赤いベンツ

増田朋美

赤いベンツ

秋が深まり、日毎に日が落ちるのが早くなってきた。のであるが、まだ日中は暑く、30度を超える日もよくあった。そうなってしまうと、真夏に比べても回数は減るのであるが、ときにこういうことが起きてしまうのである。

その日、杉ちゃんとジョチさんの二人は、二人揃って、ショッピングモールに買い物に行ったのであるが、買い物をし終えて、バス乗り場でバスを待っていたときのことである。

「おい、何か子供の泣き声がしない?」

と、杉ちゃんが行った。

「そうですか?」

と、ジョチさんもよく耳をすませて聞いてみると、近くに駐車してある赤いベンツの中から聞こえてくるようである。二人は、急いで、その車の近くに行ってみた。すると、赤いベンツの後部座席から、まだ一歳にもなっていないか、それとも、ようやくお誕生を迎えたくらいの赤ちゃんが泣いているのが見えた。車の窓は、閉め切ったままで、多分、車というのは、エンジンを切れば、自動で鍵がかかってしまうものだから、多分、鍵を持った人でなければ、開けることはできないはずだ。それに、赤ちゃんだから、助けてということもできないだろうし、中から開けることも知らないはずだ。

「そういうことなら、こうするしかないだろう。全く、親として自覚がなさすぎるやつが多いってことだな!」

杉ちゃんは、肘で後部座席の窓ガラスを叩き割り、そのまま泣いている赤ちゃんを、そこから引っ張り出した。赤ちゃんのからだはとても熱かった。つまり、長らく車内で放置されたままだったのだろう。杉ちゃんが、赤ちゃんを抱っこして暑かったなあ、なんて言っている間に、

「ちょっと!何をするんですか!うちの車の窓ガラスをこんなことにして、どう責任とってくれるんですかね!」

と、どこか女優にでもなれそうな美人な女性が杉ちゃんたちに声をかけてきた。

「責任なんて、どうでもいいよ!それより、この赤ちゃん、このまま放置していたら、死んでいたかもしれないぞ。だから、助けてやったんじゃないか。文句言うんだったら、こっちのセリフだ!」

と、杉ちゃんが女性に言い返した。

「そうですよ。だから戻ってきたんじゃありませんか。戻ってきたんだからいいでしょう?」

と、いう女性に対して、

「だったら、五分早く戻ってこいよ!この赤ちゃんだって、死ぬかもしれなかったんだぞ!」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。

「それよりも、車の修理代を払ってもらうほうが先なんじゃありませんか!この先私、割れた窓ガラスの車で帰れというのですか?」

「バーカ!それより、この赤ちゃんを病院に連れいてくほうが先じゃないか!車よりもっと大事なもんをお前さんはなくすところだったんだぞ!」

「ふたりとも落ち着いて!」

と、ジョチさんは、杉ちゃんと女性の間に入って、二人の話を止めた。

「損害賠償とか、そういう事は、後で弁護士をよこしますから、それよりも、赤ちゃんを病院につれていくほうが、先という杉ちゃんの意見に従うべきです。それは、親であれば、当然のことです!」

「でも、この車だって、何年も我慢して、大金を出してやっと買ったのに。」

「だからあ、車の事なんかどうでもいいんだよ。車なんてまた買い直せばいいだろう?でも、赤ちゃんというものは、二度買い直すことはできないぞ。それはちゃんとわかっているのかい?」

母親と杉ちゃんは、そういう事をまだ言い合っている。

「僕は、子供を持った事はありませんが、大事なものであると言う事は理解できますよ。それともあなた、子供さんは、ほしくなかったのでしょうか?」

ジョチさんは、この女性の態度に呆れてしまった。

「お前さんは、容姿もきれいで、ベンツなんて高級車に乗っているくらいだからさ、結構金持ちだと思うんだけどさ。母親としての自覚はちょっと足りないみたいだな。それは、これから、赤ちゃん育てるのに、必要何じゃないの?今回のことで、もうちょっと、自覚してくれ。」

「杉ちゃん、もういわなくて結構です。それより、この赤ちゃんを病院につれていきましょう。その結果を聞かせたほうが、お母さんも気がついてくれるというものです。車の損傷のことは、小久保さんか誰かにお願いして、それよりも、赤ちゃんと、杉ちゃんの怪我をなおしてもらわなきゃ。」

とジョチさんはリーダーらしく、二人の動きを止めた。杉ちゃんの黒大島の着物は、先程のガラスを叩き割ったせいで、肩が破れていた。赤ちゃんの方は、泣き止んではいたのだが、暑さのせいで疲れ切ってしまったのか、ぐったりしてしまっている。ジョチさんは、急いで救急車を呼んで、杉ちゃんと赤ちゃんの二人を、病院に連れて行ってもらうように頼んだ。

「しっかし、そんな大怪我して、あの女性と口論するなんて、杉ちゃんもかなり強いですね。」

と、ジョチさんは、病院で医者に、腕に包帯をしてもらっている杉ちゃんを見て、大きなため息を付いた。

「いやあ、悪いのは、みんなあの女性が悪いんだ。赤いベンツに乗っておきながら、子供を車内に放置するなんて、たちが悪すぎるよ!」

「まあそうですけど、なにかやむを得ない事情があったのかもしれないですね。」

杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんは、彼に言った。

「まあでも、医者に叱ってもらえば、また変わってくるんじゃないかな。」

杉ちゃんたちは、そう言っている間、あの母親は、小児科の診察室で、文字通り医者に叱られていた。

「全く!買い忘れがあって、買い物が長引いたということはわかりますがね、赤ちゃんのからだは、体温調整が苦手であるということはご存じなかったんですか。あの車椅子の方が助け出してくれなければ、間違いなく死亡していたところでした。そのようなことが起こるというくらい、ちゃんと考えてから、買い物に行ってください!」

「はい。申し訳ありません。」

そういう母親は、申し訳ないというのに、顔は申し訳ないという顔をしていなかった。

「だから、それじゃ行けないんですよ。お母さんなんですから、こういうことが起こるということをちゃんと予測して、それから買い物に行く様にしてもらわないと。」

「申し訳ありません。ただ、子供が寝ていましたし、ただ食品を買いに行くだけだから、良かったと思っただけなのに。」

「そういうちょっとしたミスが、大きな傷跡を残すことだってありえないことじゃないんです。もうちょっと、お母さんとして、自覚をしていただかなければ。赤ちゃん一人の命というのは、ベンツ一台のことより、もっと重いんですよ。」

そういう女医に、母親は、何か信じられないという顔をした。女医は、赤ちゃんの熱中症の治療を行うための、ここに署名をしてくれと求め、彼女は、小野真苗と書き込んだ。赤ちゃんの名前は、小野輝政という。名前だけであったら、なんともかっこいい名前であろうが、それと合致しないほど、放置されているのではないかと思ってしまうほどだ。

「じゃあ、このあと、弁護士の先生と話をしますから、待合室でお待ち下さい。輝政君の方は、様子を見るために二三日、こちらでお預かりさせていただきます。」

と、女医は、真苗さんを叱りつけ、待合室へ行くように言った。待合室では、杉ちゃんが腕に包帯をしてもらって、待っていたが、真苗さんは杉ちゃんの事を見向きもしなかった。

その後は、弁護士の小久保さんがやってきて、損害賠償のこととか、車の修理代のこととか、そういう事を話したのであるが、結局の所、真苗さんがすべて悪いということになってしまった。まあ、客観的に見たらそういうことになるだろう。でも、愛永はなぜか、自分が悪いことをしたと思うことができなかった。確かに、赤ちゃんを車内に放置した事は、もしかしたら罪になるくらい悪いことかもしれないし、それを助けようとした杉ちゃんがなにか悪事をしたようなこともない。小久保さんやジョチさんが、法律の話をしていても、真苗さんには、何がなんだかわからない話でもあった。

「じゃあ、小野真苗さん、それでは、こちらにご署名をお願いします。」

小久保さんに促されて、真苗さんはそこにサインをした。こうなると、赤いベンツの修理代は、自分で支払いをしなければいけないことになる。

「それは仕方ないんですよ。お母さんなんですから、そういうミスはしてはいけないということですからね。」

と、ジョチさんが言って、真苗さんは嫌そうな顔をした。まだ、自分が、悪いことをしたというか、そういう事をしたのだと思えなかったのだ。

「母親って、そうやって、間違いはしてはいけないものなのでしょうか?」

思わずつぶやくと、

「当たり前だ!子供が居るんだから、赤いベンツよりも大事なものがあると思わなきゃだめ!」

と、杉ちゃんにいわれて、それ以上いえなかった。

とりあえず、輝政くんの方は、様子を見るために、病院に居ることになったので、その日、真苗さんは、一人で家に帰ることになった。全く、ベンツは壊されてしまうし、損害賠償のこととか、そういう事をいわれるし、私は一体何をしているのだろうと思ってしまった位だ。自宅マンションに帰って、窓ガラスが割られたベンツを駐車場に止めた。マンションは、たしかに普通の人が住むようなマンションではなかった。確かに金持ちで無いと住めないマンションではあった。しかし、隣の家の人達が、とにかく羨ましいと思ったことは今まで何度もあった。隣の人たちは、サラリーマンの夫と、べつの会社に勤めている妻、そして、二人の子供で暮らしているが、日曜日には、みんなで遊園地のような場所に出かけて居るのを時々目撃したものである。自分はどうなのだろう。月に30万近くの家賃を払って、そして、赤いベンツに乗ることは成功したが、それ以外の事には全く手が出ない。でも、それをしなければならないから、自分はそれを続けている。子供ができたのだから、別のマンションに引っ越して、子供のためにお金を使わないのかといわれてしまうことも、あるかもしれないが、そんな事はしたくない。私はそれより、贅沢な暮らしがしたい。そのために、今まで、ホステスやったり、売春したりして来たんだから。

それにしても、今回、あの子を抹殺するためにああしただけなのに、あの変な二人組みに邪魔されて、それに、大金まで払わされる羽目になって、余計に損をした事になった。それは、本当に悔しかった。それでは、なんだか、贅沢な暮らしに傷がついたということになってしまう。

何もする気がなく、ぼんやりしていると、インターフォンがなった。

「おーい、小野さんだったっけ。なにか忘れてはいないかな?」

聞こえてきたのは、杉ちゃんの声だ。また、あの男が追いかけてきたのかと、思った。それに、彼らに、自分の暮らしを見られてしまったらどうするんだろう?

「ほら!この帽子だよ!病院に忘れてったじゃないかよ!」

とでかい声でそう言っている声がする。真苗さんは、急いで立ち上がり、玄関先へ行って、玄関を開けた。

「おう!結構良いマンションに住んでいるじゃないか。上がらせてもらうぜ、お前さんが忘れていった帽子はこれだ。はい、麦わら帽子。」

と、杉ちゃんが帽子を差し出した。確かに、それは自分のものであった。だって、ちゃんと、帽子の裏に名前が買いてあったし、丁寧に住所も買いてあるのだ。何故か、子供の頃から、身についている習慣でもあった。杉ちゃんたちはそれから、住所を嗅ぎつけて、ここへ来たんだと言うことがわかる。

「とりあえずどうぞ。」

と、杉ちゃんとジョチさんを、部屋の中へ入れた。

「はあ、結構いいものを持っていらっしゃるんですね。僕、アンティークの知識はあるので、なんとなくここにある家具はどこのものかわかりますよ。多分、このテーブルはイタリア製。そして、このソファーが、デンマーク製ですか。このデザインは一時期、とても流行りましたので、なんとなく知っています。」

と、ジョチさんは部屋の中をぐるりと見渡して、そんな事を言った。確かに家財道具は、みんな外国製のすごいものであるのだが、

「なにか足りないですね、忘れてはいませんか?」

とジョチさんがいうほど、なにか忘れていた。

「本当なら、この外国製の家財道具を質屋とかに売るとかしてさ、赤ちゃんの道具にしてあげればいいのに。」

杉ちゃんがでかい声で言ったので、真実は直ぐにわかってしまった。赤ちゃんの道具がなにもない。ベビーベッドとか、ゆりかごとか、そういうものがないのである。

「外国製の家財道具は、また赤ちゃんがおとなになってから、いくらでも買えるよ。でも、輝政くんには、おおっきな傷を残すことになるでしょうけど。赤いベンツに、外国製の家財道具。こんないらないものにこだわるよりも、輝政くんに服かってあげるとか、そういう事すればいいのに。」

杉ちゃんの言葉は、まるでいわれたくない言葉をいわれているようであった。そんな事、私ができることかとおもっているのか!そんな事するんだったら、輝政をもらってよ、位は、言いたかったけど、杉ちゃんの言い方が乱暴なため、反論はできなかった。

「父親はどこに居るんですか?もしいてくれたら、あなたの浪費グセをとめてくれるかもしれない。」

と、ジョチさんが彼女にそっと尋ねる。

「父親なんて、そんなもの最初からいないわよ!」

彼女は、小さな声で言った。

「いないってことは、亡くなってしまったのか?母親一匹で子供ができるわけないよなあ?」

と、杉ちゃんがそれに突っ込むと、

「いえ、きっとどっかで生きてると思います。それに、名前も何も知らないし。」

と、泣きながらいう彼女に、

「はあ、つまりお前さんが、遊郭の中で作った子と言うわけか。まあ、今も昔もよくある話だ。女の子だったら、禿として、見習い女郎になっちまうんだろうがな。輝政くんは、そうは行かないわな。」

と、杉ちゃんはわざと言った。江戸時代の事を持ち出してもだめですよ、とジョチさんは、杉ちゃんに言った。

「まあ確かに、それはそうなんだろうけど、お前さんは、女郎をやってて、こんなイタリア製やら、デンマーク製の家具を買って、見栄えはいいけど中身のない生活をして、何か虚しくないのかい?それで、輝政くんの事を育てようとか、思わなかったのか?」

杉ちゃんにいわれて、彼女は口を継ぐんだ。

「せめてさ、女郎はやめて、輝政くんの事を、なんとかするためにさ、まともな仕事につこうとか、そういう事を思わなかったのかよ。」

と、杉ちゃんにいわれた真苗さんは、もう話をしなければだめだと思った。杉ちゃんにいわれたことは、間違いではなかった。もしかして、保育士とかそういう人がいたら、警察に通報するとか、そういう事をされてしまったのではないかとも予想されたのである。だから、医師とか、福祉関係の人は嫌いだった。自分の事は顧みないで、そういう偉そうなセリフを言う。

「だって私、自分の将来は、水商売か、売春婦しかないと思っていましたから。私の母親もナイトクラブを経営していました。それを見て私育ってましたから、それしかないと、思ってたんです。」

と、彼女は、杉ちゃんにいわれて、小さな声でそう答えたのであった。

「はあなるほど、お前さんも禿か。」

と、杉ちゃんは言った。

「だけどね、輝政くんは、男なんだよ。昔だったら、男芸者、幇間にするとか、そういう道のりがあったかもしれないね。女であれば、禿として、お前さんの付き人にしちまう事もできただろう。まあ、今はそうは行かないよ。だから、男の子が生まれたから、消しちまえってことで、お前さんは赤いベンツの中に、輝政くんを、放置した。違うか?」

「私、、、。」

「だから何!」

杉ちゃんにきつくいわれて、彼女は話すこともできなくなってしまったようだ。彼女は、涙をぽつんとこぼして泣きはらした。

「禿は、いつまで経っても禿のままだと言うことは、文献にも書いてありました。でも、それじゃ行けないんです。今の時代は、そんな便利なシステムはありませんから。」

ジョチさんにいわれて、彼女はそれでも、涙をこぼしていた。

「でも、輝政くんも、一人の人間なんですよ。それは、おわかりいただけますでしょうか?そして、今は、女郎という職業であっても、人間を育てなければなりません。ある意味、難しい時代かもしれないですけど、彼を育てて、行かなくちゃいけないということは、変わらないんです。」

「難しいけど、お前さんが育てているのは、禿でも幇間でもないんだぜ。それは、わかって貰えないかな?」

杉ちゃんにいわれて、彼女は、また泣き出した。

「もし、お前さんが禿から脱出しきれないんだったら、お前さんが育てられたときのこととか、聞いてくれるやつを知っているから、そういうやつを紹介してやってもいいぜ。」

と、杉ちゃんがいうと、彼女は、そんな人、と言おうと思ったが、

「いえ、今の時代は、専門家に聞いてもらわないと、解決できない問題を抱えている人は大勢います。あなたのような人が、偉いカウンセリングの先生のもとを訪れるのは、珍しいことではありません。それに、そうしないと、輝政くんに、悪い影響が出てしまう可能性がありますから、そういう方を頼ったほうが良いのではありませんか?」

と、ジョチさんにいわれてまた黙ってしまった。

「まあ確かにね。女郎をやってきたとなると、人間の嫌な事もたくさん見ているだろうから、偉いやつを信じ切れないかもしれないけど、もうお前さんは、そういう身分ではないと言うことは、今回のことでわかってもらえたんじゃないのかな?」

と、杉ちゃんは、できるだけ優しく言った。

「僕だって、輝政くんを助け出した時、一応腕に怪我をしたわけだからさ。決して得はしていないよな、ははははは。」

「そうですね。まあなんでも犠牲はつきものだというわけで。」

わざと明るく言う二人に、真苗さんは二人の言うとおりにしてみようと思った。もちろん、女郎の仕事を辞めるという考えは湧いてこなかったが、ここまで自分に関わってくれたやつも、また珍しい。そうなってくれるのだったら、二人に従ってみようと思った。

ガラスの割れた赤いベンツは、月明かりの下、駐車場に止まっていた。








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赤いベンツ 増田朋美 @masubuchi4996

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