3-4

 九田は右手を下げ、右脚の上に乗せた。

「二つに一つだな……」

 九田は静かな声でそう言い、続けた。

「我々の逮捕は諦めて帰れ。監視もやめてくれ……さもなければ全員がここで死ぬ。私達が死んでも計画は変わらないし、止まらない。タワーを止め、住民達を救うという志は消えない……」

「お前達の教義なのか理念なのか知らないが、そんなお題目に興味はない。話は取調室で聞いてやる。その増幅装置を停止させろ」

 九田が右手の箱を揺らした。

「はったりだと思っているのかね? それならそれでもいい。私がこの指を離せば分かることだ。今この増幅装置と私達は連結されている。二〇〇気圧の環境にメタフォーミングされる。一〇〇〇度の気温ほどではないが、それでも人の命を奪うには十分な環境だ」

 二〇〇気圧になるとどうなるのか、田馬には想像がつかなかった。しかし、水深で言うなら二〇〇〇メートルだ。人間の素潜りは一〇〇メートル程度が限界だったはずだが、その二〇倍だ。肺は完全につぶれるだろうし、筋肉や骨だってどうなるか知れたものではない。九田が言うように、死ぬのだろう。

 しかし、そもそもこの銀色の箱がメタフォーミング波増幅装置という確信はなかった。警察学校での研修で増幅装置を見た事があるが、それは机の上いっぱいに乗せて使うような大きさだった。あれから一〇年は経っているが、小型化が進んだとしても掌に乗るような大きさにまで小型化出来るとは思えなかった。

 そして仮に本当に増幅装置だとしても、デッドマン装置が組み込んであるのかは疑わしい。ただ単に指で押さえている振りをしているのかも知れない。

 だがそれを確認するのは、あまりにも危険だった。疑わしいが、もし本当だったならこの場にいる全員が死ぬ。それだけではない。周囲の無関係な住民にまで被害が及ぶ可能性がある。

 それを止められるとすれば、それは稀覯人、九羽場雁人の特異型メタフォーミング能力だ。正に、このような状況の為に彼を呼び寄せたのだ。

 九田との会話は当然聞こえているはずだ。ならば、どういう状況か理解しているだろう。合図をすれば、いや、合図をしなくても、危険な状況になれば特異型メタフォーミング能力を発現させるはずだ。

 この土壇場で一般人に命を預けることになろうとは。田馬は九田に拳銃を向けながら思った。

「……嫌だ」

 ぼそりと、九田の隣の男が呟いた。

「俺は死にたくない!」

 座っていた男は立ち上がり、拳銃を構える田馬の隣を抜けて部屋を出ていこうとした。工藤が咄嗟に蹴りを入れて男を倒す。

 その時点で、九田の手から銀色の箱が落ちていた。逃げていった男の足が九田に当たり、取り落としたのだ。九田の目が見開かれる。銀色の箱から、カチリと小さな音がした。

 予想外の出来事に、田馬は反応出来なかった。九田が銀色の箱を拾おうとしている。それを止めようと足を前に出したが、体がうまく動かなかった。

 息が吸えない。それに視界が滲む。全身に強い圧迫感がある。強い耳鳴りが始まり、そして体が横に倒れる。田馬は自分の体に起こった異常を冷静に認識していたが、体は一向に動かなかった。もう九田の様子を見ている余裕もない。銀色の箱はどこだ? 止めなければ。しかし、視界が真っ赤になり何も分からなくなる。

 まずい、このままでは死ぬ。二〇〇気圧の環境に殺される。こちらもメタフォーミングを……。しかし、自力でのメタフォーミングなど子供の頃の能力測定以来だ。そもそも増幅装置以上の出力は出せないから、無駄だ。呼吸が……肺が潰れていくのを田馬は感じた。死ぬ。

 強い圧力と身体の異常は、唐突に猛烈な寒さに変わった。息が吸える。しかしその空気はまるで刃のようだった。喉や体の内側に鋭い痛みが走り、むせる。顔に触れた手が、張り付いて離れなくなった。稀覯人が、特異型メタフォーミング能力を使ったらしい。それで二〇〇気圧の環境は消えたが、今度は氷点下六〇度だ。

 これは確かに、予想を超える寒さだ。田馬は倒れたまま強烈な寒さを感じていた。爪の先から氷を差し込まれたように冷える。感じているのが寒さなのか痛みなのか区別がつかない。呼吸が……鼻や喉の奥が凍っていくのを感じる。これは危険だ。特異型メタフォーミング能力とは、これ程のものなのか。

 田馬は体を起こし九田を取り押さえようとした。しかし、体がこわばってうまく動かない。目も……眼球が凍りかけている。瞬きが出来ず、視界が曇っていく。

「これが増幅装置か。スイッチは、これか」

 滲み不鮮明な視界の中で、田馬は雁人の動く影を見た。

 拾い上げた増幅装置を雁人が確認すると、赤い押しボタンと左右に入切を切り替えるスイッチがあった。持っていると掌に奇妙な振動が伝わってくる。メタフォーミングの干渉のようだった。雁人の能力の方が強いので、二〇〇気圧のメタフォーミング波は箱表面に留まっているようだった。

 入切と書かれたスイッチが装置本体の電源スイッチのようだ。それを切に替えると、銀色の装置内部の唸りが止まった。雁人はほっと息をつき、自分の特異型メタフォーミング能力も止める。

 田馬にははっきりとは見えなかったが、誰かが銀色の箱を拾い上げたと分かった。そして、猛烈な寒さが消えた。強い気圧も感じない。正常な環境に戻り、九田の体から力が抜け倒れ込む。呼吸をすると肺がひきつり声帯が悲鳴のような声を上げていた。

 雁人の足元で九田が胡坐のまま前にうなだれていた。動かない所を見ると、気を失っているようだった。隣の女も横になって倒れて動かない。

 田馬や摩瑠鹿達も同じように床に倒れていた。逃げようとした男も倒れている。みな生きてはいて意識もあるようだったが、立ち上がれないようだった。

「増幅装置のスイッチは切った。もう大丈夫だ……」

「ぐ……よく、やった……」

 田馬がふらつきながらも体を起こし、片膝をつく。その右目は赤く染まり、涙のように血が流れていた。瞼が切れているらしい。

「工藤、詩谷、瀬尾儀、無事か……」

「何とか」

「大丈夫です……」

「無事、です」

 三人は答えたが、あまり無事なようには見えなかった。まともに動けるのは雁人だけだった。

 九田の発現させた二〇〇気圧のメタフォーミングは危険なものだった。しかし、それを無効化する為に発現させた雁人のメタフォーミングも、少なからず危険なものだったようだ。

 雁人は嫌なことを思い出した。子供の頃、母を殺してしまった時の事を。あの時は能力を制御出来ずに母を死なせてしまった。今はその能力を制御出来るようにはなったが、危険であるという事に変わりはない。数分あれば、人を殺すことの出来る能力だ。

 研究所で雁人は様々な試験を行った。ネズミを相手に使うこともあったが、人間相手というのは無論初めてだった。相手が何であれメタフォーミングの感覚が変わるものではないが、何とも気持ちの悪い感覚が残っていた。覚悟はしたつもりだったが、人を傷つけた後味というのはやはり嫌なものだった。

 田馬が手錠を取り出し九田の手にかける。まだ田馬は手が強張っているようだったが、気を失っている九田は抵抗することもなく大人しく手錠をかけられる。

「十六時七分、逮捕……」

 荒く息をつきながら、田馬がようやく言った。

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凍てついたままでいて 登美川ステファニイ @ulbak

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