灰色のジニア

中岡いち

前編

 いつだって、未来は想像とは異なる

 思っていた通りになどなったことはない


 いつも、

 「まさかあのときあんなことになるなんて」

 と、

 お決まりの回想をする未来


 今は、

 誰も思い描いてはいなかった現実が、この宇宙ステーションの中にある

 この小さな窓から見える大きな灰色の惑星──地球とは、一体どんな所なのだろう


 分かっているのは、自分の名前と年齢だけ


 ──チマ・イオン──二〇歳──


 わたし自身がこれからどうなるのかなんて、

 わたしも、きっと誰にも想像できていない





 三七三〇年──。

 宇宙ステーション「ジニア」。

 地球の衛星軌道上に唯一存在しているステーションはジニアだけだ。

 総人口は八三五名。

 ちょうど二〇年前の人類の滅亡と同時に本格稼働したと考えるならば丸二〇年になるが、実際にはその八年前から二〇名程度の移住者がステーション経由でのスペースコロニーへの本格的な人類の移住準備を進めていた。戦争の終結から、結果として僅かな人類がステーションに避難した時点での総人口は五七八名。

 地球を覆う灰色の渦──ゆっくりと形を変化させながら、常に蠢いているその地球の模様を眺めながら、チマはこの時間を過ごすのが日課となっていた。

 筒状の無重力エリアを軸として、その周りを複雑に入り乱れるように回る人工重力エリアの最下層。

 最も外側にあるフリーエリア。

 そこの窓際にある椅子に座りながら、外に見える灰色の巨大な地球を背景に読書をするのがチマにとっての唯一のゆとりの時間だった。

 いつものように、肩にかろうじてかかる赤みの強い茶色の髪を首の後ろで小さく束ね、それがアクティブなチマの性格を表しているようでもあった。

 読書といっても、ステーション内の本は全てが古い物ばかり、まだそれが可能な頃、地球から持ち込まれた物だけになる。とはいってもその数は相当なもので、元々はコロニーが稼働した後の移住者用だった。

 その本を読みながら飲むコーヒーがチマは一番好きだった。

 それが本物の〝コーヒー〟というものでないのはチマも知っている。二〇年近く前には本物もあったらしいが、当然すぐに在庫は尽きる。結局チマの目の前にある飲み物はその味を再現したものに過ぎない。チマのようなステーション産まれの地球を知らない世代からすれば、それは感謝以外の何物でもなかった。ただの趣向品といえばそれまでだが、ただ生きるためだけにステーションで生活する人間にとっては。そういった〝趣向〟こそが生きる糧なのだ。

 少なくとも〝学校〟ではそう教わる。

 このステーション内でのいわゆる学校──教育課程は一〇才からの六年間。

 学校で学ぶまでの一〇年は親の責任とされたが、一五才で教育課程が終わると誰もが〝役割〟としての〝仕事〟を与えられる。

 チマが所属しているのは技術部の中でもステーションの保守管理を行う〝管理課〟。

 もう五年になるが、周りには今でも反対されている。ステーション内の物理的な修理だけでなく、実際に危険の多い現場だ。まだ地球に人類が文明を築いていた頃の残骸──スペースデブリへの対応も含まれる。実際に宇宙空間に出なければならないこともあることから、あまり人気の現場ではない。

 反対される理由としては、ステーション全体を束ねる行政区の大統領夫妻の一人娘ということも当然あるだろう。それに対してチマ自身の親への反発もあったかもしれないが、決して両親が嫌いなわけではなかった。

 ステーションに人類が避難した直後に産まれたチマを、まだまだ統括の取れていないステーション内で大切に育ててくれた。大変な苦労があったであろうことはチマにも想像ができる。しかし──大統領の一人娘だからだろうか──未だに周りが〝腫れ物〟に触るように自分に接してくるのが好きになれないでいた。

「休みの日のお前はいつもここだな」

 けたたましい厚底のブーツの音とトモに、窓辺に座っていたチマの背後から聞き慣れた声が響いてくる。

 管理課主任──チマの上司であるベルス・バイデルの低い声だった。

「いつものデブリだ。ゆっくりしてな」

 四五才になるこの男は、二〇年以上前からこのステーションに居続ける唯一の人間だった。地球が現在の状態になるのをステーションから見続けるしかなかった人間でもある。従って、ステーションの物理的な管理業務に於いて、この男ほど詳しい人間はいない。このステーションを経由する形でコロニーへの人類の移住を進めていた大事な立場でもあった。

 ベルスはチマの顔も見ずにエレベーターの中へと消える──同時に低めのサイレンが流れる──この音量の時はそれほどの緊急事態ではない。心配する必要は無いが、チマにとって残念なのは目の前の窓のシャッターがゆっくりと降りていくこと──。

 チマは目の前の大きなステンレスのマグカップを持つと、冷めかけたコーヒーを多めに喉の奥に押し込んだ。

 そして、大きく溜息をつく。





 エレベーターでセンターモジュールである無重力エリアに到達したベルスは、ドアを出ると同時に手近な壁を蹴り付けて機関室へと向かう。エレベーターの中で次第に重力が失われていく感覚もベルスにとっては慣れたものだった。もちろん若い世代には未だに嫌う者も多い。

 筒状である無重力エリアは直径にすると約一〇〇メートル、長さは一キロ程度──複雑に多くのエリアに分割されている大きなエリアの先端の一部に機関室がある。

 そのドアに足から到達すると、ベルスは大きく足で二回踏みつける。直後に開くドアの向こうに足から入ったベルスは、それと同時に声を荒げる。

「いつものレベルだろ? 休みに呼びつけんじゃねぇよ」

 その声にすぐに噛み付いたのは五人のオペレーターの一人、シェリンだった。

「残念でしたね。それなら俺だって呼んでませんよ」

 舌打ちをしながら近場のオペレーターのモニターに目をやるベルス。

 シェリンが続ける。

「このサイズと量は久しぶりだと思いますけど」

 するとベルスはモニターから顔を上げ、機関室の大きな窓から目の前に広がる〝星空〟へと目をやる。そして呟くように口を開いた。

「ほぼ正面か……」

 少しの間を開けて続ける。

「警戒レベルを〝3〟まで上げろ──どうして今まであんなデカい物を見逃してた……」

 それにシェリンが続く。

「シャトルか……もしくは建設途中だったステーションがまだ残っていたのか……」

「二〇年近く調べたんだぞ──どこに隠れていやがった……」

「隕石の可能性は──」

「──こんな遅い隕石があるか──デカすぎてレーザーも迂闊に打ち込めねぇ……回避準備だ。軌道の計算は──」

「──出来てます。回避軌道込みで──」

 間が開いた。

「よし」

 さらに間を開けて、ベルスが続ける。

「やれ」

 その口元に笑みが浮かぶ。

 機関室全体に鈍い振動が三回だけ伝わった。

 外の射出口の数カ所がガスを噴く──。

 それを窓越しに確認しながらベルスが口を開く。

「仕方ねえ、大統領に一報入れとくか」

 するとシェリンが大きな溜息をついて応えた。

「まぁ、いいですけどね」

 ステーション全体が、ゆっくりと、そして大きく、通常の衛生軌道を外れ始める。地球側へズレるか、逆に地球から離れるかはデブリの軌道次第だ。ズレすぎると戻れなくなる危険性を伴う判断でもある。地球に近づけば重力に引かれて落下の危険があり、離れ過ぎれば戻れなくなる。

 今回は外側──回避行動をとる程のデブリの出現は数年ぶりのことでもあった。管理課が一〇年以上の年月をかけて、多くのデブリを潰してきた結果だ。その多くはレーザー兵器での粉砕か、もしくは軌道をズラして地球への落下を促してきた。

 機関室にシェリンの声が響く。

「目視距離に入ります」

 ベルスが小さく呟いた。

「……早いな」

 星空が小さく蠢き始める──。

 それは次第に大きくなり──。

 〝正体〟が、見える──。

「……どこに隠れていた……」

 まるで呟くようにそう言いながら、ベルスが眉間に皺を寄せる。

 そして、機関室の大きな窓越しに、その〝影〟が姿を現した。

 巨大で無機質な塊──それを見たベルスの口から言葉が溢れる。

「……コロニーか……」

 その〝コロニー〟の巨大な残骸が大きくなっていく。

 シェリンの声が響いた。

「少しずつ形を変えています」

 その〝コロニー〟は想像を超えるスピードで形状を変化させる。

 崩れていた──。

「計算を修正します」

「任せる」

『ベルス!』

 機関室のスピーカーから大きく響いたのは大統領の声だった。

『メッセージ一通だけの報告でなんとかなるレベルなのか⁉︎』

「大丈夫に決まってる」

 ベルスはあくまで冷静に続けた。

「──俺の部下は優秀だからな」

 チマの父親でもある、宇宙ステーション行政区の大統領──マルカス・イオン。行政区の立ち上げから二〇年間大統領を続けてきて、現在は五九才になる。平均年齢の若いステーションの中では高齢の方だ。まだ統率の取れていなかった頃の避難してきた人類をまとめてきた信頼を、多くの人間から一心に受けてきた。

 決して政治家上がりというわけではない。科学者夫婦の両親と、それに憧れた妹も同じ道に進んだが、マルカスは反発するように別の道に進んだ。最終的には宇宙工学を主体とした会社を経営するに至る。決して大きくはなかったが、宇宙開発を担う下請け企業を育ててきた経験が、結果として宇宙ステーションで生き残った人類を支えることとなる。

『任せる』

 大統領としてのマルカス自身も、周りの人間を信頼していた。

「シェリン、新しい計算って間違ってないんだろうな」

「問題ありませんよ。信頼してください」

「本当かよ──近すぎねぇか?」

 ボロボロになり、パーツを撒き散らして崩れながら、そのコロニーはすでに目の前に迫っていた。

 その大きさは想像を絶する。

 元々はステーションの一〇倍程の大きさのある物だ。

 すでに本来の大きさの半分程度まで崩れてはいるが、それでもやはりその威圧感は大きい。

 ──それが少しずつ、すれ違い始める。

 ──そしてベルスの口数が増え始める。

「──残骸がぶつかるぞ──シェリン!」

 冷静を装うシェリンが応える。

「ギリギリで攻めるのが好きなんですよ」

「お前の趣味で仕事増やすな!」

「──これ以上軌道をズラしたら戻れませんよ」

「──────!」

 振動が続く──。

 不規則なその振動の強弱は、多くの残骸がステーションに接触していることを表していた。

 その振動の中、さらに大きな音が機関室に響いた──。

 全員が振り返った視線の中心にいたのは、息を切らしたチマだった。

 チマは誰と目を合わせることもなく、目の前を横切ろうとするその〝崩れたコロニー〟に驚愕した。

 こんな光景は初めて見るものだった。

 宇宙ステーションよりもさらに巨大な物──そんな巨大な物は見たことがなかった。

 驚きと同時に、チマは〝高揚〟していた──。

 いつもは灰色の地球しか見えないガラスの向こう側に、想像を絶する物がある──数え切れないほどの残骸を撒き散らしながら、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。

「──チマ」

 ベルスのその声で、初めてチマは我に帰る。

 そしてベルスの顔を見る。

 ベルスが続ける。

「──休みなのに、物好きだな、お前」

「あ……」

 何かを言いかけたチマは、更にベルス越しの外の光景に目を奪われる。

 太陽光を浴びた小さな残骸が、光の粒の広がりとなって機関室を照らす──その光景に心を奪われているチマには、ステーション全体を包み込む鈍い振動は伝わっていない。

 宇宙ステーションの外は真空の空間──地球にも人類は戻れない。

 人間が生きていくことができるのは〝ここ〟だけ──そして、チマは〝ここ〟しか知らない。

 この現状を変えることなどできない──〝現実〟と〝諦め〟が同義語のこの世界の中で、まだ存在する〝未知〟の世界。

 ──それが、今、目の前に広がっている──。





 行政区、第一会議室──。

 人工重力エリア内の行政スペースにその部屋はあった。このスペースの中では一番大きな部屋だ。しかし最大で二〇人まで利用可能なシートが部屋の内壁に沿う形で配置されている他はシンプルな構造だ。真っ白な綺麗な壁ではない。ツギハギを繰り返した雑多な印象の壁面が周りを覆う。

 その部屋で向かい合う形で腰を下ろしていたのは、大統領のマルカスとベルス。

 コロニーとのニアミス騒ぎから二時間。残骸の衝突による被害への対応指示をしたベルスが会議室に到着した時には、すでにマルカスはモニターの報告書に目を通した後だった。

「これは大統領としてではなく、このステーションを立ち上げから維持してきた仲間として聞きたい」

 このマルカスの言葉に、ベルスは少しだけ身構えた。

「〝アレ〟は、君が探し続けていたコロニーで間違いないのか?」

 シートに深く腰を沈め、大きく溜息をついたベルスが応える。

「まぁ、間違いないだろうな。懐かしかったよ……だいぶ崩れてはいたが」

 少し間を開けてベルスが続ける。

「それよりお前さんの娘の方が問題だ。どうしてあんな〝好奇心の塊〟に育てたんだよ」

「そういうつもりはなかったんだが……どうもあの子は、何を考えているのか分からないところがあってね」

「何か……気付いているとでも?」

「どうだろう……鋭い子だから可能性は無くはないが──」

「あの頃を知ってる人間も減ったな……俺の昔の同僚も、みんな死んじまったよ……コロニーに行ったことがあるのは、もう俺だけになった……お前たちがシャトルで避難してきた時に俺がまだあそこにいられたら、全員でコロニーに移住できたかもしれねぇけどな」

「どうしてあの時コロニーが制御を失ったのか、結局分からずじまいだった……まあ、今となっては……だが」

「問題は、どうして俺たちがアレを二〇年近く見失っていたのか──ということだ。もちろん避難したお前たちの方が優先だった……あの頃は何ヶ月もメチャクチャだったからな」

「ベルス……お前もよくやってくれた。感謝している」

「しかし昔アレを見失ったのは俺のミスだ」

「今回は追いかけているんだろ?」

「シェリンが中心になってやってる……あいつなら問題ない」

「次に脅威になる前に確実に──始末を頼む」

 マルカスは報告書の表示されたモニターの電源を落とすと、軽く息を吐いてから続ける。

「それと、これはまだ内々の報告だから、この部屋の外には持ち出さないようにお願いしたいのだが……」

「俺に関係のないことなら聞かなかったことにするが──」

「──いや、まだ分からないことが多くてな……このことは私と、警備部でも数名しか知らないことだ」

「警備部?」

 マルカスが、目線を落として応える。

「──〝殺人事件〟があった」

 二〇年以上、ベルスにとっては聞いたことのない言葉だった。

 ステーション内での殺人──事故での死亡は何度かあった。しかし殺人は無かった。ステーションで産まれた世代は、その概念すら知らない者も多い。教育課程でも敢えて教えてはいなかったが、無理をして隠しているわけではない。チマのように古い本を読めば分かることだ。しかし行政区の人間たちは、無理のない範囲で避けてきたのかもしれない。ステーション内では、最も避けたいことの一つだったからだろう。

 実際に、二〇年、それは起こらなかった。

 ベルスも目線を落とした。

「……こんな所でまで、殺人か……」

「想定をしていなかったわけではない……人口も増えてきた……むしろ今までよく起きなかったものだ」

「過去に一度あったらしいじゃねぇか」

「……まだ我々が避難してくる前……お前ですらまだここに来る前のことだ……宇宙で初めての殺人事件……あの時は──」

「──今回、殺されたのは──」

「食品技術課の、まだ一六才の若者だ……刃物で間違いないようだ。首を含めて五箇所も刺されていた……」

「…………」

「こっそりと……エアシューターから放出するつもりだったらしい……その前に廃棄物の処理をしようとしていた衛生課が見つけた……」

「……衛生課か……なるほどな」

「残念ながら、我々のような地球育ちの中に警察関係者はいなかったからな……殺人事件の捜査なんて、どうしたものか……」

「警備部で進めるしかないだろうな」

 ベルスはそれだけ言うと立ち上がって続ける。

「何か情報を掴んだら教えてくれ。協力出来ることはするよ」





 国際的に宇宙移民計画が発表されたのは三六七一年──。

 そして、国際宇宙ステーションを経由する形でのスペースコロニーの建設が開始される。

 しかしそんな頃、世界的に暗い話題が広がり始めていた。

 人口の減少──しかもそれは世界規模で起こっていた。

 それを契機にしたかのように進められるクローン研究……。

 そしてそれが公にされると、当然世間は黙ってはいなかった。

 出生率の低下に始まった人口の減少の理由は分からないまま……〝神の領域〟に手を出すことへの恐れか、宗教は科学に反目し、技術に未来を見い出す側との対立が激化した。そしてそれは、世界的な亀裂を生むまでに広がる。世間の関心は心理的な恐怖までをも作りだしていた。

 やがてステーション内での研究中の事故が、その風潮に拍車をかける。

 世界で初めて起きた、宇宙での殺人事件──。

 三六七四年──宇宙移民計画から三年後──。

 それは、当然のように極秘裏に進められていた研究だった。地上での研究を更に制度の高い研究にするべく行われた実験……。

 ロズリー・イオン──三〇才──。

 科学者として宇宙に赴き、同じく科学者のジルーク・エスと共に研究に没頭していた。

「ミセス・ロズリー、見て下さい」

 ジルークは研究データの表示されたモニターを見ながら、目を輝かせていた。

「ジルーク、そのデータにデジタル的なエラーはないの?」

 ロズリーは逸る気持ちを押さえながら、モニターを覗き込みながらもあくまで冷静に務めた。

「ありえません。実験データの収集直前には必ず自己診断プログラムを走らせていますので、エラーやウイルスが混在するはずは──」

「いいわ。間違いなくデータが保存されていることを確認したら地上に送信して」

 ステーションでの研究を始めてから一週間。

 成果は間違いなく上がっていた。

 その都度送信されるデータの数々は多くの科学者を驚愕させ続け、世間に蔓延する倫理問題は彼らの耳には届かない……。

 二ヶ月程経った頃、ロズリーは目の前のモニターを見ながら、自らの意思とは関係なく手が震える感覚を覚える。

 思考も止まってしまっているかのようだ。

 体が冷えていく。

 震え始める。

 そこに、自分がいる感覚が分からない──。

「ミセス・ロズリー、先程のデータなんですが……ミセス・ロズリー?」

 ロズリーの背後から話しかけたジルークは、振り返りもしないロズリーの顔を覗き込もうとしながらも、その視線の先にあるモニターが目に入ると、話を続ける。

「ああ、それです。そのデータなんですが……今までと、なんというか、違うんですよ。何か注入したデータにミスが……」

 そしてやっと、ジルークはロズリーの顔を見た。

「ミセス・ロズリー……どうしたんですか⁉︎」

 ロズリーは崩れ落ちるように膝を付く。

 そして呟くように言葉を絞り出した。

「……地上には……このデータを……」

 少し間を開けながらも、ジルークは応える。

「……いえ……まだですが……」

「絶対に──送ってはダメ……」

「──どうしたんですか⁉︎」

「……あなたには、分からないの……?」

 そう言われ、ジルークは再びモニターに目を戻した。

 ロズリーの声が続く。

「……それは……絶対に、送ってはダメ──」

「まさか、これって……まさか……」

「生物工学の科学者なら分かるはず……」

「これは……」

「消しなさい! すぐに!」

 ロズリーの声がモジュール内に響く。

 ジルークも、足が震え始めるのを感じていた。

 しばらくの静寂の後、ジルークが口を開いた。

「……これは…………成功じゃないですか……」

「違う!」

「大成功だ──! ついに成功したんですよ!」

「違う‼︎ これは──!」

「早くデータを──!」

 パネルを操作しようとしたジルークの手が止まる。

 息が出来ない──。

 喉が締め付けられる──。

 ベルトか──意識が遠のき始める中で、ジルークは〝それ〟を触った感触で感じた。

 後ろに強く引かれながらの抵抗──体の力が弱まっていくのも感じる。

 微かに視界の残るその端で〝送信ボタン〟を押す──。

 一時間後──。

 ステーションから切り離されたモジュールが分解されていくのを、他のステーションクルー及び地球の管制室が確認した。





 宇宙ステーションは決して平坦ではない。

 巨大なセンターモジュールの他に、大小様々なモジュールが常に増設され続け、元々複雑な内部構造を更に分かりにくい物にしていた。当然のように古いモジュールの修理もあれば、閉鎖から取り壊しになる物もある。

 そのせいか、この宇宙ステーションで産まれ育ったチマでさえたまに道に迷う。それは管理課の業務に就いて五年でも変わらない。

 コロニーとのニアミス事件は想像していたよりも甚大な被害をもたらしていた。管理課の全職員での点検と修理は丸二日を要することになる。

 無重力エリアの狭い通路内で何度目かの点検をしていたチマは、機関室から見たあの光景を忘れられずにいた。未だに胸が高鳴るのを感じる──。

 ステーション内全体が未だざわついている雰囲気の中、多くの人間が交錯する情報に振り回されて空回りを続ける。

 一人で作業を続けていたチマを捕まえたフレンもその一人だった。

「サーマが見付けたっていうのは本当なの?」

 そう言ってチマを質問攻めにしているフレン・イーシスは、チマと同じく地球を知らない世代だ。チマより一つだけ若く一九才になるが、決して幼く見えるタイプではない。教育課程で興味を持ったバイオ技術分野を更に勉強したくて技術部の工学課に所属している。フレンのような女性職員は少ない部署でもあった。

 技術部の工学課は、衛生管理部の医療課や代農食品技術課との繋がりが深い。

 医療課に於いてはもちろん医療技術の向上のため、代農食品技術課では野菜をメインとした食料事情の中で、大豆やトウモロコシを中心としたバイオ技術の向上のため──宇宙ステーションでの生活を支える重要な部署だった。

「あの〝殺人事件〟の噂──最初に被害者を見付けたのがサーマって話──」

 コロニーとのニアミスがある二日前、衛生管理部の衛生課で廃棄物処理を担当していた一人──サーマ・クルス、一八才──最初に事件の被害者を見付けたのは彼女だった。フレンとは姉妹のような仲の良さで有名だったが、あれ以来サーマの様子がおかしいのでフレンも独自に調査を進めていた。

 サーマはあれ以来部屋に籠ったきり、誰とも会おうとしない。警備部から口止めされていたとはいえ、フレンにすら口を開こうとしなかった。

 しかし情報とは流れるもの──被害者が出てしまったことは隠しようもなく、すぐに不確かな肉付けをされた〝噂〟が流れを加速させる。そしてフレンは行政区への探りを入れるために、大統領の父を持つ親友のチマから情報を得ようとしていた。

「サーマは……わたしとすら会おうとしない……心配でさ……」

 すると、少し離れた所から別の声が聞こえる。

「チマ──そこにいるの?」

 フレンの言葉を遮ったのは突然現れたサーマだった。

「サーマ──⁉︎」

 フレンの姿を見たサーマも、フレン同様に驚きを隠せない。

「──フレン、どうしてここに……」

「あなたこそ何してたのよ! ずっと部屋に閉じこもったまま──何があったの⁉︎」

「……うん……実は、チマに……確認したいことがあって……」

 四日前の夜──。

 サーマは、無重力エリア──機関室の正反対に位置する廃棄物用エアシューターの操作室にいた。目の前の大きなガラスの向こうには、大量のダストボックスが並んでいる。地球に向けて、重力に引かれるように排出され、いずれそれは大気圏への突入直後に燃え尽きる。地上に到達することはない。

 その時の仕事は管理課からの依頼だった。間違って廃棄予定のない資材がダストボックス内に混入した可能性があるから──とのことだった。

 操作室の中は他のエリアと同じくやはり雑多だ。様々な物資が、ステーション自体の増改築と同じように乱雑に室内に転がる。まして無重力の環境ではガラクタの山を固定するだけで一仕事だ。

 常々サーマにはその作業が無駄に思えてならなかった。潔癖症というものなのかもしれない──とサーマ自身も感じていた。思えば、自分の自慢の長い髪も、毎日綺麗にケアした上でまとめることに日々の満足感を得ている。微かに青みがかった灰色の髪。友達の次に大事な物だと、常々周りにも口にしていた。当然ながら自室の整理整頓も欠かさない。フレンからは週に一度は「同じ形状の部屋とは思えない」と言われるくらいだった。

 何度も周りの職員に言っているにも関わらず、やはりその日の操作室も整理整頓とは程遠い。

「衛生課とはよく言ったものね」

 皮肉を込めてそう呟きながら、そのまま制御パネルを操作してモニターを覗き込む。

「────⁉︎」

 パネルを操作する手が止まる──。

 しばらくして、サーマはパネルのスイッチを押した。

「……主任……はい……今、管理課の依頼でダストボックスの再チェックに来ているんですが……ボックスの中に、誰かが……いるんです……」

 背後で──。

 音がした──。

 積み重ねられた未使用のダストボックスの裏──気配を感じた。

 ──誰かが、いる……?

 ──どういうこと?

 サーマは始めて恐怖を感じていた。

 人が……ボックスの中にも……背後にも……?

 衛生課の主任が到着し、やがて警備部が到着し、操作室は騒然となる。

 警備部の長い聴取の末に、そのショックからサーマは部屋に籠り続けていた。

「……〝イノセント〟って……なにか知らない?」

 初めて聞くサーマのその言葉に、チマは唖然とするしかなかった。

 それを受けてフレンが呟くように口を開く。

「……イノセント……」

「あの時……死体をボックスから出してる時……〝イノセントなのか〟……〝イノセントの可能性は〟……とか──その時、大統領も……チマのお父さんもいたから──聞いたことない?」

 チマは黙って首を振るしかなかった。

 本でも読んだことがない単語だ。ましてや両親からも聞いたことがない。

 サーマが続ける。

「誰にも言うなって言われたし……死体を見付けたのは確かにショックだったけど……なんだか……みんな……怖かった……」

「……サーマ……」

 呟くようにして応えたのはフレンだった。

「細かいことはわたしも知らないんだけど……うちの工学課で……見たことがあるかも──」

「見た⁉︎ 見たって──」

 しかし、その言葉は視界に入ってきた浮遊物で遮られる。

 初めは──、

 黒く見えた──。

 しかもそれは──、

 一つではない──。

 丸く──、

 赤黒い──。

 三人が気が付いた直後、その赤黒い浮遊物は見る間にその数を増やす。

 チマの足の下、通路に入る小さなドアから、

 ──人間の上半身──

 ──後頭部から背中にかけて──





 一時間後──。

 チマ、フレン、サーマの三人は警備部の駐留エリアの一室に隔離されていた。

 警備部の駐留エリアは、無重力エリアから複雑に枝分かれした居住エリアの複数の場所に、分散される形で配置されている。緊急時の対応を考慮してのことだ。

 そしてここは行政区のあるエリアの一室。

 三人は無駄に広い部屋の一番奥の床に、膝を抱えたまま並んで座り込んでいた。

 誰も口を開いてはいなかった。

 全員の体に転々と赤いものが付着していることは、もちろん全員が分かっている。

 その時は、パニック状態だったと言っていいだろう。

 初めて目にする壮絶な光景から、ただ逃げることだけで精一杯だった。

 チマは右手の甲に付いた赤黒い汚れを見ていた。

 ──気持ち悪い……

 ──何かが、起きてる……

 ──記憶にある限り、こんな怖い経験は初めてだ……

「──あれ……」

 静寂を破ったのはサーマだった。

「誰だったのかな……?」

 しばらく、静寂が戻る。

 サーマも急かすようなことはしない。

 やがて静かにフレンが応える。

「……最初の人は……食品技術課だっけ?」

 そして続ける。

「部署に恨みのある人……?」

「でも、さっきの人は、工学課の制服に見えた……」

 サーマはそう返すと、すぐに工学課に所属するフレンの顔を見た。

「……うん……そうだね……知ってる人だったらどうしよう……」

 フレンの中に、再び恐怖が振り返してくる。

 再び、室内を静寂が包み、不安の塊のような広い空間が三人に伸し掛かる。

「……イノセント……」

 フレンが俯いて呟いた。白い髪が両耳を覆うようにして顔を隠す。いつもは後ろで束ねているが、騒ぎの中でいつの間にか解けてしまったのだろう。誰もそのことに気が付かないほど、やはり全員が冷静ではなかった。

 そしてフレンが続ける。

「さっき言ってた話……工学科に……〝何か〟あった……」

「──あった?」

 サーマが返し、フレンが更に続ける。

「──入れない部屋がある……上の人たちしか入れない……わたしは入れない……」

「何か聞いた?」

「──誰も教えてくれない……ほとんどの職員が知らないと思う……でも部屋から出てきた人の……書類を見たの……」

 サーマとチマがフレンの顔を見る。

 フレンは続けた。

「……あれは……遺伝子の配列データ…………生物工学──」

 突如、静寂が破られる。

 静かに開くドアの音と靴音。

 入ってきたのはチマの父──大統領のマルカスと三人の警備部の職員。

 警備部はもちろん制服だが、その姿を見たチマにとって疑問だったのは、全員が左腰に備え付けてある警棒を左手で抑えていることだ。

 ──すぐに取り出せる体制──?

 チマはすぐにそれを感じたが、もちろん口になど出せる状況ではない。

 三人の内、一人はドア──。

 二人目は少しだけ歩き部屋の中央に──。

 三人目はマルカスと共にチマたちの近くへ──。

 しかしマルカスよりも早くに足を止める──。

 そして、自分よりも警備部の職員に視線を配るチマを見下ろすと、柔らかい笑みを浮かべた。しかしチマは、何かがいつもと違うことに気づいていた。マルカスはすぐにフレンとサーマに視線を配る。

「三人とも、怖い経験をしたね」

 腰を落としながら、マルカスが三人に声をかけた。

 だが、なぜか、父であるマルカスのその声がチマには届かない。

 ──警備部が……距離を取ってる……?

 マルカスが続ける。

「君たちも詳細が分からないことには不安もあると思うが、今回のことは口外をしないようにお願いしたい」

 ──何が起きてるの……⁉︎

「不幸な事故の現場に立ち会ってしまっただけだ……早く忘れられるように我々も協力は惜しまない」

 ──事故?

「君たちの両親にもすでに報告済みだから安心してくれ。ただくれぐれも──」

 ──背中に何本ものドライバーが刺さる事故って……

 マルカスはチマの顔を見ながら続ける。

「口外だけは許されない」

 やはりその表情は、いつもの父のものではなかった。





 三六八四年──。

 メリル・パーティス──一三才──。

 彼女は裕福な家庭に育った。

 父のラスカはバイオエンジニアとして国直轄の研究機関で二〇年以上働き、それなりの成果をあげ、世界的にどの国でも貧富の差が社会問題として取りざたされる時代においても、家族は暮しに何の不満も持たなかった。使用人がいることを考えると、むしろ裕福な家庭と言えるだろう。

 しかし、メリルは最近の父の様子がおかしいのを敏感に感じ取っていた。

 滅多に帰りの遅くならない父が、最近では職場に泊まり込むこともあるくらいだ。母はメリルに何も言わないが、その母が父を心配していることくらいは一三才にもなればメリルにも分かった。

 しかし帰りが遅いだけではない。父は明らかに疲れているように見える。朝や夜の遅い時間、布団の中のメリルに、父と母の大声が聞こえてくることも増えた。しかしメリルの前では、母もそんな態度は見せない。メリルも知らないフリを続けていた。

 そんな日々が続いたある日、珍しく父が早く帰った日、父は疲れているのか言葉も少なかった。

 暗い夕食。

 しかし、母も無理にその暗さをなんとかしようなどと考えている様子はない。

 メリルにとっては居心地が悪かった。

 もちろん父と母のことは心配だが、しかしそれよりも、やはりその場の雰囲気が嫌だった。最近の家の中の空気が嫌だった。かと言って、二人に何かを聞ける勇気などない。ただ耐えるしかなかった。

 夜、メリルが布団に入ってから父に来客があったのが、微かに聞こえる話声で分かった。初めて聞く男性の声だ。父と同じくらいの年齢だろうということはメリルにもわかった。お互いに敬語は使っていない。

 時折、強い口調になる──。

 嫌な気分だった。

 気持ちが悪くなりそうだ。

 ──はやく寝てしまいたい──そう思いながらも、メリルはなかなか眠ることが出来ない。それどころか、いつの間にか微かにリビングから聞こえてくるその声に耳を傾けてしまう。

 理解の出来ない言葉が、途切れ途切れで次々と耳に飛び込んでくる。

 母はどうしているのだろう……そんなことを考えながら、メリルはいつの間にか上半身を起こしていた。そしてベッドから足を下ろし、いつもそこに揃えているスリッパに足を入れる。それは三年前に父が買ってくれたお気に入りの物だ。やがてメリルはドアまで歩き、ドアをそっと開ける。

 階下から聞こえる声と同時に、部屋に廊下の明かりが入り込む。

 さっきよりもはっきりとリビングの声を聞きとることが出来た。

 嫌な言葉が並んでいた。

 ──気持ち悪い……

 メリルは、本能で嫌悪感を感じていたのだろうか。

「違う──そんなことじゃないんだ。あのステーションから送られてきたデータは──」

 客の男の声だ。

「いや。本当にお前は否定できるのか?」

 父の声……しかし、メリルが聞いたことのない声。

 ──いつもの……お父さんじゃない……。

 その声が続いた。

「踏み越えてはならない一線だぞ。そんなこと……世間が許すものか」

「知ったことか──俺は歴史に名を残せるチャンスをこの手に握っているんだ!」

「悪魔としてのレッテルを張られてもか! 追放されるぞ!」

 ──悪魔──?

 メリルはいつの間にか、一歩だけ後ずさっていた。

「そんなことはない……」

 微かに語尾を落とした男の声が続く。

「〝神〟も許して下さる……」

「バカな!」

 父の声が家中に響いた。

「〝命〟を造り出すんだぞ! お前が〝神〟になりたいだけだ!」

「〝神〟は──」

 一瞬、静寂が時間を包む。

「──御一人だけだ……俺は神に仕えているにすぎない……神の手伝いを──」

「狂ってる!」

「違う! お前こそなぜ神と向き合わない!」

「お前は神の存在を利用しているだけだ! 俺達は科学者だぞ! 科学に宗教を持ち込むな!」

「神こそが、科学を正しい方向に──」

「詭弁だ!」

「お前こそ──!」

「お前は狂ってる! 自分が子供を作れない体だからって──」

 再びの静寂……。

 そして、トーンを落とした父の声。

「……お前には同情するが……まるでお前は……」

「……残念だよ……お前は理解してくれると思っていた……」

 しばらくして、ドアの音が聞こえ、静かになった。





「カーナに会いにいこう」

 チマとフレンに対して最初にそう提案したのはサーマだった。

 カーナ・ヘール──二三才──。

 サーマと同じく衛生管理部だが、所属はその中の〝医療課〟になる。部は違うが、管轄する内容的にフレンの所属する工学課との絡みも多い。

 そのため、フレンとの付き合いは長い。しかし、もっと付き合いが長いのはサーマのほうだった。教育課程に入る前からの付き合いでもある。

「医療課だったら、何か情報あるかも」

 サーマのその提案にチマもフレンも賛同するしかなかった。口外するなとは言われたが、やはり警備部の動きが気になった。

 自分たちも〝容疑者〟となってしまったのかもしれない──少なくとも、チマはそう考えていた。

 三人は食堂にいた。時間的に人影はまばらな時間だ。三人だけでいるよりも、ある程度人の中に紛れた方がいいと判断したのはチマだった。警備部の監視の可能性を意識しての考えだ。

「でも、彼女を巻き込む可能性は?」

 フレンがサーマに返すが、すぐにサーマは応えた。

「そうね……そうだけど……カーナなら信用できる」

 その声は焦りにも似たものを含んでいた。

 三人より少し年上になるカーナは、正確には三人のような地球を知らない世代ではない。地球で産まれている。しかし物心が付いた時にすでにステーションにいたことを考えると、地球を知っている世代でもない。避難してきた時の記憶も殆ど持っていなかった。

 人付き合いの上手なカーナは、同時に適応能力の高さもあってか、医療課の中でもそれなりの立場にいるのは事実だ。三人がカーナに相談したいと考えても不思議はなかった。

「相変わらず三人で悪巧み?」

 突然声をかけてきた白衣姿の相手に三人は同時に上を見上げる。

「私がフレンと共同で開発した新しい鶏肉はどうかしら?」

 トモ・ホワイト──二八歳──。

 衛生管理部の代農食品技術課で食料の研究開発に従事している。医療課と同じく工学課との繋がりは深い。

 年齢的に三人とは違い、地球での子供の頃の記憶を明確に持っていた。もちろんまだ幼い頃のものとはいってもチマたちにとっては、それはやはり〝興味〟そのものでしかない。チマはその話を聞く時の興奮は他には無いものだと思っている。ステーションの世界しか知らない世代にとっては唯一の〝外の世界〟でもあった。

「ああ、この鶏肉ってそうだったんだ。通りでいつもより柔らかいと思った」

 サーマはあくまで明るく続ける。

「最近どんどん美味しくなって凄いよね」

「でしょ? ──で? 今回は三人でどんな悪いことしたの?」

 三人が同時に顔を見合わせる。

 トモは腰を曲げ、両肘をついて三人と目線を合わせた。自慢の長い黒髪がゆっくりとテーブルの上に降り注ぐ。

 そして口元に笑みを浮かべながら続けた。

「さっき警備部の部屋から肩落として出てきてたけど……最近物騒な噂も聞こえてきてるし、そのせいか警備部もピリピリしてるみたいだし……何かあったなら……お姉さんに話してみる気ない?」

 そして、その目が少しだけ変わった。

「うちの職員も犠牲になってるしね」





 衛生管理部、代農食品技術課──。

 主任室──。

「トモって、いつから主任になったの?」

 部屋に入り、真ん中のテーブルで全員分の紅茶が揃ったところで口を開いたのはサーマだった。

 シートに腰を下ろしながらトモが応える。

「昨日」

「昨日⁉︎」

「因みに、みんなの目の前にある紅茶も新作。後で感想聞かせてね」

 主任室は個室ではあったが、あくまで研究用ラボの一角にあり、壁面の一つは大きなガラス張りとなっている。そこから見えるラボでは数人の職員が動いていた。

 主任室の室内は丸見え状態となるが、現在の光景は珍しいものではなかったので本来なら怪しまれるものでもなかった。二ヶ月程前から、この主任室を使用していたのはトモだったからだ。しばらく前主任が病気で入院していたために、トモはあくまで主任補佐の立場だった。

 仲のいい四人が集まっている光景──決して警備部に睨まれる行動ではない。

 しかし、今回の雰囲気は決して明るいものではなかった。

 プラスチック製のティーカップに着いた赤い口紅を少し気にしながら、トモはゆっくりとそのカップをテーブルに置いた。目の前に並ぶ三人の表情は一様に重い。目の前のカップに視線を落としたままだ。

 一通りの説明を聞いた後に少し静寂が続いたが、やがてトモが口を開く。

「一応……聞いてた噂話は間違ってはいなかったんだ。さすがに二人目が誰なのかまでは分からないけど。それに事故じゃないことも間違いなさそう……事故だったら執拗に警備部が動く理由が分からない。執拗というより──」

 トモがガラスの向こうのラボ内に目をやって続ける。

「なんだか、変なのよね。さっきから見たことない人いるし」

 三人が落としていた視線を上げて顔を見合わせた。

「あっち見ちゃダメよ──たぶん警備部──」

 その言葉を受けた三人は瞬時に頭を下げる。

「このラボ内って背の高い棚が多いから、制服着てれば──って舐められたものよね。私が気が付かないとでも思ったのかしら」

 三人の中に、さらに恐怖と不安が押し寄せる。空調の効いた室内にも関わらず、全員が言いようのない寒さを背中に感じている中、トモが続ける。

「あなた達が疑われてるっていうより、あなた達が何をどこまで知っているのか──ってところなんじゃないの? で? 知りたいのは〝イノセント〟だけ?」

「知ってるの──⁉︎」

 思わず言葉を発したフレンに続いてチマとサーマも再び顔を上げる。

「……あなた達は……どこまで?」

 微かに口元に笑みを浮かべるトモのその表情に、三人は一度言葉を飲み込む。

 口を開いたのはフレンだった。

「……生物工学の、資料に……」





 三六九四年──。

 脳細胞の培養が完成しようとしていた──。

 三六八四年から続けられてきた研究が完成を迎えようとしていた。

 アイカル・ミソル──五八才──。

 生物工学の世界で、培養した細胞から臓器を作り出すことに成功した最初の科学者だった。

 これにより、自らの細胞を使った新しい臓器での臓器移植が可能になる。

 それはやがて、臓器だけに止まらず体のあらゆる部分を可能とした。

 結果的に人間の体を丸々再生することに成功する。

 しかし、

 最大の問題は脳細胞だった──。

 当然ながら、倫理問題に発展することが目に見えていたため、脳細胞の培養研究は極秘裏に進められた。

 それから更に八年──。

 三七〇二年──。

 脳細胞の完璧な培養に成功する。

 アイカル・ミソルも六六才になっていた。

 研究の成功が世界に発表され、実用化への道筋が示された。

 もちろん世界を巻き込んだ倫理問題が巻き起こる。

 通常の数十倍のスピードでの細胞分裂を成功させていたことから、卵子を利用せずに完璧なクローンを作成することが出来た。

 そして遺伝子を操作することで、それはもはやクローンではなくなる──専用の培養液の中で高速成長させ、そこを出されてからは通常の成長へとシフトする。それは結果として商業ベースに乗せることが出来ることを示していた。

「──たまには、よろしいかと思いますよ」

 この年から正式に研究室で働いていたアイカルの助手──キャズリオール・イオン、三〇才──が、政府庁舎へと向かう車の後部座席で、隣で不機嫌なアイカルを宥めていた。

「毎日が研究室なんですから、たまには外の空気も吸わないと」

 暗い車内に外の乱雑な照明が忙しく入り込む。

 アイカルは軽く溜息をついて応えた。

「私は政治家ではないよ」

「これからは残念ですがそうとばかりもいきませんよ。歴史に名を残す偉業を成し得たのですから」

「だからこういう政治向きなイベントにも出向く」

「そうでなくては困ります。パーティス博士の協力があったからとはいえ、あのプロジェクトを完成させたのは博士です。あなたを尊敬する研究者は私だけではありませんよ」

「君には感謝しているよ。今年から正式に助手になったとはいえ、一〇年前に君がプロジェクトに関わってくれなければ成功はなかった」

「わたしは母の研究資料を提出したに過ぎません」

「いや、ステーションの──あの時のデータだけでは研究がどれだけ遅れたことか……君のお母さんにも感謝しているよ」

「結果として今があるから言えることではありますが、母がステーションから送ってきたデータも完璧なものではありませんでした。なぜあんな中途半端なデータを──」

「結局……あの時ステーションで何があったのかは未だに分からないのだろう?」

「……ええ、あのデータとの関連があるのかどうかも……しかし、博士はそれを完成させました」

 やがて車は、政府庁舎の門を通過する。フロントガラスの向こう側で、庁舎の建物が大きくなっていく。

 キャズリオールが続ける。

「それは、人類からの尊敬に値します」

「そういう賛辞は、聞き飽きたよ」

 車が庁舎前に止まる。

 車からまだ片足しか降ろしていない状態で、アイカルは視線の先にいる男の姿を見極めた。政府庁舎での説明会だというのに、いつもと変わらないくたびれたスーツに煙草の煙。男の隣にスタンドタイプの灰皿があるのがまだ救いだった。

 ラスカ・パーティス──六五才──。

 お互い三〇代の若い頃から同じ研究所で腕を競い合ってきた。しかし大きな研究ではお互いに協力を惜しまない。

 そんな仲だった。

 ラスカには妻と娘がいた。

 アイカルも結婚はしていたが、子供には恵まれなかった。

 アイカルが〝無精子症〟であることが分かったのは、結婚から五年程経った頃のことだ。

 すでにその頃にはラスカに娘がいた。

 自然と子供の話はしなくなる。

 そんな仲だった。

 アイカルは今回のプロジェクトに心血を注いでいた。ラスカにもそれは分かっていた。恐らく自らの〝無精子症〟というレッテルが影響していない訳はない──少なくともラスカにはそう見えた。

 なぜなら、遺伝子操作をした細胞の培養で〝人間を作り出す〟ことが出来たからだ。

 クローン研究だけでも倫理問題は湧き上がる。

 新たに〝人間を生み出す〟となると、それはもはや〝神の領域〟を犯すことだと言われ、当然研究者だけでなく研究所の存続すらも危うくさせた。

 それはすでに国際問題という言葉で片付けられるものではなくなっていた。発表と同時に国際連合が動き、世界全体がピリピリとする中、加盟していない国からの意見も無視できるものではなくなっていった。

 やがて──世論が動き出す。

 その引き金となる研究論文は〝世界的な人口減少〟に警笛を鳴らすものだった。論文の発表以前から問題提起はされてきた。しかし、その傾向データは世論を動かすのには充分過ぎるものだった。

 それでもなお倫理問題が簡単に収まるわけでもなく、今夜は何度目かの政府高官に対する説明会──庁舎入り口からの長い廊下を三人で歩きながら、その前後には警護の警察官すらいる中、一番後ろのラスカが先頭のアイカルに声を張る。

「今夜は前回のような宗教絡みの話だけはやめてくれよ」

 アイカルは無愛想に応える。

「なぜだ。何がいけない」

「科学は宗教ではない。個人的な感情だけで今回の問題をまとめようとするな」

「あの論文を発表した学者──なんといったかな……名前は忘れたが……こんなことを言っていたよ──〝生物の進化の最終形態は絶滅だ〟とね」

「するとお前は、人類は進化の最終形態だというのか?」

「さあ、どうかな……増え過ぎたというのなら、それは自然淘汰のようなものなのかもしれん」

 部屋の入り口は、不必要なくらいに大きな両開きの扉。

 その前で三人は立ち止まる。

 扉の前で待っていた関係者が扉を開けた。

 キャズリオールがアイカルを促す。

 アイカルは浮きかけた右足を止め、ラスカのほうを向いて続けた。

「だから私は、新しい〝人類〟を作り出した」

 二人が部屋に入るのを見届けるように、ラスカは立ち尽くす。

「お前は本気で──」

 ──〝神〟になりたいのか──?

 ──〝父親〟くらいにしておければ……





「イノセント⁉︎」

 白衣姿のカーナが机の上のモニターから振り返り、四人の視線を一点に浴びていることに少し戸惑う。

 肩にかかる、僅かに赤みのある髪が揺れた。しかしチマよりは明るい色だ。いつもその髪を見るたび、チマは羨ましく思っていた

 カーナが続ける。

「それを知りたくてここに来たの?」

 医療課の診察室の一つ──カーナのオフィスのようなものだ。小さな簡易的な診察用ベッドと椅子が一つある程度で、決して広い部屋ではない。

 チマ、フレン、サーマの三人はベッドに軽く腰掛けている。唯一ある椅子に腰掛けたトモが応えた。

「私も全く分からなかったし、医療課のあなただったら何か知ってるかと考えたんだけど」

「そもそも医療課と関係があるものなの?」

「どうだろう──ただフレンが見た情報では生物工学と関係があるらしいし」

「工学課の情報だったらフレンのほうが──」

 カーナは矢継ぎ早に言葉を返していた。なぜか少し苛立っているようにも見える。

 それを察したサーマが言葉を挟む。

「ごめんねカーナ。わたしの話は聞いてたでしょ……色々噂になってるみたいだし……最初にわたしが持ち出した話なの。どうしても気になって──」

「いいよサーマ。ごめん……分かってる」

 そう応えるカーナのサバサバとしたところがサーマは嫌いではなかった。誰とでも分け隔てなく接する。そして、そのカーナの性格にサーマは何度も助けられてきた。

 サーマはどちらかと言えば、人付き合いの上手いタイプではない。潔癖な部分が影響してか、幼い頃から誰に対しても一線を引いているところがある。しかし、その線を始めて踏み越えてきたのがカーナだった。最初は少し強引に思えた。しかし今では、一番の理解者はカーナであると信じている。

 それは、カーナも同じ気持ちだった。

 そしてそんなカーナを育てたのがトモだった。

 そのトモがカーナの言葉に応える。

「残念ながら、まだフレンはその立場にないらしいの。あなたなら医療課の主任補佐だし工学課に出入りすることも多いでしょ?」

「まあ……」

「限られた人間しか入れない部屋って、分かる?」

 直後、カーナは言葉を詰まらせたようにしてトモの視線を外した。

 それを見逃さなかったトモが続ける。

「──入ったこと……あるの?」

 カーナは何も応えようとしない。

 ベッドの三人に緊張が走る。

 少し落としたままの視線を拾うようにして、トモは更に続ける。

「カーナ……あなたは……何かを知ってるの?」

「……何も知らない……って言ったら──」

「私とあなたの二〇年の関係にヒビが入るだけ」

「ズルいよ!」

 突然のカーナの叫び声に、ベッドで話を聞いていた三人は、ただ驚いた。いつも明るく人と接するカーナの姿からは想像も出来ないものだったからだ。

 トモとカーナの仲の良さは、二人を知っている者なら誰でも当たり前のように知っていた事実だ。まだステーションが統率の取れていなかった立ち上げの頃から、二人は姉妹のようにして生きてきた。

 お互いに地球への避難直前に親を亡くしていたことも影響していたのだろう。カーナに至っては、両親の顔すらも殆ど覚えていない。

 僅かな食料を分け合い、時には姉のように、時には母のように接してきたのがトモだった。

 まだ幼かったトモ自身も、決して自分が強いつもりはなかっただろう。カーナと違い、はっきりと両親の死ぬ瞬間を覚えている。

 それでも、まるで唯一の家族のようにカーナに接してきた。

 カーナにとっても、トモは間違いなく誰よりも大切な存在だった。

 しばらくの間、室内に不穏な空気が漂う中、複雑な感情が何度も入り乱れる。

「……アレは……」

 最初に口を開いたのはカーナだった。

 軽く唇を噛み締めたカーナが続ける。

「……違うの……アレは…………人間じゃない…………」

 トモは黙っていた。口を開く様子すらない。

「……あそこで作っている物は…………人間じゃない…………あんな物は……作ってはいけない……」

 フレンが小さく呟く。

「…………やっぱり……」

 すると、トモが口を開いた。

「──クローンじゃないのね」

「──違う……アレは……人間…………違う!」

 カーナが再び叫ぶ。

「人間なんかじゃない!」

「じゃあ……」

 トモは冷静なまま──。

「……何?」

 カーナは視線を落としたまま応えない。

 工学課の秘密の部屋に入ったのは、ほんの一ヶ月程前のことだった。

 治療用の細胞シートの技術的向上のため、その頃のカーナは工学課に出入りすることが多くなっていた。細胞シートは、患者自らの細胞を培養することで、皮膚だけでなく臓器等の修復を促すための医療行為に使われてきた。もちろん初めは地球から持ち込まれた技術だったが、ステーション内での長年の研究でその技術はもはや革新的なものへと昇華されていた。

 その細胞シートを利用したさらなる革新的技術が完成したと告げられたのは、ちょうどカーナの出入りが激しくなった頃でもある。

 カーナでもまだ入ったことのない部屋があった。

 第3研究室──。

 新しい研究室が増える度に、当然その数字は大きくなっていく。よって、その研究室は決して新しいものではない。現在は第9研究室まで増えていることを考えると、むしろかなり初期から存在していたラボだ。

 少なくともカーナが医療課に配属される以前からのラボ──しかもどの研究室の扉にも、そのラボが何の研究用のラボなのか表記があるにも関わらず、その扉にだけは何も書かれていない。

 カーナも疑問に思ったことがないわけではない。しかしあくまでカーナは医療課の職員だ。必要なラボにしか出入りすることもない。

 しかしその日は違った。

 細胞シートを使用した臓器の製造に成功したという報告はもらっていた。ステーション内では初のことであり、臓器移植に成功すれば、間違いなくステーション内での平均寿命を上げることができる。

 第3研究室の扉を開けながら、工学課の職員の男が言った。

「ここは限られた職員しか入ることが出来ません。もっというと、あなたの医療課の主任すら入ったことはない」

 ────?

 職員が続ける。

「近々、医療課の主任交代の話が聞こえてきましてね。しかもその第一候補はあなただ。その若さで大したものです」

「いえ、まだ内々のことで……」

「それと、まあこれも内々のことなんですが、近い内に、工学課と医療課を統合しようという話も上がってきているんですよ」

「統合……ですか?」

 カーナは促されるままに研究室へと入る。

 すぐに二つ目の扉が目に入る。

「そこで、今の内にあなたに〝これ〟を見せておくようにと、うちの主任が申しまして」

 職員は最初の扉を閉め、二つ目の扉を開けて続けた。

「これの──ためです」

 思ったよりも広い室内だった。

 ここよりも新しいラボは見ているが、これほど広い部屋はカーナは見たことがない。

 室内は薄暗い──その室内で最初に目に飛び込んでくるのは、無数のガラスの筒──二メートル以上の高さはあるだろう。見上げる高さだ。幅はそれほどでもない。一メートルもないように見えた。

 そして、その中には、透明な液体の中に浮かぶ、小さな物体がある。

 医療課のカーナには、それが何なのか、すぐに分かった。

 しかし分からないことがある。

 なぜ──。

 目の前に──。

 〝胎児〟が並んでいるのか──。

「念のため──」

 職員が口を開いた。

「クローンではありません。あれは結局のところ人工受精に近いものがあります。母体が必要になる──しかも成功率は低い」

 ────まって…………

「今、目の前にあるのは遺伝子を注入された受精卵ではありません。当然そこから細胞分裂を繰り返した胎児でもない」

 ────まって…………

「我々が一から作り上げた──〝人間〟です」

 それは〝イノセント〟と呼ばれていた。

 地球ですでに実用化されていた技術を、ステーション内に持ち越せたデータや資料から再現した物。

 最初にベースの細胞は必要になるが、それがもはや誰の物だったかは資料も残されていない。

 遺伝子を操作された細胞は、もはや最初の細胞とは明らかに違う物だ。

 ────何の──ために…………

 ベッドの上でカーナの話を聞いていたチマたち三人は、身動き一つ出来なかった。

 ────何の──ために…………

 トモだけは一人、冷静に聞いていた──。

 そしてカーナが続ける。

「……培養液の中で、急速に成長させることに成功した……ある程度の知識を脳に移植してから、一〇歳くらいで取り出して教育課程に回せば、後は普通の人間と同じ成長速度……」

「知識を移植? 工学課はそんなことまで成功させていたの?」

 唯一、言葉を返せるのはトモだけ。

「それが成功して本格稼働の承認が降りたって……」

「でも、そんな不自然な形で突然増えたって──」

「イノセントを正式に発表してからなら問題ない……」

「正式に──? するつもりなのね……」

「問題は……すでに一〇年以上前から実用化されていたこと……」

「実用化? どうやって──」

「胎児の段階で──当時はそこまでしか作れなかったし知識の移植もできなかったから……不妊治療と称して母親のお腹に移植する……自分がイノセントと知らずに生きてる〝奴等〟がいる……そうすれば自然に増やせる……」

 トモが軽く溜息をついて応えた。

「──まだステーションが稼働して一〇年くらいの頃、確かに出生率の低下は問題になった。今でもそう。覚えてる……あの頃に不妊治療を受けた女性は多いはず……」

「イノセントの最大の問題は、生殖機能を持たないこと……だから、これからは〝人間〟はラボで生み出されることになる」

「人類の存続の意味って──」

「……そう……本末転倒……これは間違ってる……」

 カーナは両手を握りしめていた。

 肩を少し震わせながら続ける。

「出生率が下がった理由は、結局分からなかったはず……でも、それで人口が減るのを恐れて……そんな理由で……」

「問題は──すでに紛れてるイノセントがいるってこと?」

 しかし、カーナは応えない。





 行政区──。

 第一会議室──。

 大統領、大統領夫人の他、行政からは一〇名。

 警備部からは各部隊からの隊長が五名。

 未だ殺人事件は続いていた。

 会議室の重々しい空気の中、行政官の一人が口を開く。

「ここまで、事件の被害者は五名。いずれもイノセント──という報告を受けているが、警備部としてはこれに関して付け加えることは何か……」

「いや──」

 警備部の一人が即答して続ける。

「何も変更報告はありません。間違いなく全員がイノセントでした」

「……全員……か」

 行政官の一人の、呟くようなその声が宙に浮いた。

 この部屋に収集された行政官、警備部、共に全員がステーションへ避難してきた世代だ。全員がイノセントを知っている。

 ステーション内でイノセントの存在がタブーとなっている現状で、未だ事件の詳細を公に出来ないまま、殺人事件のみが増えていた。

「ただの偶然という可能性はないのかね?」

 行政官が警備部に詰め寄る。

「それはまだ捜査段階ですが……反イノセント組織の可能性は無視出来ません」

 警備部のこの言葉に応える形で、口を開いたのは大統領のマルカスだ。

「確かに地球でもそういった輩はいた……そもそも戦争自体がそうだったのだ。それはやむを得ないだろう。しかしあれから二〇年だ。しかも我々避難世代はイノセントの存在をタブーにしてきた。もし反対組織がいるとするなら、それは我々と同じ世代の可能性が高いことになりはしないか?」

「ここで産まれた世代で──」

 警備部の一人が続ける。

「イノセントを知っている者は?」

 行政官の一人が応える。

「新しい人事の関連で一人……しかし彼女は正確にはここの産まれではない」

「では……」

「まだ幼かった……確か三才だったかな……だから記憶は殆どない」

「あの子か……」

 呟くようにマルカスが続ける。

「主任への推薦はトモ・ホワイトだったな。彼女の資料は?」

「今、モニターに出します」

 行政官の一人がパネルを操作した。

 モニターを見ながらマルカスが続ける。

「あの子はトモ・ホワイトのことは──」

「もちろん知っています。避難してきた時から」

「知っているのか? そうか……なら大丈夫だろう……」

 少し間を開け、マルカスが続ける。

「捜査は引き続き警備部に任せる。一応、反イノセントの方向で頼む……その上で警護対象者を絞ってくれ。今日中に報告書を上げるように」

「分かりました……ただ、大統領、一つだけ気になることがありまして……」

「いいだろう。聞かせてくれ」

「最初の殺人は、エアシューターからの排出を計画していたようですが……なぜなんでしょう。その後の事件では、死体を隠そうという意思は感じられません」

「最初だけ隠そうとしたと?」

「はい。管理課からの再チェックの依頼が無ければ、被害者は行方不明になっていたはずです」

「気になる意見だな……すると現在確実な部分は、被害者が全員イノセントである、という部分だけか……」

 行政官は黙って頷いた。

 マルカスが続ける。

「最初の事件、もう少し追いかけてくれ……」 

 少し間を開けると、更に続ける。

「結局、君たちの言う組織が実際に存在するとしたら、我々の少子化対策にも影響が出かねない。計画の発表までは後一ヶ月……それまでに今回の問題は潰さなければならない。発表の準備も進んでいる」

「本当に……」

 そう言葉を繋いだのは別の行政官の一人だった。

「……大丈夫なんでしょうか……確かに出生率は一〇年以上下がり続けています。このまま行けば、例え我々の平均寿命が伸びても結果は見えてる。しかし……これでは昔と同じです」

 他の行政官が口を挟む。

「しかし、あれ──コールドスリープの研究も進んでいることだし──」

 そこにマルカスが加わる。

「コールドスリープももうすぐ完成だ。カプセルからの信号は未だに途絶えてはいない。人類の存続計画は多い方がいい」

 マルカスは少し間を開けた。

「人類が滅亡するかどうかは……我々にかかっている……」





 この日も、トモは工学課にいた。

 数ヶ月掛けてフレンと共同開発してきた食材が完成を目前とする中、二人は第4研究室である食品工学室にいた。他の職員はいない。

 二人だけ。

 こういうシチュエーションはいつものことだ。

 しかしフレンにとっては、このトモとの二人きりの時間が好きだった。

 まるでトモを独占している気がして不思議と安心感を得られる至福の時間でもある。独占欲とは違うとフレンは思っていた。

 カーナのほうが、当然トモとの繋がりが深いことも知っている。

 しかしフレンにとってもトモが〝姉〟のような存在であることは事実だった。同時に大人の女性でもある。憧れの対象としても見ていた。

 しかしフレンはたまに感じていた。

 本当に、憧れだけだろうか……。

 カーナに負けないくらいに、もっと近い存在になりたかった。

 そこには、何か越えられない壁がある。それが何なのか、未だフレンには分からないまま。

「この間のカーナの話──」

 実験の手を止めずに、トモがそう言って話を振った。

「フレンはどう思うの?」

 二人きりの時にカーナの話をされるのがフレンはあまり好きになれなかった。

 トモももちろんそれには気がついていた。それを分かった上で、ワザと話題に持ち出すこともある。そんな時、いつもトモは子供っぽい笑顔になる。

 しかしこの時は違った。

 フレンにもそれは分かっている。わざわざトモの表情を確認することもなく、ガラス張りの実験ボックスの中のアームを操作しながら応えた。

「確かに……納得はできた……のかな……」

 その横顔を見ながら、トモが返す。

「筋は通ってるのよね。事実、あの時も話したみたいに地球にも多くのイノセントがいたし、ここでもひっそりと作られていた……隣のラボで──」

「──なんか……気持ち悪い……」

 明らかにフレンはイノセントに対して嫌悪感を抱いていた。

 自然と早口になりながら続ける。

「どうして必要なのかな」

「出生率の低下でしょうね……地球もそうだったから……わたしはまだ子供だったし、詳しいことは覚えてないけど、なぜなのかしらね……このままなら、確かにいずれ──」

「でも……違うよ。人間じゃないんでしょ? ロボットみたいな物じゃない」

「ロボットじゃなくて、人工的に作られた生命体──」

「もっと気持ち悪いよ。お父さんもお母さんも、家族もいないのに──」

 フレンが言葉を詰まらせた。

 トモには両親がいない──知っていたことなのに、つい言ってしまった自分を嫌悪した。

 慌てて手を止めてトモの顔を見るが、視線が外されていることでフレンの中の不安が更に大きくなる。

「ごめん……」

「どうしたの?」

 少しだけ慌てたように、トモはフレンの目を見て即答した。

「ごめん……ごめんトモ……」

 ……嫌いにならないで……

「つまらないこと気にしないで。もうわたしは子供じゃないんだから」

 ……嫌いにならないで……

 フレンは知っていた。ただ両親がいないだけではない。

 トモは目の前で両親の死を見ている。

 ……嫌いにならないで……

「ごめん」

 抱きついてきたフレンの声が微かに震えているのをトモは感じていた。

 フレンの白い髪に指を絡ませながら、いつもの優しい口調のまま返す。

「フレンは……イノセントのことが好きになれないのね……大丈夫……大丈夫だよ」

 ……嫌いにならないで……

 フレンは何も応えない。

 ふと、トモは突然、視界の何かに気がついた。

 実験ボックスのコンソールパネル──そこが視界に入った時だ。

「フレン……」

 声のトーンを落とし、小声で続ける。

「ここのネットワークって〝課内だけ〟よね」

 フレンがゆっくりと顔を上げる。トモの声の変化には当然気がついていた。

 自然とフレンも声が小さくなる。

「……うん……基本的には他と同じだよ。課内だけ……もちろん外部に繋ぐことは出来るけど」

 それはネットワークの混雑を防ぐための基本設計だった。もちろん緊急時のために外部に接続することはいつでも可能だ。

「もしくは、緊急通知とかがあれば、外部から……とか……」

 直後、扉が大きく叩かれる。

 ノックなどという音ではない。

 それは明らかに威圧感を感じる大きさだった。

 フレンの筋肉が強張るのをトモも感じた。

 そのトモが小さく囁く。

「……外から侵入されてる……聞かれてたみたい……」

 …………!

 フレンの中に突然湧き上がるもの──それはもはや恐怖だけでは表現しきれないものになっていた。

 ──何が、起きてるの⁉︎

 トモが首に巻きつくフレンの腕をゆっくりと離しながら、天井を見上げる。すぐ真上を指差し、フレンまで視線を落とすと、軽い笑みを浮かべた。

 フレンがトモの指差す天井を見ると、天井裏のスペースに上がる扉が見える。もちろんそこを開けたことなどない。チマのような管理課の人間でなければ必要のない空間だったからだ。

 どのモジュールも基本的に天井が低い。必要が無い限り高くても二メートルより少しあるくらいだ。もちろん物理的な損傷に依る事故を防ぐためと、そうなった場合の修理を含め、モジュールの周りには狭い空間が存在する。

 トモはテーブルに立ち上がり、腕を伸ばした。元々身長の高いトモは簡単に天井の扉を開ける。そのままフレンを見下ろして促す。

 相変わらず扉を叩く音が響く中、フレンがテーブルに登ると、トモはフレンを抱き抱えるように天井へ押し上げた。

 フレンは恐怖心に包まれているはずなのに、なぜか胸が高鳴るのを感じる。おかしな感覚だった。

 トモは天井裏に上がると、扉を閉める。そこは思った以上に暗い。当然周りの状況など分からない。

 しかし突然フレンの目の前に灯りが差した。

 それがトモが取り出したペンライトのものであることを理解した途端、フレンは少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。

「いつもそんなもの持ってるの?」

 すると、トモは時折見せる子供のような笑みで応える。

「研究者だったらこのくらいは持ち歩かないと」

 フレンの口元にもやっと笑みが浮かんだ。

 モジュールを包み込む外殻スペースの高さは一メートルも無い。本来は人が滅多に入り込むための物ではないからだろう。決して居住空間ではない。しかし、当然その空間は複雑に区切られ、独立した空間の連なりでもある。

 いくつかの小さな扉をくぐり、二人はかなり腰を落としたまま暗い空間を進み続けた。どこに向かっているのかフレンには検討もつかない。しかしトモが牽引してくれる安心感は何者にも変えられないものがあった。

 さっきからずっと恐怖と不安と闘っているはずなのに、なぜかトモへの気持ちのほうが大きくなっているのを感じる。

 途中、無重力エリアを通過した二人は、そのまま再び重力エリアへ──。

 空間内には定期的にコンソールパネルが設置されていた。おそらく管理課が使用するものなのだろうとフレンは考えながら横目に見ていたが、ある場所で、トモがそのパネルの操作を始める。

「トモ……?」

 するとトモがパネルに向かって口を開いた。

「──大統領! どこにいるの⁉︎ マルカス!」

 ──大統領⁉︎

「すぐに居場所を教えなさい!」

 するとパネルから掠れたような声が聞こえる。

『どうした⁉︎ 今は第一会議室だが──』

 ──ウソじゃない……チマのお父さんの声──

「──大当たり──」

 トモはそう呟くと足元のレバーを捻った。

 足で大きく踏みつける──けたたましい音を立てて落ちると同時に、そこから真っ暗な空間に灯りが差し込む。

 直後、トモは素早く下の部屋へ──。

 天井からの突然の侵入者に驚いたのは、むしろ室内にいた人間のほうだろう。

「どうした⁉︎ 会議中だぞ⁉︎」

 そう叫んでいたのはマルカスだった。

「何があった⁉︎」

 五名程の行政官が唖然とした表情で、ゆっくりと立ち上がるトモを眺めている。

 トモが声を荒げる。

「警備部の外部侵入を指示したのは誰⁉︎ 記録を見れば隠せなくなるのは知ってるはず──ここの法律でも禁止されているわよね……緊急事以外は禁止だって……」

 その表情と声質には、明らかにトモの怒りが表現されていた。

 それを天井裏で聞いていたフレンは動けなくなっていた。むしろ動くことを忘れてしまったかのように、ただ、そのフレンの勇ましさに心を奪われる。

「落ち着いてくれトモ……」

 マルカスの声が続く。

「何があったんだ……私はそんな指示など──」

「へー……じゃあ、なんで、今も警備部がこの部屋の外にいるのかしら?」

「いや……待ってくれ……」

「やっぱり……私達の動きをトレースしてたんでしょ? ──今後一切──私達には近づかない約束をしなさい‼︎」

 圧倒されるマルカスに対して、更にトモが続ける。

「マルカス‼︎」

 その直後、会議室に踏み込んできた警備部の姿に事態は急転する。

 フレンの体が自然に動いていた──天井から身を乗り出し、真下に見えるトモに腕を伸ばす。

 反射的にその腕を掴むトモ──軽く持ち上げただけで、軽々とトモは両手を扉の縁につける。

「フレン!」

 トモのその声に、フレンはただ走った。

 やがて、後ろからトモの足音が聞こえ、その更に後ろからは警備部の分厚い靴底の音が響く。

 何も考えている余裕など無いはずなのに、なぜか背後のトモの荒い息遣いだけがハッキリと聞こえる。

 背後の警備部が照らすライトがうるさいくらいに交差する中、あちこち体をぶつけながらも、恐怖以外の何かがフレンの感情を支配していた。

 縦に、横に、斜めに──

 いくつ目かの上へと登る小さな扉を潜った直後、そこに人がいることに気がつく──。

「──⁉︎ サーマ⁉︎」

「待ってたよ──二人とも」

「どうして──」

「説明は後で──」

 トモが扉を通過した直後、

「横に!」

 その扉を閉じながらサーマが叫ぶ。

「衛生課なめないでよね!」

 直後、その扉を塞いだのは大量のダストボックスだった。

 次々と積み重なるボックスが重厚な音を立てていく。

 やがて、静かになるのを見計らって、溜息と共にサーマが口を開いた。

「ここ、ボックスの収納スペースも兼ねてるからね」

 トモがサーマに近づく。

「ありがとうサーマ……でも、どうしてあなたがここに?」

「わたしの所にも警備部が来たの……理由は分からないけど逃げた……あいつら捲いてから情報収集してたら二人をトレースしてたから逆にわたしも見つけられた」

 緊張の糸が切れるように、トモが肩を落として大きく溜息をついた。

 サーマが続ける。

「あれから警備部の監視がうるさかったから警戒してて正解だったかも……最後はトモに頼ったかもしれないけどね……でも、これから──」

「まずはマルカスを巻き込むしかないわね。まさかチマは大丈夫だと思うけど……何が起きてるかも知りたいし……」

 トモが近くのコンソールパネルに向かって叫んだ。

「マルカス!」

 何も返答はない。

「警備部を遠ざけなさい! これ以上問題の収集を遅らせたいの⁉︎」

 しばらくして、やがてマルカスの声が聞こえた。

『……分かった……第一会議室に来てくれ……他の行政官と警備部は下がらせる……』

「すぐにね。わたしだけで行く。フレンとサーマには手を出したらダメよ。いいわね」

『約束する』

 トモは再び大きく息を吐くと、フレンとサーマに顔を向けた。

「行ってくるわね。わたしがついていくから二人は念のためにチマの所に──」

 フレンが遮る。

「どうして? どういうことなの?」

「わたしにも分からない事が色々と動いてるみたい……」

 すると、サーマが呟くように言った。

「トモ……あなたって……」

「わたしも……避難世代だからね……あの頃は子供だったけど──大丈夫。わたしがなんとかする」

 すぐにチマに連絡を取り、休日であることを確認すると、三人でチマの部屋へと向かった。

 やがて、トモの仲裁でこの一件は収められた。

 しかし事の理由も実態も、何も分からない。

 しかしフレンにはもう一つの疑念が残っていた。

 トモは何者なのか──。

 ……大統領に対して意見を言える立場?

 ……しかも名前で呼んでいた……トモは何者?





 一六才になったばかりのトモは、この年から技術部の工学課に所属していた。

 教育課程に於いて、主に生物工学の分野での才能を認められての工学課からの誘いだった。

 それに関してはトモ自身もなんの抵抗もない。自らも興味を持って学んできた分野だ。〝あの時〟から、決して無視のできない世界。誘いがなくても自ら選んでいただろう。

 教育課程に入ってすぐ──まだ一〇才の頃、トモは新しく作られたばかりの工学課のモジュールに迷い込んでいた。行方の分からなくなったカーナを探してのことだ。

 トモと違ってカーナは好奇心の塊のようなところがあった。ステーションに避難してからまだ二年あまり、まだ五才のカーナの保護者役は一〇才のトモにとっては荷が重すぎたのだろうか。

 一年程前にやっと行政機関が確立され、それに伴ってモジュールが次々と増改築されていく日常の中、無知なままでの行動は命に関わることもある。至る所が工事中であり、事実多岐に渡る事故も多かった。

 決してカーナを我儘に育てたつもりは無かったが、まだ両親と別れて二年のカーナを自分の所にだけ留めておくのも限界があった。ましてトモが教育課程に通うようになると、その限界は更に顕著になる。

 その日のトモは、カーナを探しながらも自らが迷子になってしまっていた。毎日のように変化していく迷路のようなモジュールの連なりの中では、もちろん地図など存在するはずもない。

 明らかに新しい部屋だった。

 ちょうど行き止まりになった所で、その横に見たことのない扉がある。他と同じく、新しい扉とはいっても綺麗なわけではない。増改築を繰り返していく中では資源にも限りはあった。使い回しが当たり前の現実。

 工学課──。

 扉にはそれだけ書かれている。しかも手書きで殴り書きのように。仮のものだろう。いずれは正式なプレートが設置されるに違いない。

 そして、その扉は少しだけ開いていた。

 中は暗いようだ。

 灯りも漏れてはいない。

 カーナが潜り込んでいるかもしれなかった。

 しかしそれより、もしかしたらトモの好奇心の方が優っていたのかもしれない。

 扉の隙間に手を差し入れ、大きく開いた。

 やはり中は暗い。

 所々、小さなパネルの淡い灯りが目に入るだけ。

 その中を軽く見渡すが、さほど広いわけではなさそうだった。

 きっとまだ使用されていないラボなのだろう──トモはそう思ったが、入ってすぐのテーブルのような所に雑然と積まれた紙の束を見つけて驚いた。

 ステーション内では紙は貴重な物だ。元々ステーションに製紙工場があるわけでもない。それこそ工学課での技術研究も行われていると聞いたが、今トモの目の前にある物は明らかに新しい物ではない。皺のような折り目も多く、所々破れている所も見える。間違いなく地球から持ち込まれた古い物だろうことはトモにも想像がつく。しかもこの頃は避難からまだ二年あまり。その時の記憶が誰にとっても未だ癒えないそんな頃でもあり、身の回りには地球からの物が溢れていた。

 トモは、手に取った紙に書かれている言葉に心を奪われていた。

 難しい専門用語はもちろん分からない。

 しかしそこには、地球で嫌というほど聞いた言葉が乱立している。

 〝イノセント〟──。

 どういうことなのか、トモには想像もつかないまま、地球での記憶だけが押し寄せてくる。

 ……まさか、ここでまで……?

 突如響いた足音で、トモは我に帰る。静かだった室内に突然の音。自分のすぐ後ろだった。

 振り返るのが怖かった。見てはいけないものを見てしまったかのような恐怖の中、動くことができない。

 しかし、意外にも柔らかい声が後ろから聞こえる。

「君は……確か……」

 聞いた事がある声だ。

 不思議と気持ちが少し楽になったことで、やっとトモは振り返ることができた。

 声が続く。

「あの時の子だね。やっぱりそうだ」

 一年前、大統領に就任したばかりのマルカスがそこにいた。

「あの時のことは覚えているよ。君は選ばれた子だ……こんな所でどうしたんだい?」

 小さくトモが応える。

「カーナを探してたら……」

「あの時のもう一人の子だね。一緒に探してあげよう」

 マルカスはトモの持っている紙に目をやって続けた。

「そうか……君は理解しているね。イノセントのことは」

 トモが小さく頷く。

「〝私達〟には、必要なものなんだ……分かるね……」

 もう一度小さく頷いた。

 このことからおよそ六年、トモは工学課に所属することでその真意を確かめようとしていたのかもしれない。

 放浪癖のあったカーナもすでに一一才。教育課程も二年目となり、しかも成績の良さから周りの期待も高い。将来を期待されている一人だった。

 そんなカーナのことなら、トモは全て知っていると言ってもいい。後ろ姿どころか、手だけを見ても分かるほどに。しかし、その日トモがカーナを見つけたのは工学課モジュールのとある一角。管理用の小さな扉の中に上半身を潜らせ、四つん這い状態で下半身だけを露出した姿だった。

「授業をサボるなんて珍しいわねカーナ」

 さほど驚きもせずにトモは口に出していた。幼い頃からのカーナを知っているトモにとっては、むしろ懐かしい光景だ。

「イタッ──!」

 突然声をかけられて、驚いて頭でもぶつけたのだろう。そんなカーナがゆっくりと体を後ずらせ始める。

 トモは呆れたように溜息をついて続ける。

「もう学校にも通ってる年なんだから……何やってるのよ」

 そんなトモの顔を見るなり、後頭部を抑えながらカーナが噛み付く。

「だって──女の子が中に入っていったから──」

「女の子? 誰?」

 立ち上がったカーナが応える。

「知らない……知らない子だった……ここ危ないから──」

 すぐにそれを遮るトモ。

「あなたが言うなら間違いないわね。警備部に伝えておくから──」

 しかし、再びカーナはそこへ体を潜り込ませながら返す。

「警備部待ってたら──ここ広いから危ないんだってば」

「ちょっと──!」

 トモの静止も聞かずに進んでいくカーナ。暗いとはいっても微かに非常灯の灯りはある。そこはモジュールの外殻空間だった。複雑な作り──というよりツギハギの空間のような印象で、決して遠くを見渡せるものではない。

 小さな女の子に見えた。そして、まだ教育課程に通うような歳には見えなかった。

 まだ幼かった自分のことを思い出す。

 トモも自分のことをこうやって探したのだろう……そんなことを思いながら、足早に人影を探した。

 しかし簡単に見つかるものではなかった。そのくらいに入り組んでいる。すでに別の扉から出てしまった可能性を考えていた時、唐突にその子は見つかった。

 それが一一才のカーナと、まだ六才のサーマとの出会いだった。

 サーマは小さな隙間に体を潜り込ませるようして座り込んでいる。

 その周りには綺麗に積まれた三冊の本とプラスチックのマグカップ。よく見ると、座っている下に小さなクッションのような物まで見える。

 色々なことを察したカーナは、サーマに軽く笑みを向け、その横で同じように座り込んだ。

「わたしもクッション持ってこようかな。このままじゃお尻が痛くなるね」

 サーマは怪訝な表情を向けていた。

 構わずカーナが続ける。

「よく来るの?」

 サーマは何も応えない。

「わたしも、よくこういう所に来てたよ。別に理由なんかなかったような気がするけど……何でかなあ……」

 なぜか説教をするつもりにも慣れなかった。

 やけに胸に突き刺さるような懐かしい感覚。

 そして、いつの間にかトモと自分をそこに重ねる。

 トモも、常に自分にこうして寄り添ってくれていた。

 サーマが何を求めているのかなんて、知りようがない。

 トモもそうだったに違いない。

 でも、何かが他人と繋がる感覚。

 その時のカーナは、ただそれだけを愛しく感じていた。

 しかし、次の瞬間の振動で現実に戻される。

 カーナはすぐにそれが外からの振動であることを悟った。

 幼い頃にこの空間で感じたことがあった、あの振動──。

「デブリだ──来て!」

 カーナはサーマの手を強引に引っ張り、一番近くの扉まで急ぐ。

 デブリの衝突時、外壁空間の各扉は強制的にロックされる。サーマもそれはよく知っていた。出られなくなると、外的損傷を受けた時に取り返しのつかないことになる。

 鈍い振動が続く。

 次第に恐怖が募る中、すでにロックされた扉をなんとかこじ開けようとカーナが扉のレバーに手をかけるが、子供のカーナにどうにかできるはずもない。

 ──どうすれば……大きなデブリが来たら……

 当然、足で蹴ったくらいではまるで影響もなかった。

 そして、突如、ロックの外れた音が聞こえる──。

 ──え?──

 扉が開いた。

 伸びてきた手を何も考えずにカーナは掴んでいた。

 二人を廊下に引きずり出した手は、再び扉を閉めてロックをかける。

 警備部ではない。

 まだ幼い女の子。

 そして、そこに駆け寄ってきたトモの声が辺りに響く。

「カーナ! なにやってるの! 心配かけて──」

 無言でその場を立ち去ろうとする女の子の姿を見て、トモはその叫びを詰まらせた。

 そして呟く。

「…………チマ…………」

 幼くしてステーション内の緊急対策を誰よりも熟知している、八才のチマの背中が悠々と立ち去っていった。





 無重力エリアでも、ここは人の出入りの少ない所だ。

 コロニーのニアミス事件の修理が未だ続く中、居住区等の人工重力エリアを優先してきた管理課は、残る無重力エリアの最終チェックに入っていた。事故直後の判断として後回しにされてきたエリア──ネットワーク管理区──ここはネットワークのステーション内でのバイパス、ハブになるエリアだ。そこのサブシステム区。ここは奇跡的にも被害が皆無だったために後回しとなっていた。

 無重力エリアは、言わばステーションの背骨に当たるような部分でもある。ステーションの維持だけでなく、ここに生きる人々の生命維持にとっても重要な部分だ。重力エリアが背骨の周りを回るように設置されていることで、結果的に無重力エリアが守られている。

 この日は三度目のチェック。

 チマがパネルを操作しているところへ、頭の上から声が聞こえる。

 工学課主任のベルスだった。

「チマ──どうだ?」

 チマに近付き、パネルを覗き込んだベルスが続ける。

「──問題は無いようだな」

 軽く間を開けたベルスは、再び口を開いた。

「よし、いいだろう。ここは終了だ。──戻る前に少し話がある」

 チマはベルスの顔を見る。基本的にイカつい顔つきのベルスだが、その時チマの目に入ってきた表情はいつもと違った。

 重い──。

「この間の話を聞いたよ。大変だったな……しかもその直後に捕物騒ぎだ……」

 チマが視線を外す。

 フレンとサーマから話は聞いていた。しかしそのことで父を問い詰めてもはぐらかされた。自分の父を大統領としてしては信頼していたが、何か心の中に引っかかっていたものが大きくなっていくのも感じていた。

 自分の父親は〝ここ〟で何をしているのか……。

 ベルスが続ける。

「あれからまた何件か事件があったようだ……お前はあの時……殺害現場を目撃したわけでは無いんだし……」

 チマは何も応えないまま。

「……犯人は……見てないのか──? 何か情報があるなら教えてくれ。最近、警備部の動きがおかしい。俺まで監視対象のようだ……まさか俺が疑われるとはな……」

 ベルスは皮肉を込めたかのような笑みを口元に浮かべていた。

「誰が犯人か、どこにいるのかなんて分からない……チマ……お前も気をつけろよ──」

 ────⁉︎

 最初は振動だった。

 鈍い──。

 音が響く──。

 チマの足元──。

 突き破られた扉が壁に当たって宙に浮かぶ──。

 そこからチマの視界に飛び込む人影──。

 ──サーマ⁉︎

 その体は、投げ出されたかのように壁にぶつかった。力無く浮かぶ。

 そこにもう一人の人影が現れた直後、チマの視界が塞がれた。

 ベルスがチマの体を包み込むように抱き抱え、すぐ隣の扉を開ける。

 チマの体を扉から放り投げた。

 ──サーマ!

 それは声にならない。

 警報が響く──。

 チマの目の前の扉が閉まる。

 ベルスがチマに向かって何かを叫んでいたことだけは分かった。





 そして、

 情勢は激しく動いた。

 サーマがカーナの診察室に担ぎ込まれてから五時間──。

 手術室での処置は三時間を要した──。

 さらにその直後のチマとフレンの警備部による軟禁──。

 あまりにも理由の分からないことが多すぎた。

 よりにもよってサーマが巻き込まれるとは思っていなかった。警備部との一件があったとしても、それとこれが関係しているとは考えにくい。

 カーナにとってトモが母や姉のような存在だとしたら、サーマは妹のような存在だった。妹が欲しかったのではない。

 自分にはトモがいた。例え血が繋がっていなくても大事な存在だ。

 両親の顔を覚えていないことを寂しいと思うことは確かにあった。面影すらも覚えていない。思い出など何もない。それなのに、トモに手を引かれてステーションに乗り込んだことは覚えている。シャトルのたった一つのシートの上で、トモに抱かれたままステーションに着いた記憶は今でも鮮明にあった。

 トモのお陰でここにいる。だから寂しくはない。

 サーマには両親がいる。

 自分よりは幸せだ。

 幸せなはず。

 でも、幼いながらも、なぜかそうは見えなかった。

 家族がいても、サーマには分からない色々な問題を抱えているのかもしれない。両親といる時でさえ、なぜか笑顔をみたことがなかった。

 なぜか、周りから明らかに孤立していた幼いサーマを放ってはおけなかったのかもしれない。

 そんなサーマも、教育課程が終わる頃には、カーナには時折笑顔を見せるようになっていた。あれほど他人と関わるのを拒絶していたサーマが他人との関わりを求め始め、人の考えを受け入れ始めた。

 純粋にカーナは嬉しかった。

 そしてカーナは、サーマの成長を見ることで、自分の成長を感じていた。カーナ自身がサーマに何を求めていたのか。それは未だにカーナにとっても分からない。言葉にするのが難しいものだった。

 ただ、カーナにとってはトモの存在とは別の〝支え〟だったことは事実だろう。

 それだけに、今回の事件はショック以外の何物でもない。怪我の大きさが分かるだけに尚更だ。すぐに医療課に運ばれていなければ危険なレベルだった。

 そして、そんなサーマを心配しているのはカーナだけではない。

「容態は?」

 カーナの診察室に入るなり、トモが挨拶もなくカーナに詰め寄った。

「よくない……」

 モニターに目を向けたまま、振り向きもせずに応えるカーナ。

「それが医者の返答?」

 大きく溜息をつくと、カーナは振り返ってトモの目を見た。

 そのトモの目は動揺とは違う、しかし明らかに冷静なものではなかった。それはカーナも同じだったのかもしれない。そのカーナの目を見たトモは、少しいつもの感情を取り戻そうとし、そして続けた。

「詳細を教えてくれる? カーナ……」

 カーナが口を開く。

「……何か細い物……工具のような物だと思う……胸部と腹部を数カ所刺されてた……頭部を硬い物で殴られてる……頭蓋骨にヒビが入ってた……失血が多い……意識は不明……裂傷の治療と輸血……ただし臓器の損傷は激しい……外科チームが二回目の手術の準備をしてる……急ピッチで細胞シートの作成を進めて……」

「──分かった……」

 トモはカーナの言葉を遮り、診察用ベッドに腰を降ろした。

 そして呟くように言葉を絞り出す。

「どうして……サーマが……この間のこともあるのに……」

 カーナはしばらくそれに応えられずにいた。同じ気持ちだった。今度ばかりは警備部ではない。警備部が殺人行為などするとは思えない。いくつもの嫌な想像ばかりが頭を巡る。

 自分はきっと〝答え〟を求めているのだろう。

 カーナのどこかに冷静な自分がいる。

 ここ最近の目まぐるしい出来事。

 妹のように思っていた友人の怪我。

 なぜ、サーマが狙われたのか。

 あの損傷のレベルは、明らかに命を脅かそうとしたものだ。

「カーナ」

 トモが自分を呼ぶ声で、カーナは我に返った。

 トモが続ける。

「最近の一連の事件は……反イノセント組織かもしれない……」

 ──?

「だとしたら……サーマは……イノセントだということになる……」

「やめてよ」

 カーナは無意識に応えていた。

 トモは続ける。

「あなたのこの間の話し……不妊治療と称して──」

「やめて!」

「サーマは今年で一八才……いつからイノセント研究は──!」

「やめてよ‼︎」

 そして、静かになる。

 二人とも、やはり冷静ではなかった。

 やがて、カーナが小さく呟く。

「……こんな……はずじゃ……」

 ……聞かなくては…………





〜後編へ〜

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