第30話
5
「異世界にでも行って来たような気分です」
光弘は、むわっとする秋葉原駅のホームのベンチに座り、電話を当てていないほうの耳の穴に指を突っ込んで、電車の走行音や発着のベルに気を取られないようにしながら言った。
《部下が、電波も届かない地下に連れて行かれるというのは、ぞっとせんぞ》
竹中が言った。言外に、そんな場所へ進んで同行するんじゃない、という叱責の念が感じられたが、光弘とて警戒していなかったわけではない。
「監視カメラなどセキュリティがしっかりしているビルでしたし、警備員に名刺を渡したので。もし監禁されたら、退館していないことを警備員が知って、社に連絡したと思います」
《警備員がぐるだったケースだってあるんだぞ。おれが若い頃なんて……》
竹中が言いさし、「まあ、いい」と
《虎穴に入らずんばというやつだな。推測通り路上生活者であること、名前をつかめたことは上出来だ。儀式だのお祓いだのはよくわからんが、志願したという原義一氏に確認し、合法的で事件性がないことが確認されれば調査は完了だな》
竹中も、玉井工務店側の主張だけで調査を終えるべきではないと思っているのだ。
「渋谷に戻って支援団体で聴取する前に、介護施設にも行ってみます」
《そうしてくれ。それと、ツイッターの投稿者だが、そっちの調査と重なるかもしれん》
「ツイッターの……新しい投稿が?」
《数時間前に、こう投稿している。『とうとう追い出された。呪われた。東棟の現場のせいで呪われた。帰る場所までとられた』だそうだ》
光弘は、うんざりする気持ちを隠さず唸った。路上生活者の仲間入りをするのは気の毒だが、またしても東棟に言及するとは。まったく余計なことをしてくれる。
「明らかに根拠のない中傷ですね」
《そうだが、東棟の現場に執着されていることは看過できん。例の放火のこともある》
竹中に言われて、はっとなった。
「放火と断定されたんですか?」
《ああ。消防署がそう判断して、警察に通報した。所長が対応に当たり、現場の保全と、作業員のスケジュール調整をしてくれている。ツイッターの投稿者が犯人とは断定できないが、今のところ現場に敵意を持っているかもしれない、ゆいいつの人物ということで警察も捜査するそうだ》
「警察からメディアへの公表やリークはありそうですか?」
《容疑者不明のままではやらないだろうと所長は言っているが、正直わからんな。東棟の現場の放火なんて、警察も無視できんだろう。犯人捜しに行き詰まればメディアへ流すかもしれんから、対策は別に講じておく必要がある。お前は路上生活者のほうを調べてくれ》
「わかりました。しかし、参りましたね。住所不定者が二人ですか」
《ネットにアクセスしてるってことは、携帯電話をまだ所持しているんだろう。そのうち、どこにいるかといった投稿をするかもしれんから注視しておいてくれ》
「はい。聴取が終わり次第、社に戻ります」
通話を切って携帯電話をしまった。竹中と話したことで、やっと現実に帰ってきた気分だ。
報告書をどう作成するべきか? 乱暴に言えば、人柱ごっこのために認知症の症状がある人物を鎖でつないで地下に閉じ込めたのだ。非常識にもほどがあるが、玉井工務店は、あくまで業務の一環だったと本気で抗弁するだろう。立ち退きに抵抗しておのれを縛りつけてくれていたほうが、よほど楽に処理できた案件かもしれない。
とにかく情報収集が先だ。余計な考えを追い払いながら、電車がホームへ到着するのに合わせて立ち上がった。ベンチに座っていたおかげで、階段の上り下りでくたびれた脚も回復していた。
五反田駅で降り、ホームでまた片方の指に耳を突っ込んで電話をした。介護施設に、原めぐみとの面会を申し込むためだ。
案の定、応対した受付の者には、親族ではないという理由で渋られた。そこで夫の原義一が認知症を発症し、行方不明となったため捜していると告げると、相手が態度を軟化させてくれた。
「もし、そちらに原義一さんが現れたとき、すぐに駆けつけられるよう、態勢を整えたいと思いまして」
この提案には、相手も賛同してくれた。施設側としても、ハラさんこと原義一が現れ、入所手続きもできないまま居座られたり、近辺をうろつかれては困るのだろう。さりとて光弘としても、聴取が目的であって、保護してやろうとは思ってもいないのだが。
なんであれ首尾良く話がついたので、携帯電話の地図アプリで確認しながら、施設へ向かった。なるべく炎天下の路上を避け、日陰に入りながら歩いた。途中、鞄の中に入れておいた水を飲み干してしまい、自動販売機で新たに冷えたものを購入した。
目的の施設に到着し、受付で社員証を提示しながら、電話をした者だと告げた。すぐに女性の介護士がやって来て、娯楽室へ案内してくれた。
「傷ついたり動揺したりすることは言わず、旦那さんが立ち寄りそうなところを尋ねるだけにして下さい」
「はい。承知しています」
そこには七、八人の年老いた男女がいて、めいめいテレビを観たり、面会者と話したり、はたまたテーブルに向かって、ゆっくりとした手つきで絵を描いたりしていた。
彼らの様子を見たとたん、時間の流れが変わるのを光弘は感じた。何もかもが緩慢で、それまで水のように流れていた時間が、蜂蜜のように、とろとろとしか進まなくなった。
「めぐみさん、こちら、旦那さんのお仕事の関係の人」
介護士が呼びかけたのは、車椅子に乗ってテレビを観ていた、ひどく小柄な女性だった。手足は小枝のように細く、年を経て穴の空いた風船のように萎んでしまったという印象だ。
「うちの人がどうかしましたか?」
女性が、きょとんとした様子で訊いた。
「私は松永光弘といいます。仕事の関係で、義一さんと……その、お知り合いになりまして。ご挨拶に伺いました」
「そうですか。そうですか。あの人は、いつここに来ますか?」
「それは……義一さんは、なんて仰ってましたか?」
「すぐに来ると言っていましたよ」
女性が微笑んで告げた。ついさっき、そう聞かされたというようだ。不安や寂しげな様子はまったくなかった。
「そうですか。その……義一さんが居そうな場所は、おわかりですか?」
「あの人が居そうな場所? あの人、どこかへ行ってしまったの?」
女性の目に、急に怯えるような光がまたたいた。介護士が屈んで、
「違うの。お仕事の用事で、旦那さんに会いたいだけ」
と言って
「お仕事? ああ……、もしかして、玉井の方?」
女性がまた明るい表情になって言った。介護士が、そうなのかと問うように光弘を見た。
「玉井工務店と契約しているシマオカ本社の者です」
「はい、はい。私、うちの人の仕事のこと、あんまり知らないの。でも、玉井の方たちはね、うちの人のこと、腕がいいって言ってた。漆喰をね、きちんと塗れるって。それで、もう仕事をしなくなったあとも、たまにね、うちの人に、頼みに来てたわ」
ゆったりとした口調のせいで、焦らされているような気分になったが、光弘は急かさず相手に合わせた穏やかな調子で言った。
「そうなんですね」
「でもね。あの方たちの仕事をすると、いつも二人して、臭いに悩まされるの」
「臭い?」
女性が左右に目をやり、あまり大声で言えないけど、というように手を口元に当て、
「お骨を焼いたみたいな臭い」
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