第29話
「いえ、それは儀式とは関係ありません」
あっさりと芳夫が言い、荒木が後ろから、
「ハラさんの希望だったんです。奥さんと同じ、アルツハイマーの症状が出たっていうんで。自分が何をしてるかわからなくなって逃げ出さないようにって」
と言い加えて、光弘を愕然とさせた。
「まさか……、本人の意思だったんですか? てっきり、強制されたのかと──」
芳夫が、空いているほうの手を振った。
「強制では、それこそ祟られます。怨みが怨みを引き寄せ合いかねませんから。東棟などという重要な場所では、それこそ御法度です」
「重要な場所……?」
「渋谷川の水神を祀ってますからね。
そこで通路を出て、地下のガレージのような空間に戻ってきた。
健一が掃除用具を棚に戻し、五人で階段を上っていきながら、芳夫が話を続けた。
「それこそ御饌使が祟られる危険のある場所でしてね。御饌使料もだいぶ出してます。旧東館の建設のときもだいぶ大変だったそうです。あんなにも深く掘らなければ、骨灰を遠ざけて水神を呼び戻せなかったわけですから」
「その……すいません。私が、勘違いしてその方を外に出してしまい……」
「はい、おたくの所長から聞いています。私どものことを知らなければ、誰だって驚きますでしょう」
芳夫がやんわり返した、かと思うと、
「奏太。結界を閉じなかった、お前の責任だ」
一転して厳しい口調になった。
「はい」
荒木が短く返した。責任を痛感しているというより、不条理なことを黙って受け入れるという感じだった。きっと荒木のほうも言い分があるのだろうが、光弘にはそれがどういうものか想像もつかなかった。
「あの、原義一さんは、どちらにお住まいなんですか?」
階段を上る苦労でやや息を荒らげながら光弘は問うた。
「家がないんです」
芳夫が、この程度の上り下りなど、辛くもなんともないという様子で言った。
「え?」
「認知症になった奥さんを施設に入れるために、家も何もかも売り払いましてね。御饌使になったのも、お金に困っていたからなんです」
「……路上生活を?」
「わかりません。以前、支援センターや団体を紹介しましたが、何しろ病気ですし」
「そうですか……」
と返しながら、本当にそうだろうか、という疑念を光弘は覚えた。あんな地下の穴底に鎖で拘束するなど、果たして本当に本人の意思なのだろうか。
そもそも深さ数メートルはある穴なのだから、鎖でつながなくとも出て行けないはずだ。
「自分が何をしようとしてたか思い出したら、私に連絡が来るでしょう」
荒木が言うので、
「あのう、できれば原さんにも聴き取りをさせて頂きたいのですが」
遠慮がちにみせて、しっかり釘を刺す気で言った。危機管理チームの一員としては、都合の悪いことを隠されるだけでなく、あとあと第三者がそれを暴き、企業イメージを毀損されるようなことがあってはならない。そのためにも調査を徹底することが使命だった。
「松永さんにも、連絡させますよ。いいな、奏太」
「はい。そうさせて頂きます」
芳夫が請け合い、荒木が同意したが、光弘としてはいまいち信用できなかった。ここまで聞かされたことがあまりに現実離れしすぎているせいでもあるだろう。地上が近づくにつれ、祟りなどという与太話で企業から大金をせしめる怪しい業者なのではないかという気持ちのほうが強くなっていた。
「原義一さんの奥さんの名前と、入所されている施設はおわかりですか?」
「ええ。原めぐみさん。めぐみは平仮名です。
芳夫が、施設名をすんなり教えてくれた。
「あとは、渋谷の教会の牧師が代表をしている、ホームレス支援団体が、ハラさんのことをよくご存じです」
その団体名を芳夫が口にするのへ、
「あ、ちょうど、このあと訪ねる予定でした。路上生活者が、立ち退きへの抗議のために現場に入り込んだ可能性もあると考えていましたので」
すかさず光弘は言った。これも、いい加減な調査はしないぞと釘を刺すためだ。
「そうでしたか。代表によろしくお伝え下さい」
隠すことは何もないというように芳夫が返したところで、階段が終わった。
芳夫がドアのロックを解錠し、みなが地上へ出ると、しっかりドアを閉じた。
光弘は、地上に戻った安堵感と、足の疲れを感じて、早くどこかに座りたい気分だったが、さっさと歩く四人に従い、足早にビル一階の裏口側通路へ戻った。警備員に入館証を返却し、退去日時を記入して、焼けつく日差しのもとに出た。
「貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
光弘は
「いえいえ──あ、そうだ。火が出たんですよね」
だしぬけに芳夫が言った。
「え?」
「松永さんがいたときに現場で火が出たと所長さんから聞いてます」
そう言いながら芳夫が作業着のポケットをごそごそやり出し、光弘を困惑させた。
「ええ、消防署のほうが調査を──」
「何もないとは思いますが、念のためこれをお持ち下さい」
芳夫が、手にしたものを光弘の前に差し出した。
神社で買えるような、やや大きめのお守りだった。
『玉井 祈』
と刺繡されたそれを受け取り、
「お気遣い、ありがとうございます」
感謝を示しつつも内心では、こんな品をもらったと報告したら、竹中は顔をしかめるだろうと思った。当たり前だが、聴取相手から何かを贈られることは避けるべきなのだ。それこそ都合の悪いことを隠したい人々ほどそうするのだから。
だが芳夫は、贈答というより業務の一環といった真面目な調子で、こう説明した。
「しばらくは肌身離さず持っていて下さい。特効薬みたいなものです。それでももし自分や身近な者に祟りが出てしまったらですね、中のお札を焼いて、その灰を使って、体のどこかとか、家の玄関の壁なんかに記すなどして下さい」
「記すというと……何を?」
「まあ、実のところなんでもいいんです。祈りを込められればね。一本線でも点でもいいんですが、ただ先代は、やっぱり効き目があるのは、あの字だと言っていました。今日見て頂いた、サザエ廊下の入り口の右にあった字、覚えてますか?」
光弘はうなずいた。
『鎭』
東棟で撮影しているから、いつでも字を確認できる。ただし、その必要があるとはとても思えないのだが。
宮司の子孫だという気持ちが強いんだろう。光弘はそう思った。信心が彼らの生き方であり商売なのだから、逆らわずにいるべきだった。少なくとも今のところは。
「たくさんのことをご教授頂いてしまって恐縮です」
光弘が言うと、芳夫がその腕を気さくに叩き、
「お祓い料はまけておきますんで。実はこれ、けっこうしますんでね」
いたずらっぽく笑って言った。どこまで本気なのかは、わからなかった。
光弘は、彼らに繰り返し礼を述べ、ビルの前で別れた。
秋葉原駅に向かいながら、手にしたお守りを鞄の内ポケットに押し込んだ。携帯電話を取り出し、竹中のナンバーをコールした。何をどう報告するか頭の中で整理するうち、お守りのことは早くもどこかへ消え去ってしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます