第2話

 渋谷駅に到着すると、本社のあるさくらおかのほうではなく、現場がある東口側へ出た。

 一帯は工事用の仮設壁だらけで、入り組んだ迷路と化している。

 工事区画が毎月のように変わるため、工期を把握しているはずの光弘ですらしばしば迷うのだから、一般の利用客のストレスはかなりのものだろう。

 地域向けの自社メディアを運営するチームは、むしろ今だけの景色として肯定的にとらえてもらえるよう一般客へ訴えかけているが、成果は芳しくないと聞いている。

 自社メディアの運営は、基本的に経営企画局の対マスコミ広報部の仕事だが、渋谷の再開発に限っては、IR部のメンバーも何人か参加していた。

 工事が終われば、驚くほど東西南北への行き来がたやすい構造になるはずだが、そうなるには、あと五年はかかるだろう。

 なんとかこの新しい「ダンジヨン」に慣れてもらうしかないな。光弘は、そう思いながら通路をジグザグに移動していった。

ダンジヨン」とは、もとは一帯に存在したシマオカ東館デパートのあだ名だ。

 複雑な構造で知られた建造物だったが、解体が完了し、一階床下のあんきよの蓋も外され、今では「東棟」と仮称される四十七階建ての高層ビルの建設が新たに始まろうとしている。

 光弘が向かうのは、その「東棟」の基礎工事の現場だった。

 警備員に社員証を見せ、仮設壁のドアから中に入ると、ぽっかりと空いた四角い巨大な穴が見えた。

 渋谷川の暗渠の蓋があった、まさに東館デパートの一部が建っていた場所だ。

 暗渠の底には、いつもごく浅い水たまりがあるだけだが、今は雨音にまじって、ざあざあと川が流れる音が聞こえてくる。大雨の影響によるものだろう。もともと増水時に備えて残されたのが渋谷川の暗渠なのだ。

 せんがわから流れ込む水が増したときだけ、駅前の地下にある渋谷川の暗渠に水が流れ込む。ふだんは、明治通りの真下にある下水道幹線が水の通り道となっていた。

防水工法のミスの調査でなくてよかった、と光弘は思った。ずぶ濡れになりながら下水の臭いのする暗渠を必死に覗き込む自分を想像しただけでうんざりする。

 さすがに増水時の暗渠に入る許可など出ないし、やろうとも思わないのだが。うっかり自分が人身事故のニュースのネタになるなど、笑い話にもならないからだ。

「調査で心がけるべきは、第一に安全、第二に安全、第三に安全だ」

 竹中が部下に言って聞かせるときの真剣な面持ちを思い出しながら、光弘は事務所のプレハブの階段を上り、二階のドアを開いて中に入った。

 作業着に『しまおか建設』の腕章をつけた男が二人いて、片方は有線電話で天気予報と工事再開について話しており、年嵩のもう一方の男が、立ち上がって光弘へ歩み寄った。

 光弘は小さく頭を下げて言った。

「本社広報の松永です。上司から調査を命じられて来ました」

「お疲れ様です。竹中さんから話は聞いてますが……、あいにくこの雨で、作業員のほとんどが休暇に入ってまして……」

「かえって助かります。調査にどれだけ時間がかかるか読めないもので」

「案内はいりますか? 八時には人が増えるので、ここから出られるのですが……」

 男が太い指で額をかきながら訊ねた。二人とも事務所に張りついていないといけないのだ。早朝からそれこそお疲れ様だった。いや、おそらく夜勤だろう。終業間際に大雨のせいで連絡仕事が増えたことに対して労うべきところだ。

「何度か来てますし、図面もありますから、一人で大丈夫です。安全柵のない場所に登るわけではありませんしね」

 光弘が軽口を叩くと、かえって男が眉間にしわを寄せた。雨の中でそんな場所に素人が立つところを想像しただけでぞっとするのだろう。光弘にしても広報部員の落下事故などまったく笑えない。やれと命じられてもやる気はなかった。

 光弘はすぐにできるだけ真面目な調子になって言い直した。

「東棟地下の現場を拝見するだけですから危険はないでしょう。ヘルメットと腕章を貸して頂けますか? あ、できましたら軍手も」

 男が明らかにほっとした顔になった。地下なら悪天候は関係ないし、構造物を支える主要部材の杭は、きわめて入念な照査と検査のもとで打ち込みが完了しているから、比較的安全だった。暗がりでうっかり転ばなければいいだけだ。

「そこの棚にあるのを使って下さい。記録書類は棚にかかっているやつです」

「ありがとうございます。お借りします」

 光弘はパイプ棚の柱に紐でぶら下げられたボードとボールペンをつかみ、備品の使用欄に日時と名前を書き込んだ。ヘッドライト付きのヘルメットと腕章を身につけ、軍手をはめながら、対応してくれた男にまた軽く頭を下げて、プレハブを出た。

 階段を下りて地上に戻り、雨を避けて仮設構造物の下を通りながら、東棟の基礎工事現場へと進んでいった。

 抱えた鞄の中のタブレットに図面のファイルがあったが、そちらを見るまでもなかった。投資家向けに工事の進捗を発表するため、現場の資料は常に目を通しているし、プレハブにいた相手に告げた通り、何度か現場を見て回ってもいる。

 今は、別の目的で、現場を確認しなければならなかった。

 光弘は、雨天時のための防水用ののうを越えて、地下一階にあたる作業現場に入った。作業用の機械や重機はどれも沈黙している。頭上の鋼板を叩く雨音がはっきり聞こえた。

 工事中は騒音が激しくて会話もままならないほどだが、今は静寂そのものだ。

 雨模様のせいで、ひどく暗かった。ほうぼうにある台車に大型の照明機器が載せられているが、こちらも全て消灯している。

 地下で重機のオペレーションを行う際、機体が作る影の中に作業員が入り、オペレーターから死角になることを防ぐための照明だ。しばらく前まで、重機による死傷事故の大半が、そうした「かげち」によるものだったという。

 明るくしてもらえると助かるんだがな。光弘はそう思うが、無理なのはわかっていた。仮設の照明を点灯させるには、発電機を起動させる必要がある。発電機を使うということは、光弘一人のために工事再開と同じ状態にするということだ。発電機の正常な稼働をチェックする手間も生じる。

 プレハブに二人しか詰めていないこんな時間帯では、そこまで頼めないな。光弘はマンションを出たとき同様、溜め息をつきたい気分でヘッドライトのスイッチをつけた。

 鞄を斜めがけにして邪魔にならないようにし、首をすくめるようにして鋼板とコンクリートのまだら模様の天井の下を進んだ。

 すぐに地下二階への階段が見えた。何の装飾もない、金属の板とパイプをボルト締めして組み合わせた仮設構造物の一部だ。

 光弘は体にくくりつけるようにした鞄から、最新型のタブレットを取り出した。

 右手の軍手をくわえて外し、タブレットを起動させた。必要な画像ファイルを一覧にしながら、便利な道具が市販されるようになったことに改めて感心した。

 iPadと呼ばれる商品が現れたのは五年前、二〇一〇年のことだ。その後、またたく間に世に広まり、今では最良の社用備品の一つとなっている。

 何しろ以前はインスタント・カメラで撮影してフィルムを現像するという手間と経費がかかっていたのだ。それに比べてこのタブレットというやつは何百回撮影しても費用は発生しない上に、その場で撮影した画像を閲覧できるだけでなく、それらの画像を使ってちょっとした書類も作れてしまうという、すこぶる便利なしろものだった。

 とはいえ、その便利な道具のせいで、こうして朝駆けを命じられたとも言えるのだが。

 光弘は、タブレットに表示される、ひどく厄介なものを睨むように見ていった。

 七つものキャプチャー画像を。

 どれも、あるSNS上で発信された記事を保存したものだった。

 いや、いまどきは、それらを記事とは呼ばないらしい。

 ツイッターというアプリケーションを用いた情報発信で、僅か百四十文字しか記述できないが、画像も動画も添付できるそれは、もっぱら「つぶやき」と呼ばれている。

 七年前、二〇〇八年から日本でも使われるようになるや、その便利さから若者を中心に爆発的に広まり、あっという間に企業広告ばかりか政府広報にも用いられるようになった。

 それだけ広まれば、当然、良心的な使い方をする者ばかりとは限らなくなる。そもそもインターネットというものには、はなから悪意による使用を喚起させる何かがあるのではないか。光弘は常々そう感じてきたし、まさに今見ているものなど、悪意の塊にしか思えなかった。


『東棟地下、施工ミス連発』


『東棟地下、いるだけで病気になる』


『東棟地下、喉が痛い、絶対に有害なものが出てる』


『東棟地下、火が出たあとの壁、見ると頭痛がする』


『東棟地下、ここでも火が出た、息が苦しい辞めたい』


『東棟地下、作業員全員入院』


『東棟地下、人骨が出た穴なのに誰も言わない』


 発信者の名は「モグラ初号機」。ふざけた名だ。プロフィールには「土木作業で食ってます」としかない。この人物の特定のため、チームのメンバーが奔走中だった。

 この人物が発信した最初の「つぶやき」は、去年の秋頃のものだった。問題の七つ以外は、ほとんどどうでもいい「飯なう」といった言葉の切れっ端みたいなものばかりだ。

 匿名そのものの「つぶやき」を見ているだけで、光弘は胃がむかつくような不快感が込み上げるのを覚えた。

 いちいち「東棟地下」をまくらことばのように用い、ご丁寧にも七つの「つぶやき」全てに異なる現場の画像が添付されている。おそらく携帯電話で撮影したものだろう。

 これぞ事故現場といった画像は、一つもない。

 しかし、「施工ミス」「有害なもの」「火」「入院」ときて、「人骨」である。どれも看過できるものではなかった。

 地下での有害物質による事故や火災の発生など、事実であれば投資家を不安にさせてしまいかねない。経営陣だって不安になるだろう。光弘や上司の竹中とてそうだ。不安にならないほうがどうかしている。

 光弘が任された調査は、第一に、添付された画像が、事実この現場の一角を撮ったものかどうか確かめることだった。

 第二に、現場の画像であった場合、現実と同じか確認することだった。

 つまり、画像が加工された可能性はないか、入念に調べねばならなかった。

 光弘は、最初に発信された記事の画像を全画面表示にすると、くわえたままの軍手を右手にはめ直した。

 そして、画像と同じ場所を見つけるため、地下二階の暗がりへ下りていった。

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