックの現状を他人事のように眺めながら、ジャケットの内ポケットに手を入れ、少し皺のついたチケットを取り出す。一週間程前にラスカから受け取ったものだった。

 ……こうやって、俺はいつもあいつに助けられてきたのか……

 そんなことが頭に浮かぶ。

 あれから何度も死ぬことを考えた。

 自殺ではない。

 考えていたのは、どうやって死ぬかだった。

 どうやって死んでいけるのか、それしか考えられない日々が続いていた。

 しかし、今日、こうやってエアポートまでやってきた。

 なぜなのだろう。

 戦火の中を掻い潜り、命の危険に晒されながらも、なぜかここにやってきた。

 もはや、自分が何を求めているのかすら分からずにいる。もしかしたら、ただ死ぬのが怖かっただけなのかもしれなかった。

 〝命〟の問題に一石を投じ〝命〟の問題に向き合ってきた自分の人生が頭を過ぎる。

 ……自分は〝命〟を蔑ろにしてきたのだろうか……

 そんな問題は、もはやこの段階では無意味にも感じられた。

 ロビーの大きすぎるガラスからはシャトルが見えた。

 すでにスタンバイは済んでいるのだろう。後は群衆の中からチケットを持った搭乗者を確実に乗せるだけ。

 いつの間にか、滑走路からシャトル、ロビーの中まで、辺りは一様にオレンジ色に染まっている。

 その時、ガラスの前に、二人の小さな影があった。

 まだ幼い子供に見える。

 一人はさらに小さい。

 手を繋ぎ、黙って外のシャトルを見つめている。

 髪の毛はボサボサになり、服はあちこちが擦り切れているように見えた。

 親はどこにいるのだろう……そんなことが頭を過ぎったが、いつの間にかアイカルは立ち上がっていた。

 ……自分に子供がいたら……自分の遺伝子を受け継いだ子供とは、親にとってどんな存在なのだろう……

 二人の──大きい方の子の横にしゃがみ込み、アイカルは同じようにしてシャトルを眺めた。

 その子がアイカルのほうに顔を向けた。

 二人とも女の子。

「お父さんとお母さんはどうしたんだい?」

 子供の扱いなど分からない……しかしそんなアイカルだったが、精一杯優しく話しかけた。

 アイカルが二人に顔を向けると大きいほうの子が、無言で頭を数回横に降る。

「妹かい?」

 繋がれていた手が握り直された。明らかにそれまでより強く。

「チケットは?」

 その子の視線がゆっくり落ちていく。

 ……群衆の中に、こんな幼い子供まで……

 直後、アイカルは自分のチケットを取り出していた。別の手に持ったボールペンで、チケットの上に走り書きを始める。

 そして、チケットを女の子の手に握らせて続けた。

「これを持って搭乗口に行きなさい。係の人に見せるんだ。絶対に乗れる──君たち二人なら小さい。あの群衆の中でも掻い潜っていけるはずだ」

 何かを言いかけた女の子をアイカルが急かす。

「さあ! 急いで!」

 二人が手を繋いだまま駆けていく姿を、見えなくなるまで見送ると、アイカルは再び外のシャトルへと視線を戻した。


 ……ラスカ……こんな〝生き方〟もあるんだな…………


 二人は群衆の中をすり抜けていく。

 途中何度も転びながら。

 でも絶対に手は離さなかった。

 やがて搭乗口まで着くと、その皺だらけのチケットを見た係の人間が手を振るわせる。


 ──王立第7研究所、主席主任アイカル・ミソル

 ──この女の子二人をシャトルに乗せて欲しい

 ──子供達の未来が潰されないことを願う


 係の若い男性は、チケットを二人に戻しながら、その目線の高さまでしゃがみこんで口を開く。

「二人とも乗りなさい。そしてこのチケットは絶対に無くしてはいけない。絶対に君たちのことを守ってくれるものだ。いいね」

 そして大きいほうの子が、搭乗者名簿に名前を書いた。


 ── トモ・ホワイト 八才

 ── カーナ・ヘール 三才


 二人が搭乗用通路に入った直後、辺りをそれまでにない轟音が包み込む。

 群衆が振り返ると、ロビーを火柱と黒い煙が覆い始めていた。

 天井が次々と崩れ落ちてくる。

 パニックが最高潮に達した。

 何度も辺りに爆音が響き渡る。


 背後で大きな音が響き、周りが明るくなった途端に、自分の体が浮き上がる──そして瓦礫だらけのロビーの床に叩きつけられても、メリルは自分の大きなお腹を守っていた。

 恐る恐る、さっきまで走っていた背後を振り返るが、そこに辛うじて見えるのは倒れている夫のルクスのみ。その手に歩み寄りながら、両親の姿を探した。

 しかし、さっきまで後ろにいたはずの父のラスカも母の姿も無い。

 辺りには瓦礫のような物が散乱するのみで、黒い煙が充満していた。

 ルクスの手を取った時、メリルは自分が涙を流していることにすら気がつけないでいた。

 まだ微かに息があった。しかし両足は無い。

 ルクスが小さく声を絞り出した。

「……行くんだ……子供と……一緒に…………」

 メリルは、確かに子宮の中で何かが動くのを感じた。

 ──この子は……生きてる…………

 何かに背中を押されるように、メリルは搭乗口まで走った。

 不思議な感覚だった。

 不思議と、さっきまで聞こえていた周りの爆音は聞こえない。

 ──この子のために…………

 ──この子のために…………

 ──わたしは、この子を守る…………

 ──チマのために…………





「……カーナ……」

 後ろから、カーナを呼ぶ優しい声がした。

 大好きな声だ。

 物心がついた頃から聞いていた、一番安心する声……。

 そして振り返ると、そこにはいつもと同じトモの姿があった。

 トモとは、どれだけ同じ時間を過ごしたのだろう。

 どれだけ同じ部屋の空気を吸ってきたのだろう。

 どれだけ手を繋いだのだろう。

 この診察室でも、多くの時間を共有した。

「……カーナ……」

 トモの柔らかい声が続く。

「どうしたの? 泣き疲れた顔してる……」

 そう言ってカーナに近づいたトモが、両手でカーナを包み込む。

「待たせてごめんね……話してみて……あなたと……ずっと一緒にいるから……」

 体だけではない。カーナは心までも包まれたようだと感じていた。

 たった一人の家族……。

 やっと、

 カーナの口から言葉がこぼれた。

「……わたしが……殺したの…………」

 …………

「…………サーマ……わたしが…………」

 …………

「……ベルスに言われた……だから…………」

 ……ベルス……?

「もしかしてカーナ……あなた…………」

「イノセントが許せなかった……」

 トモを見上げたカーナの目からは、止めどなく大粒の涙が溢れている。

「イノセントなんて……いなければよかったのに…………」

 …………ちがう……ちがうのカーナ……

「戸籍に書いてあるんでしょ? わたしはここの産まれじゃないから……見たよ…………」

 ────カーナ…………


「……わたし……イノセントだった…………」


 ……ちがう……ちがう……

「……トモは……知ってたの?」

 ……知っていた……

 ……でも、ちがう…………

 カーナは突然立ち上がり、トモの手を取った。そして扉まで促す。

「来て。一緒に──」

 カーナに引かれるまま、トモは一緒に狭い廊下を走った。

 いつぶりだろう。

 手を繋いで二人だけの時間を過ごすのは……。

 なぜか、何かが終わろうとしているような、そんな気がしていた。

 どうして、もっと一緒の時間を過ごさなかったのか……。

 後悔ばかりが頭を巡る。

 やがてカーナは、無重力エリア──廃棄物用エアシューター操作室の扉の前で止まる。

 躊躇なく扉を開けた。

 中に入り、トモの手を──ほどく──。

 エアシュータへの扉を開けると、素早く入って扉を閉じる──。

 扉をロックする音が無機質に響いた──。

 唖然とするトモに向かって、ガラス越しにカーナが言葉を弾かせる。

『声は聞こえるでしょ? そっちからのロックの解除方法は教えてあげない』

「何してるの⁉︎ 開けて‼︎」

 何度も扉のノブを動かすが、全くそれは無意味に思えた。

 カーナの音声がスピーカーから響く。

『サーマとは仲が良かったから……ここのことは色々聞いてたからね。よく遊んでたし』

 カーナは笑顔だった。

 穏やかな笑顔だった。

『……そのサーマを、イノセントのわたしが──殺したの』

「カーナ‼︎」

 ……ちがうの……カーナ…………

『イノセントなんて……最初からいなければ良かったのにね』

 ……ちがう……ちがうの…………

『ごめんね……わたし、人間じゃなかった…………』

 ガラスの向こう、カーナの右手が微かに動く──


『……ありがとう……大好きだったよ……トモ…………』


 エアシューターの外扉が開いた──

 瞬間的に、カーナの体が宇宙に吸い込まれていく──

 その光景から目を離せないまま、トモはガラスの前で大きく膝を落としていた。

 ……ちがうの……

 ……ちがうの…………あなたが…………

 ……あなたがイノセントでも…………

 …………あなたが産まれてきてくれたから…………


 …………わたしとあなたは出会えたんだよ……………………


 大きな振動がステーションを包み始める。

 遥か遠くの宇宙の空。

 エアシューターの四角いフレームの端には地球が浮かぶ。

 カーナの姿はもう見えない。

 キラキラと、フレームの中に光の粒が舞う。


 そして、

 トモの耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた……。

「……トモ……」

 今、チマの目の前に、崩れ落ちるかのように泣き崩れるトモがいる。

 トモが微かに首を回してチマと目を合わせた。

 それは、いつものトモのものではない。

 今までになかった程の大きな振動が、二人の視線を外させる。

 いつの間にか、あんなに繰り返されていた警報も聞こえない。

 チマは再びトモを見ながら叫んでいた。

「トモ! はやく!」

 駆け寄ってその腕を掴む。

「ここで何してるの! コロニーが来てる!」

 腕を掴んだまま、強引にトモを廊下まで引っ張り出すと、チマはそのままトモの手を掴んで床を蹴った。

「無重力エリアのほうが安全なはず──頑丈な所は知ってるから──」

 力なく自分に手を引かれていくだけのトモを感じながら、チマは喋り続けた。

「かなりの損傷を受けるから……回避はもう無理だから……」

 両親とベルスの死体を見つけた時、チマは覚悟を決めた。

 ──終わるのかもしれない……

 悲しさよりも、その時のチマに湧き上がったのは絶望感のほうが強かった。

 やがて、フレンの死体を見つけた時、チマは不思議な感覚に囚われる。

 ──終わるのなら……

 そして、やっと生きている人間を見つけたのがトモだった。

 しかしそのトモに、いつものような逞しさは感じられない。ここまで何があったのかをチマは知らない。何かがあったのだろう。想像するしかない。誰かの行方をトモに問いただしても無駄なことのように思えた。

 寂しさと恐怖が感情の全てを飲み込もうとする。

 事態が急を要することだけが、チマの早る気持ちを支えているかのようだった。

 通路が二股に分かれ、チマは足を止める。

 一瞬どちらにいくべきか悩んだ時、その手を引いたのはトモだった。

 驚くチマの手をしっかりと握り、トモは迷わずに走る。

 チマとこんなふうに手を握ったことはなかった。そしてそれが最初で最後になることを感じながら、なぜかこの瞬間がとても愛おしく感じられた。

 カーナの最後の笑顔が頭に浮かぶ。

 カーナのことを思い出とするには、まだ早い。あの笑顔が、まだ目の前にあるように感じられた。


 ……カーナ……大好きだったよ……わたしも…………


 やがて無重力エリアから重力モジュールへ──。

 トモが真っ直ぐ向かったのは、代農食品技術課──。

 中は暗いまま、相変わらず主任室からの明かりだけがやけに明るい。しかし時折パチパチと消えかける。ステーションがかなりの損傷を受けている証拠だ。電気系統に影響が出ている。電気系統がステーションの中枢にあることを知っているチマには、ただただそれが脅威に思えた。

 ──逃げ場はないの……?

 トモに手を引かれながら主任室の前を通り過ぎる。

 チマはつい視線をやる──そこにフレンがいることを知っていた。

 トモは脇目も振らずに、奥の重そうな扉を開いた。

「……ここはね」

 呟くように小さく、トモが語り始める。

「工学課とは別の、もう一つの秘密の部屋──」

 その声には、少しだけいつものトモの様子が垣間見られた。

「隠された工学科の──〝コールドスリープ〟ルーム」

 中にはいくつもの筒状の物体が横たわっていた。

「話すかどうか迷った……フレンの話を聞いた時は──」

 そう言って振り返ったトモは、先程までの力無い表情ではない。微かに目に涙を浮かべてはいるが、はっきりと何かの意思のようなものを感じる。

「どうしてこんな所にこんなポッドが──秘密の部屋を作ったか不思議でしょ?」

 トモは筒状の物体に近づいてスイッチを押す。機械の起動音のような、低い音がした。

「わたしはね……あなたのお父さんの……大統領の〝情報屋〟だったの」

 ──情報屋?

「だから、秘密の部屋を作るなら、ここが最適……そのためにわたしは工学科からここに移った……本好きなあなたに分かりやすく言うなら、スパイみたいなものかしら。だから、わたしはこのステーションの秘密はほとんど知っていた……あなたが見た〝4280〟もね」

「どうして、わたしにその情報を……」

 無意識にチマの口から出たその質問に、トモは全てを語り出す。

「あなたに……〝使命〟を感じて欲しかった」

 ──使命……?

「〝運命〟というには勝手すぎるのかもしれない……うん、勝手だよね……でも、わたしは、あなたの産まれてくる瞬間を見ていた……」

 …………。

「あなたの本当のお母さんが最後に言った言葉も覚えてる……」

 自然と、いつの間にかチマの目に涙が溢れる。まるで、トモの見たその光景を、今の自分が追体験しているような、そんな感覚だった。

「この子を……守りたい…………それだけだった……そしてわたしはその時初めて知った……人間の強さの根源を──」

 ポッドが大きく開く──。

「スパイとして──色々と、反イノセント組織の情報も流した……でも、あなたのお父さんは最後まで……わたしが組織とも繋がっていることには気がつかなかった……」

 ……そんな……どうして……

「…………悪い女でしょ…………わたしはあなたの使命を達成することしか頭になかった……人間もイノセントもどうでもよかった……カーナがイノセントだってことも知ってた……」

 ──カーナ…………

「でも……全てを知っていると思っていたわたしが、最後まで気がつかなかった……カーナが組織の一員だったなんて……」

 チマは、黙って震えるトモの背中を見ていた。

 そして、トモの言葉が続く。

「……彼女のことを……もっと知りたかった…………」

 その表情は長い黒髪で見えない。

 再びの大きな振動がポッドを揺らす──。

 長い──。

「入って!」

 トモのその強い声で、やっとチマは体が固まっていたことに気がついた。

 強烈な緊張感と共にあるのは、僅かな高揚──。

 トモに促されるまま、チマはポッドの中に片足を入れる。

 何が起こるのか、もうチマにも分かっていた。

「カプセルの話も聞いたでしょ? あれはまだ地球にある──カプセルからの信号をここでチェックし続けた……お父さんの指示でね」

 ……父の指示……

「あのカプセルは……まだ生きてる……最後まで……あなたのお父さんは人類の復活を信じていた……わたしはそれを引き継ぐ」

 チマがポッドに体を滑り込ませた直後、トモはパネルの操作を開始する。

「地球が元の状態に戻るまで一〇〇億年……そうしたら大気圏に突入する……地上に着いたら……あなたは目覚める──最低限の物資はこのポッドに──」

 自分で決断しなければならない──チマはそう強く感じた。

 あの資料を見た時から、この計画は知っていた。

 なんとなく、分かっていた。

 むしろ、こうなって欲しかった。

 こう、したかった。

 ──でも…………

「あのカプセルがあれば、絶対に〝命〟が産まれているはずだから──」

「……トモは……どうして行かないの?」

 いつの間にか口から出たチマのその言葉に、トモの手が止まる。

「……わたしは……あなたの本当のお母さんの言葉を信じる……人間の……母親の想い……」

「──他にもポッドはあるじゃない。行こうよ!」

 いつの間にか、チマの言葉が強くなる。

「一緒に行こうよ!」

 その声は、なぜかトモには、カーナの声に聞こえていた。


 ……一緒に行こう…………


「……ごめんね……わたし…………人間じゃないから…………」


 ……待ってて……カーナ…………


 カプセルの扉が閉まる。

 狭い暗闇の中、最後のトモの笑顔だけが、なぜか目の前から消えなかった。




  ☆



 ルイーサ・ホワイトが孤児院に来た時は、すでに日が傾きかけていた。

「本当は主人も来たがっていたのですが、今日は急な仕事が入りまして」

 ルイーサは職員に案内されながらそんなことを口にしている自分を少しだけ嫌悪した。

 ──何でこんな言い訳をしているんだろう……

 職員がルイーサに顔を向けながら笑顔で返す。

「こんなご時世ですからね。ここに来る子供達も最近は多くなりました……嫌な世の中ですよ」

「そうなんですか……そんなに……」

 ルイーサは決して裕福な生活をしているわけではない。むしろ世界中が不安な時世の中でその生活は厳しくなるばかりだった。二年前に結婚したが未だ子供にも恵まれないまま、夫との仲も少しずつ離れていくような気がしていた。

 しかし、最初に養子の話を持ち出したのは意外にも夫の方だった。

 夫は夫なりに、色々な思いがあったのだろう。傾き始めた夫婦の関係を元に戻したかったに違いない。

 そして行政の勧めのまま、とりあえず、という気持ちでこの孤児院を訪れる。

 その孤児院を勧められた時、ルイーサは少し戸惑った。

 自分もその孤児院の出身だったからだ。

 物心がついた時にはここにいた。

 両親の顔は当然知らない。

 育ての両親の養子として引き取られて孤児院を出たのは五才の頃。それ以来、同じ孤児院で生活していた兄とは会っていない。今となっては行方も分からないままだった。

 特別探そうとしたこともなかった。決して会いたくなかったわけではない。しかし、過去に触れるのが怖かった。

 でも僅かな〝何か〟にだけはぶら下がっていたかった。

 いつか兄が自分を探そうと思った時のために、引き取られて一度変わった苗字を結婚と同時に戻した。もちろん夫にも相談の上。行政機関や裁判所等、手続きは大変だったが、それでも夫婦の苗字をホワイトにすることには何の迷いもなかった。そのことは、今でも夫には感謝している。

 あの頃の記憶や過去を捨てたい気持ちと、捨てることの出来ない現実。

 いや、捨てたくなかったのかもしれない。

 唯一の兄との繋がりだったからだろう。

 そして今、あの頃と同じ廊下を、一〇年以上の時を経て歩いている。

 おかしな感覚だった。

 落ち着かない。

 そのせいか、くだらない世間話を職員と繰り返す。

 あの頃の自分は、もうここにはいない。

 別にここの待遇が悪かったわけではない。規則はそれなりに厳しかったが、理不尽なものではなかった。食事もしっかりとし、健康管理も問題はない。

 取り立てて嫌な思い出があるわけではないのに、胸のざわつきは収まらない。

「ご希望は特に無いとのことでしたが……性別もよろしいのですか?」

「……え、ええ……今回は様子を見に来たようなもので……」

 なんとなく、ごまかした。

 ──何を誤魔化しているのだろう……?

 一通り職員が施設を案内して回るが、もちろんルイーサには懐かしい光景ばかり。

 それなりに大きな施設だ。いくつもの三階建ての建物が囲むようにして中庭のような部分がある。幼い頃のルイーサはそこの大きな木が好きだった。周りをレンガ造りの花壇が囲む。よくその花壇の淵に腰を下ろして、大木の葉が作り出す影を眺めていた。

 その懐かしい記憶に重なるように、一人の少女の姿を見た時、ルイーサの足が止まった。

 運命というものがあるのかどうか、もちろんルイーサには分からない。

 しかし、その少女の長い黒髪に魅入られる。

 あの頃の自分と同じくらいの年齢だろうか。そんなふうにその子を見つめていると、職員が声をかけた。

「あの子ですか? もう三年くらいですかね……多分親の顔は覚えてはいないと思いますが……今は五才になります」

「そんなに長く……」

 ますます自分の過去が重なっていく。

 職員が続けた。

「なかなか引き取り手が見つからなくて……念のため……あの子はイノセントです……親は戦争で……」

 ルイーサの足が動いていた。

 ──イノセントだから?

 ──どうして?

 ──同じ〝命〟なのに……

 ルイーサは少女の隣に腰を下ろした。

 少女が不思議そうにルイーサを見上げる。

 ルイーサはいつの間にか口を開いていた。

「ここ……夕方、綺麗なのよね」

 少女の表情に笑みが浮かぶ。

 ルイーサの柔らかい言葉が続いた。

「名前は?」

「トモ……」

 




 ステーションの均衡が完全に崩れていく。

 巨大なコロニーとまるで融合するかのように、その姿が次第に広がっていった。

 やがて、唯一の宇宙ステーション「ジニア」の全てが崩壊していく。

 その塵に紛れるようにして、

 一つのポッドが浮かんでいた。




 そして一〇〇億年──。

 そのポッドは地球を回り続けた。





〜完〜

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