骨灰

冲方丁/小説 野性時代

第1話


第1章 解放



「難しい事件になる前に片をつけねばならん」

 早朝から携帯電話越しに上司の重々しい声を聞かされるまでもなく、まつながみつひろはまったく同感だった。

 しゃんと覚醒するためにシャワーを浴び、薄暗い寝室で手早く身支度を整えていると、妻のが頭を枕から離した。

「いってらっしゃい。大変ね」

 ほとんど目を閉じたまま片手をゆらゆらと振ってくれた。

 光弘は、その手を軽く握り返し、枕元に置いてやった。

 美世子は、ことんと枕に頭を戻して安らかに鼻で息をついた。光弘も、もらいあくびをしながらネクタイをハンカチと一緒にポケットに突っ込み、かばんを抱えて寝室を出た。

 玄関に行く途中、子ども部屋のドアをそっと開いた。

 娘のが蹴散らかした毛布をかけ直してやり、起こさないよう軽く頭を撫でると、母親そっくりの鼻息をつくので、思わず微笑んでしまった。

 今年ようやく小学校一年生になってくれたおかげで幼稚園の送り迎えを気にしなくて済むのがありがたかった。共働き夫婦にとって、やっとひと息つけたというところだ。

 音を立てないよう、静かに子ども部屋を出ると、足早に廊下を進み、玄関のシューズシェルフから滑りにくいくつを手に取って履いた。現場を歩き回らねばならないときのための靴だ。底がつるつるの革靴など履いていては、事故を起こしに行くようなものだった。

 家を出て施錠し、ドアノブに向かって指さし確認をした。

 つい癖でやってしまうのだ。同じ階の住人にそうしているところを見られ、鉄道関係者だと思われたこともある。確かに鉄道も大いに関係しているのだが、列車の運行に関わったことはない。

 ロビーでエレベーターに乗った。光弘が購入した部屋は四階の角部屋だ。気持ちに余裕があるときは運動がてら階段で上り下りするが、今はそんな気になれなかった。

 マンションのエントランスに来て、オートロックの自動ドアをくぐった。そしてそこで初めて、激しい雨の音に加え、驚くほど冷え冷えとした空気に出くわして面食らった。

 六月に入って汗ばむ陽気が続き、すっかり油断していたところで不意打ちを食らった気分だ。

 妻を気遣って寝室のカーテンを開かなかったため気づきもしなかった。マンションの防音設備がしっかりしている証拠だが、代わりに天気の変化を感じ取ることもできないというわけだ。

 現代建築は、外部のものを完璧に遮断してしまう。酸欠などの事故が起こらないよう、必ずどこかに穴をあけて換気口をもうけることが義務づけられているほどだ。

 光弘は溜め息をつくと鞄を頭上に掲げて駆け出した。道路を渡ってすぐ駅前広場があり、地下鉄駅の出入り口はマンションのエントランスからわずか百五十メートル先だ。

 駅前に居を構えて正解だったな、と光弘はつくづく思った。値は張るが、通勤に便利なことこの上ない。美世子は、風水だのなんだのと光弘にはさっぱりわからない理屈に熱心だが、今の物件にだけは真っ先に賛同したものだった。

 パワースポットがどうとか言っていたっけ。地下へ下りるエスカレーターに乗ってスーツについた雨粒を払いながら光弘は思った。最近流行の言葉らしいが、なんのスポットなのか、いまいちわからない。

 きっと、利便性という都市生活における最大の恩恵に感謝しているんだろう、と光弘は解釈していた。

 地下フロアに到着し、雨音が聞こえなくなった。吹き込んでくる風に湿り気を感じたが、すぐにそれもなくなった。

 早朝から開いている売店でお茶とサンドイッチを買って鞄に入れ、駅の改札を通った。

 まだ朝の六時過ぎとあって人はまばらだ。光弘は、せかせかとでんえん線のホームに下り、ちょうど来た電車に乗った。

 たちまち涼しいエアコンの風に迎えられた。ちょっと肌寒いほどだ。なるべく風が当たらない席に座り、社用の携帯電話を取り出して「事件」の進展を確認した。

 最初の事件発生から、すでに十二時間が経過している。

 どのような事件であろうと、六時間以内に資料作りが可能となる体制を目指していたIR部の危機管理チーム全員にとって、苦々しい限りのシチュエーションだ。

 IR、すなわちインベスター・リレーションズとは、投資家に向けての広報のことだ。マスコミに向けての広報とは、根本的に異なる。

 経営、財務、業績について、現状や今後の見通しを伝えることで透明性を示し、ブランドの価値向上に努め、投資家の興味を喚起する。もちろん、マスコミ相手に記者会見を開くこともあるが、その最大の目的は株価変動リスクを最小限に抑えることにある。

 光弘が所属するのは、しぶ駅の再開発事業に社運を賭けるシマオカ・グループの本社、シマオカ株式会社の財務企画局IR部だ。

 グループは四十社以上からなり、鉄軌道、不動産、リゾート、デパートを主とする生活関連サービス、そして建設の五つの事業を主力としている。

 それらの主力事業を結集し、二十一世紀早々に開始されたのが、再開発事業だ。

 あらゆる投資家がその進捗に注目しており、IR部の主な役目は、危機管理の中央制御装置としての機能を発揮することにある。

 光弘が入社して間もなくの二〇〇五年から〇六年にかけて、最も神経を尖らせねばならなかったキーワードは、「耐震偽装」だったと上司のたけなかやすから聞いていた。

 国土交通省が、耐震強度を偽装して建てられたホテルやマンションなど、二十一もの物件を公表したことから、世論が沸騰したのだ。

 しかも、ただ企業が糾弾されるだけでなく、警察が合同捜査本部を設置し、関係者の一斉逮捕という事態にまで発展した。

 ほとんど別件逮捕に等しい強引な逮捕劇だったらしいが、

「そうでもせんと収まらんほど、怒りの声が国内で渦巻いてたんだな」

 竹中は、今なおその怒りを恐れているというような神妙な様子で言ったものだ。

 幸いなことにシマオカ・グループは、その件で打撃を受けることはなかった。

 ただ当時の経営陣が、恐怖に近いほどの危機意識を抱いたため、現場の設計照査チームおよびIR部の危機管理チームの増強が、同時に決められたという。

 そして二〇一五年の今、何度かの再編を経て整備されたIR部の危機管理チームを率いるのは、長らく業界で広報の経験を積んできた竹中だ。

 冷静に二手三手先を読んで指示を下す竹中のおかげで、光弘や他のチームメンバーも、判断に迷って右往左往したり、誤情報を連発してかえって傷口を広げるといった目に遭わずに済んでいるといってよかった。

 危機管理において最も危ういのは、誰がいつジャッジするかもわからないまま何らかの発表をしなければならない場合だ。何が、なぜ起こり、再発防止のため何がなされるかも知らないまま、でっち上げじみた空疎な発表しかできなくなる。

 ひどいときは、虚偽に等しい報告を上から押しつけられ、どうしたらぎりぎり噓ではない発表になるか、知恵を絞ることもあるという。

いんぺい体質が常態化した企業のIRほど、やって後悔する仕事はないですよ。メディア対応にしくじって、後から暴露記事を出されるなんて、最悪です。自分まで家族から噓つき呼ばわりされるんですから」

 などと、他社で働いた経験があるメンバーから聞かされたものだ。

 これまた幸いなことに、光弘がそんな目に遭ったためしはなかった。ひとえに、上司の竹中だけでなく、さらに上の経営陣が、端的に言って「まとも」でいてくれるおかげだ。

 少なくとも、今のところは。

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