第3話



 幸いというべきか、画像の大半が、この現場を撮影したものであることを、早々と確認することができた。

 おかげで、無関係な現場であると主張することはできなくなったが、「つぶやき」の内容に根拠がないことは、ほぼ確信された。

 といっても不快な気分は晴れず、むしろ怒りを刺激されっぱなしで、そのせいか喉が渇いて仕方なかった。七つのうち五つを確認したところで、積まれた部材に腰掛け、買っておいた朝食を摂ることにした。地下の広大な穴の中で食べる朝食は、格別なまでに味気ない。買ってそれほど時間が経っていないはずなのに、やたらとパサパサした食感がするサンドイッチをお茶で流し込みながら、自分がしこたまタブレットで撮影した五カ所の画像を見ていった。

 一つ目の『施工ミス』については、杭のことだとわかった。

 支持層未達、すなわち建物を支える地盤が想定よりも深い位置にあり、杭が届かないことが判明したのだ。

 現場の撮影後にタブレットで施工状況を確認したが、その件についてはすでに現場から報告があり、杭先端を支持層に一メートル以上根入れするための追加工事が行われていることがわかった。

 何が施工ミスだ。光弘は「つぶやき」を発信した誰かをののしりたくなった。想定から外れた低リスクの追加工事が必要だったに過ぎないのに。

 だが光弘は、この「つぶやき」に込められた悪意が、想定よりも格段に増したと考えずにはいられなかった。実のところ、今年に入って早々に、上司と経営陣が最も神経を尖らせるようになったキーワードが、「杭」なのである。

 発端は、二〇〇五年に着工された、横浜の分譲マンション「パークシティ」だ。

 二年後に竣工し、それから七年後の二〇一四年、渡り廊下の手すりがずれていることがわかった。

 翌年、すなわち今年二月になって、元請けの建設企業が、建物軀体の調査をしたところ、軀体は健全であるものの、西棟の各階が、二センチも沈下していることが計測された。

 マンションの傾斜が確認されたことから、続いて沈下の原因を探るため、ボーリング調査などを実施した結果、杭の支持層未達が発見されたのだった。

 しかも総数五十二本の杭のうち、実に八本が支持層に達していないか、一メートル以上の根入れ深さに届いておらず、一本はセメントの根固めも不完全だったのである。地中の柱として建物を支えるはずの杭が、土の中でふわふわ浮いていたようなものだ。

 その後の調査で、支持層到達を確認するための電流計データがかいざんされていることが明らかとなった。マンションは全部で四棟あったが、杭の総数四百七十三本のうち、なんと七十本分ものデータが改竄されていたのである。

 この「事件」を重く見た国土交通省が、その他の建造物でデータの改竄がなかったか調査を命じたことで、さらに波紋が広がることとなった。

 調査を任された企業が請け負っただけでも、杭工事三千件余のうち、一割以上の三百六十件で改竄が認められたのだ。

 全国規模で不信感が広がるのは当然で、コンクリート既製杭を扱う業界全体に疑いの目が向けられた。なお悪いことに、大手企業でも次々に改竄が発覚したため、どこまでも疑わねばならなくなったのである。

 IR部員としてはせんりつものの事態だ。調査対象は、年内にも全国二万件に及ぶと予想され、今では「杭」すなわち「改竄の疑い」と多くの関係者が連想するほどだった。

 当然、渋谷の再開発事業においても、あらゆる杭が厳しい監視の対象となっている。それ以外にもデータの改竄がないか二重三重のチェックが行われるようになった。そのせいで工期がじわじわ遅れる場合もあり、ボディブローのように工事の負担となっている。

 つまり、この「つぶやき」からは、業界の事情に詳しい者が、的確なやり方で、この現場に疑惑をなすりつけようとしていることが窺えるのだ。

 根拠のない疑惑を。

 光弘は、そう確信していた。

『いるだけで病気になる』

 この「つぶやき」の画像は、地下二階の作業場の一角を撮影したものだったが、その現場のどこにも問題は見当たらなかった。

『有害なものが出てる』

 同じ地下二階の作業場、東側の壁際だ。有毒ガスの検知システムは正常に機能しているし、下水の臭気が多少感じられるだけだった。

 臭気は、下水として定められた暗渠の移設工事のせいでもあれば、増水時に雨水を流し込む、広大な貯水槽を駅前東口の地下に設けているせいでもある。

『火が出たあとの壁』

『ここでも火が出た』

 これらはそれぞれ、その貯水槽に隣接する基礎空間の一角だ。壁際に置かれた照明機器と、発電機から引かれた電力ケーブルの接続部が、極端な乾燥による静電気で一部ショートしたことによる、小さなボヤに過ぎなかった。

 地下空間で金属が焦げる臭いが充満したのは不快な経験だったろうが、光弘がタブレットでフラッシュ撮影をした限り、何の変哲もないコンクリートの壁だった。よく見れば焦げ痕のようなものがある気もするが、その程度の汚れを気にするほうがおかしい。

 ただ、それらの「つぶやき」からは、「杭」とはまた違った業界の問題をも利用し、この工事に悪影響を及ぼそうとしている意図が感じられた。

 その問題とは、すなわち「人手不足」だ。

 ただの売り手市場というのではない。とてつもなく深刻な不足である。

 少子高齢化の影響に加えて、熟練労働者たちの技術を受け継ぐべき若い世代が、建設業に魅力を感じなくなっているらしい。元請けでも下請けでも状況は同じだった。多数の外国人を働き手として迎え入れなくては、全国の工事がままならなくなると言われている。

 さらにこの問題に拍車をかけたのが、二〇一三年に開催決定がアナウンスされた、二〇二〇年の東京オリンピックである。

 インバウンドによる活況が見込めるのはめでたいことだが、当然、オリンピック関連の様々な建設工事が発生することになる。「人手不足」にとてつもなく拍車がかかるわけだ。

 また、これも本来良いことなのだが、今年は全国的に、建設業の再起の年だった。右肩下がりだった大手ゼネコンの業績がにわかに好調となり、六月現在、早くも前年度に比べ利益額がぐっと伸びたのだ。

 東日本大震災後の復興特需のおかげだし、各地の再開発事業が軌道に乗ったからでもある。衰えがちだった建設投資が復活しようとしているとき、せっかくの好況に水を差すのみならず、構造的に抑え込んでしまいかねないのが、「人手不足」の恐ろしさだ。

 働き手が足らないせいで、全国各地の工事が一斉に滞るということは、どの現場でもコストが利益を上回り、業界全体が一気に衰亡に傾くということを意味する。

 だが今、渋谷駅の再開発事業は、シマオカ・グループや大手建設企業など関係各社、そして地域の地主たちにとって、決して退くことのできないものとなっていた。

「このままでは、渋谷が通過駅になる」

 そんな危機感が、利害が錯綜しがちな人々を一つにまとめ、前代未聞とさえいわれる超長期・大規模再開発を実現したといっていい。

 利用客の高齢化が目立ってきたところへ、直通路線の開発が実現し、横浜駅といけぶくろ駅の間を一時間もかからず行き来できるようになったのが、その遠因である。

 渋谷駅が通過点に過ぎないとみなされれば、駅周辺の景気が冷え込むことは自明だ。

 実際、その傾向は、駅ビル直結型デパートの売り上げにもろに表れた。棚には地元の高齢者向けの商品ばかり並び、かつて頻繁に訪れてくれた家族客は、めっきり減少した。

 客層も年々、たちの悪いものになっている。ハロウィン・イベントやFIFAワールドカップの中継などでは、大騒ぎだけが目当ての者たちが集まるようになってしまった。警察の出動にもかかわらず、地元商店のシャッターや看板が破壊され、街路はゴミだらけにされる。

「あんなのは客じゃない。暴徒だ」

 商店街からそんな怒りの声が出るような有様では、流行の発信地などとはとても言えず、街全体がじわじわと訴求力を失う一方だった。

 そのような危機的状況への理解を共有し、地域一丸となって起死回生をはかる。それが渋谷駅の再開発事業における最大の動機だ。

 それなのに、受注件数の増加という本来喜ばしい状況で、限られた労働者の取り合いが激化した結果、どの現場も人手不足が慢性化してしまった。

 労働環境が悪い現場からは、優良な人員がどんどんいなくなる。いや、実際に問題がなくとも、悪い噂が広まるだけで働き手が来なくなる。

 やはり、業界をよく知る者が、この工事現場へのサボタージュを意図しているのだろうか?

 そうなるとライバル企業による妨害や、下請けの怨恨、自社グループ内の派閥抗争といったことまで視野に入れざるをえなくなる。それこそIR部員としては、ぞっとしない。いつ背後から不意打ちを食らい、足をすくわれるかわからない事件になる。

 とても一人の手に負えるものじゃない。光弘はそう考えることで、重苦しい気分にとらわれないようにした。だからチームで働くんだ。一人一人が適切に力を発揮することが大事だし、巧みにそうさせてくれる上司もいる。

 さっさと残り二つの場所を特定しよう。本来の仕事はそれからだ。光弘はサンドイッチの包装紙をポリ袋に入れて丸め、肩掛けした鞄に放り込んだ。

 それにしてもパサついていたな。ペットボトルのお茶を口にしながら光弘は思った。これまでで最も食べた気にならない朝食だ。まったくなんの味も感じないなんて。

 ペットボトルを鞄にしまおうとしたが、やけに喉が渇くのでさらに一口、また一口と飲んだ。見ればもう三分の一も残っていない。大雨の日だってのに。地下で喉をからからにしているなんて皮肉なもんだ。

 工事中ではないと思って防塵マスクを借りて来なかったせいかもしれない。せめて市販のマスクを買っておけばよかった。そんなことを考えるうち、ペットボトルの中身をすっかり飲みきってしまっていた。

 やれやれ。早く終わらせないと干涸らびそうだ。

 空のペットボトルを鞄に入れた。現場にゴミを残すわけにはいかない。しっかり軍手をはめ直して、タブレットを手に立ち上がった。

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