宛先のない「ありがとう」
紗水あうら
*
容体急変の報告は、すでに私が床に就いた後の深夜に届いた。
当初はいたずらか何かかと思い、何度もこっ酷くかかって来る受信依頼を無視し続けていたのだが、さすがに業を煮やした私が寝床から起き上がり、コンソールを開いたその向こうには、いつもの部下の係員がいた。
「深夜勤務ご苦労、いったい何事かね」
実のところ、そんなことは言わずとも私にはわかっていた。昼夜問わず監視され続けていたあの個体に、ついに最期のときが訪れようとしていたのであろうことは。
「〝ロンサム・メアリー〟の生命兆候が急激に低下しています。他の研究員の皆様にも非常呼集をお掛けしました、主任教授も――」
「わかった。可及的速やかに、そちらに向かおう」
「――お願いします」
……やれやれ、ついに来たか。
〝ロンサム・メアリー〟と名付けられた雌の生物個体は、文字通り独りぼっちのメアリーであった。もっとも、メアリーと言う名が本来彼女に与えられた名ではなく、我々の中における研究対象としての呼称に過ぎない。
彼女は確かに孤独だった。そのことは一点の揺るぎもなく、彼女の生物としての死は同時に、種の完全なる絶滅を意味していた。
かつてピンタゾウガメと呼ばれたリクガメの、最後の生き残りだった雄の個体に「ロンサム・ジョージ」と名付けたことに由来する、仮初めの名前であった。
その〝ロンサム・メアリー〟は、もうすぐ息絶えんとしている。
我々にできることはすべて行った。作為的なクローン培養や延命治療など、あらゆる手を尽くして〝ロンサム・メアリー〟から種の復活を試みたが、そのすべては一つも功を奏さなかった。寧ろなにもしなかったほうが、彼女のためには良かったのかも知れないと思わせるほどに。
いつかこのような日が来るのだと言うことは、誰もが感じていただろう。だが、結果的に私たちは種の保全に失敗したのだと言う、科学的な敗北感を拭い去ることもできない。
ただ漠然と彼女を生物学的に生かし続けることはできても、それが彼女のQOLを高めることには繋がらないからだ。
少し感傷的になっていた頃、自動運転のハイヤーは無感情に、私を正確に研究所に送り届けてくれていた。
…………
「ご苦労、どうかね」
ラボの観測室の扉を開くと、中には既にチーム全員が揃っていた。一番のんびりしていたのが主任教授たる私であることは、
「血圧、呼吸、心拍いずれも落ちています。すでに自発呼吸は停止していて、外部呼吸器を使用しています」
観測班長からの報告はとても良くまとまっている。だがその分、味気がないと言うよりは無味乾燥とし過ぎている。
「そうか。いよいよ、お別れの時か」
「この生命兆候の下がり具合で考えると、恐らくは。それでも、メアリーは良く生きたと思いたいですがね」
ああ、確かに君の言う通りだと観測班長。だが、それが本当に〝ロンサム・メアリー〟が望んでいることかどうかは、彼女に訊かなければわかるまい。更に言えば、すでに最期の時を迎えようとしている現時点に於いて、〝ロンサム・メアリー〟は意識も途絶えているだろう。
彼女が本来愛した同種たちではなく、私たちにガラス越しで最期を看取られることが、本当に彼女にとって幸せなことなのか。その答えを聞く機会はもう失われてしまった。
「四十年、か……」
彼女が発見され、この研究所に移送されて来てから経過した月日を数えて、私は感慨に耽っていた。保護と言う名目で捕獲され、擬似的な自然環境を模して作られた飼育環境に入れられた彼女は、生育歴のほとんどをこの研究所で過ごしてきた。
同種の仲間もなく、飼育担当の用意した給餌を摂り、時にはあらゆる実験目的で彼女を眠らせたり、細胞片を採取したりもした。だが誓って言おう、私たちは決して〝ロンサム・メアリー〟を虐待したいわけではなかった。生物種としての彼女たちを救わんがための行為だったのだ。
それが単なる自己正当化のためのエクスキューズだと指弾されようとも、私は研究者としてその意志を曲げるつもりはなかった。
「……だが、もう良い頃合いなのかも知れん。〝ロンサム・メアリー〟は良く生きた。苦しいことにも、寂しいことにも耐えてくれた」
ガラスの向こうは無菌室であり、入室することは容易ではない。だから私たちは、まるで動物園の飼育動物を見るように、ストレッチャーの上で眠っている彼女を遠巻きに見ることしかできない。そんな彼女の横顔に、特有の表情は窺えなかった。
…………
およそ六十年前、国際科学技術機構の主導で組織された「国際生物環境研究所」は、地球上のあらゆる生物の生息数や動態調査を行っている。
基本的には生態系の健全なる保存を目的としている組織だが、その影で秘密裡に行われているのが「絶滅確認」である。
地球上のあらゆる生物は、我々の知らない亜種や全くの新種が存在することもあるだろうし、同時に存在したことも知らぬままに絶滅していた種も存在しただろう。そうした数多有る生物種の中でも、既知でありかつ長年個体確認が為されなかった生物種に対して暫定的に「絶滅」として扱うことになっている。
だが、時として一度絶滅したと思われていた種の個体が、偶然発見されることもある。
そこで国際生物環境研究所では絶滅したと判断された種について継続で実地調査を行い、定期的に「絶滅確認」を実施していた。
もし新たに生存が確認された個体については継続的に現地にて調査を行い、その個体数や繁殖実態などについて観測を続けることとなっている。
しかし場合によってはその個体が少数でのみ確認されるため群そのものが小さく、繁殖などを行えない「野生絶滅」の状態で発見される場合が有った。
これらの種は放置しておけば確実に「絶滅」に至るため、個体を安全な場所において保護されると同時に、更なる別の生息群の調査や、それが不可能であれば何らかの繁殖措置により、種の寿命を延命させるための研究が必要とされていた。
無論そういった個体例は限られており、そう多くの事例を持たないが、その稀な例外こそが〝ロンサム・メアリー〟だった。
彼女が発見されたのは、すでに生物相自体が植物と昆虫類で占められており、この領域には動物を発見することは有り得ないだろうと思われていたジャングルの中だった。
発見当時から周囲に同種の個体の存在は認められず、生後何年かして親の個体を失ってから、彼女はたった一人でジャングルの中を生き続けたと想定されている。
生体確認班は直ちに、彼女の行動範囲を識別するマーカーを撃ち込むために、残酷ではあるが遠方より麻酔銃によって狙撃し、その活動範囲から観測を開始した。だが、そこには驚くような発見が有ったわけではなく、概ね過去の記録通りの結果を焼き直しているだけに過ぎなかったし、同様の個体が発見されることを期待されていたが、これもまた裏切られた。
生態観測そのものに対して大義を見出すことができないこと、この個体が最後の個体であることが確実になったことから、国際生物環境研究所はこの個体を「回収」し、研究所の中で飼育することを決定した。
その際に付けられた異名こそが、〝ロンサム・メアリー〟だったのである。
「ずいぶんと、皮肉なものだな――」
私はガラス越しの無菌室に横たわる〝ロンサム・メアリー〟を見ながら、言葉を漏らした。
「――ヒトがゴリラに、最期を看取られるとは」
私の呟きに答える声は一つもなかった。
規則的な外部呼吸器の音と、計測器が発する認識音のみが、〝ホモ・サピエンス〟、すなわち人間の最期を看取る早めの鎮魂歌のように、無機質に流れ続けていた。
…………
事の起こりは、かつての人類史上に於ける二十一世紀末に勃発した第三次世界大戦である。
国家間の緊張状態が世界的な高まりを見せた二十一世紀の中では、ほんの小さな切掛がいつ全体戦争になるかわからず、もし世界戦争となるのであれば、それはヒトどころか地球上すべての生物を焼き尽くす絶滅戦の様相を呈する――そう予測されていた第三次大戦は、多くの犠牲を払いはしたものの、無差別爆撃や核兵器による絶滅戦には至らなかった。
だが、実際には少数ながら核兵器は使用された。そのことが、地球の生態系を大きく揺るがすこととなる。それは、ヒトの言うところのソマリア南部で炸裂した核弾頭が地表に放った放射線によって、ある種のウイルスが突然変異を起こす。かつて人類は、このウイルスが引き起こす疾病の名称から「エボラ出血熱ウイルス」と呼んでいた。
エボラ出血熱はヒトだけでなく我々ゴリラにも感染し、その致死性は当時の生物の中で唯一、現代医学と言う手段を持っていたヒトでさえも駆逐しかねないウイルスであった。ゆえに現代医学と言う手段は疎か、文明と呼べるほどの高度な社会性を有しなかった、我々の先史に当たるゴリラは、それ以前の乱獲や自然環境の変化などにより絶滅の危機に瀕していた。
しかし核兵器の放射線によって突然変異を起こしたエボラ出血熱ウイルスは、まるで寄生虫の如く先史ゴリラを中間宿主とし、戦後になり彼らの保護目的で活動していたヒトに感染を開始した。
そのことに、彼らがようやく気が付いたときには、すでに第三次大戦を生き延びた人類の七十五パーセントに匹敵する感染者が存在した。
或る日突然高熱を発し、体中から出血を起こして死に至る「新エボラ出血熱」は、それまでに開発されていたプライマリードラッグによる効果を受けず、なぜかヒトでのみ発症することが確認されていた。また感染力は旧エボラ出血熱と単純に比すことさえ不可能なほどに強固で、増殖力もまた驚異的な量と速度で地球上を文字通り支配下に置いてしまったのである。
しかもこの「新エボラ出血熱」が及ぼした効果は、ヒトの駆逐だけではなかった。先史ゴリラは新エボラ出血熱を先天的に感染した状態で生まれてくる個体から、次々と驚異的な進化を遂げた突然変異を先史ゴリラの体に生じせさしめていた。
「新エボラ出血熱」の中間宿主が先史ゴリラであることが判明するまでに、そう時間は要されなかった。この事態にヒトは、先史ゴリラの保護政策を打ち切り、絶滅へとその矛先を向ける。
中間宿主足り得るゴリラ個体を絶つことこそが、新エボラ出血熱の撲滅の足がかりであると信じて止まなかったヒトは、先史ゴリラたちの生息地域に向かって核兵器を使用することを決意した。
しかし、この核兵器はついに、発射されることはなかった。国際社会の団結よりも、為政者による核の発射ボタンが押されることよりも速く、ヒトは次々に斃れていく。
いつしか、なぜかヒトでしか発症しないこの新型ウイルスのことを、ヒト共は〝神罰〟と呼んだ。地上の支配種であったホモ・サピエンスは、結果的に第三次世界大戦で絶滅することになったと言えるだろう。
世界中でヒトたちの文明は崩壊し、もはやかつての支配種としての要件をヒトが満たせなくなっていくと同時に、先史ゴリラから突然変異的に進化を遂げた「新ゴリラ」が、ヒトに代わって地球の支配種となるのに、そう時間は掛からなかった。
なぜなら「新ゴリラ」は、驚異的なその知能の発達によってヒト並みの脳容積を持ち、緩やかにではあるが二足歩行へ移行することで、地球上の新たなヒトとなるかの如き進化を遂げたからである。
―― ※ ――
ヒトがかつて「新エボラ出血熱ウイルス」を〝神罰〟と呼称したように、我らもまた、この驚異的な進化をゴリラに齎したこのウイルスを〝神の贈り物〟と呼んだ。ソマリアで炸裂した一発の核弾頭は、直截的にはヒトを三十万人ほど殺戮しただけに留まっていたが、その痕跡は「新エボラ」と言う宿痾となって、世界中に蔓延したことは事実である。
ただ、それが真に〝神罰〟であり〝神の贈り物〟であったか、そのことの科学的な根拠はこんにちに於いても存在せず、また未来に於いても発見されることはないだろう。
元来我々ゴリラは熱帯に生息する生物であったが、代を重ねるごとに知能が進化したゴリラたちはやがて気候に耐え得る術を得、ヒト文明の遺跡、つまり単に放棄された人類の文明の元に辿り着いた。爾今百余年、我々は〝神の贈り物〟の正体を掴み、罪深きホモ・サピエンスの救済に向けてその科学力を用いる術を研究するようになる。
やがて、ヒトは滅亡に向かって個体数を著しく損ない、現代のゴリラがヒト文明の遺物より言語、歴史、科学を引き継いだ。確かにヒトたちは愚かであったかもしれない、しかし同時に我々――これ以降の「我々」は現代のゴリラを指す――も、賢き存在足り得る保証はない。
我々はヒトが遺した事実の多くをそのまま受け容れた。ヒトがもはや我々ゴリラの敵ではなく「保護すべき動物」にまでその評価ステージが代わったいま、我々はヒトを模倣するつもりはなかったが、結果としての模倣は避けようもなかった。
我々の生息範囲も広がり、そこには新たな国家の枠組みが出来上がりつつあった。しかし我々は、国家と呼ばれるものがヒト文明の中に於いて争いの種を発芽させる機構であったことを学んでいたため、あくまで地方自治の枠組みとしての国家のみが承認され、ゴリラ社会はその成立からこんにちまで国家間の緊張と言うものに対し、地球に住まう全てのゴリラがこれを緩和することを目指した。
それは、雄々しく気高くも愚かで、最終的に自らの手で絶滅を、意図せずに選択したホモ・サピエンスから学ぶべき教訓であり、元来争いを好まない生物種である我々に固有で存在する概念であったかもしれない。
だからこそ我々は、一度はその牙を向けたヒトでさえ、救済する義務がある。そう考えていた。
打棄されたヒト文明の中から我々は丹念にその軌跡をなぞり、そこからヒト文明との交雑を持たなかった、原始的なヒトの群体が存在することを認識した。彼らこそがヒトと言う生物に残された最後の希望であった。
我々は彼らに誤って〝神罰〟を与えぬよう、我々の体内に常在する〝神の贈り物〟から彼らを保護するために被服と言うものを装備して、残されているであろうヒトの探索を開始した。
後に〝神罰〟には空気感染力があり、文明との交雑を避けていた原始群体に於いても、その影響から逃れ得ぬ可能性が言及されてなお、我々はまた、別の突然変異によるヒトの出現が有ることに期待し、地球上を丹念に探索し続けたのだ。
その結果、南太平洋上に浮かぶ島の奥地で原始的な生活を続けてきた一族と思われる、ヒトの非常に新しい遺体が漂着したことを切っ掛けに、我々はついに〝神罰〟を生き延びたヒトの個体に行き当たった。
その個体が〝ロンサム・メアリー〟だった。
…………
私は新ゴリラ文明の発祥の地に程近いアフリカ大陸の赤道直下、かつての国名で言えば中央アフリカで生まれたが、その頃にはすでにユーラシア大陸やアメリカ大陸などから持ち込まれた文化が根付いており、私は学業の優秀さを認められ、ヨーロッパにある国際医科大学校への入学試験を通過することができた。
そこで医学博士の学位を取得し、教官としての任を受けたのが国際生物環境研究所であった。私は少し困ったのだ。なぜ医学専攻である私が、生物学の研究所に赴任しなければならないのか。いったいそこでどのような専門教育が私にできようと言うのか。
だが、国際医科大学校を卒業したものは、一定期間国際学術機関への出向を任ぜられ、その任地は選ぶことができない。已む無く生まれ育った場所にほど近い、中央アフリカの熱帯雨林近くにある国際生物環境研究所に着任した私は、当時の第三大講座の研究助手として配属され、同時にこの辞令の意味を知った。
第三大講座とは、秘密裡に種としてのヒトの保全を行う講座であり、そこには生物学の知見ばかりではなく、ヒトを生き永らえさせるための医療技術が必要とされていたのである。
しかしながら当然、ゴリラ社会も一枚岩ではなく、かつて先史ゴリラを絶滅に瀕する危機に陥れた主犯格たるヒトを、国際バジェットの中で保護することは間違っていると論ずる政治家も少なくなかった。彼らは前進的絶滅の方策こそ口にしなかったが、本質的にはホモ・サピエンス種の絶滅に何の誤謬もないと考えていた。
だが、彼らは同時に現実を知らなかった。ヒトはもう、絶滅が決定していた。それを私は赴任初日に、当時の主任教授から教えられたときに、雷に打たれたような衝撃を受けたのを、つい最近のことのように覚えている。
私が赴任した当時、まだ〝ロンサム・メアリー〟は推定年齢にして二十歳前後のメスの個体であった。
〝ロンサム・メアリー〟は毛皮で覆われていない皮膚の上に、植物繊維から作ったのであろう粗末な衣服を纏い、まるで先史ゴリラのように自然から食物を得て暮らしていた。その姿には、我々がヒト文明の遺物から学んだ文明の最先鋒と言う姿形を為しておらず、彼女はまさしく「裸のサル」に過ぎなかった。
「主任教授、これが本当にホモ・サピエンスだと仰るのでしょうか?」
赴任当時、すでに飼育環境と言う広大なだけの事実上の檻の中で暮らす〝ロンサム・メアリー〟を見て、私は思ったことをそのままぶつけた。
「信じられないと言う君の気持ちはわかる。文明と言うものから隔絶した生物である以上、〝ロンサム・メアリー〟が大した知性を持たず、まるで我々が先史ゴリラを見たときと同じ感慨を得ることは、想像に難くない。ヒトから見れば、我々もそう見えていた。立場が変われば見方も変わる、ただそれだけのことだよ」
そう言って主任教授は研究室に戻っていき、一人取り残された私はガラスの向こうから〝ロンサム・メアリー〟を見つめていた。きっとそのとき、私は絶望的な顔をしていたと思うが、それもまた〝ロンサム・メアリー〟から見れば、表情の伺い知れないただのゴリラだったことだろう。いや、彼女は果たしてゴリラと言う生物を知っていただろうか。サルの一種であると言う認識はあったかも知れないが。
だが、そんなこととは無関係に、彼女は私の視線を気にすることもなく、調整された飼育環境の中で生育した、大きめの木の実を粗雑に頬張るだけだった。
…………
「バイタルさらに下降。血圧測定不能、チェーンストークス呼吸に入っています!」
今や木の実を頬張ることも、木に登ることも、川で原始的な漁をすることもできなくなった〝ロンサム・メアリー〟は、もはや末期を迎えんとしていた。彼女を初めて見てからもう四十年ほどの月日が流れ、私は当初希望ではなかったはずの生環研で、第三大講座の主任教授になった。
単なる学費代わりのご奉公のつもりであった私を、最後までここに留めておいたのは、間違いなく〝ロンサム・メアリー〟に他ならなかった。
「……死亡確認準備」
〝ロンサム・メアリー〟よ、いや、メアリーよ。結局君は、ガラスの檻の中で一言も言葉を発することがなかった。私たちはヒトがどのような機序で言葉を発声するのかも、確認しておきたかったのだけれど、君は最期まで何も語らずに逝ってしまうのだね。
もしかしたらそれは、私たちゴリラに対する最後の抵抗であったのかもしれない、そう思うと君が愛おしくてたまらなくなる。君の本当の名を、せめて私だけは知りたいと思っていたのだけれど、もうそれも無理なようだね。
そんなセンチメントに過ぎる心の声を、私は押し殺していたのだが、その時不意に〝ロンサム・メアリー〟の呼吸器に覆われた口元が、微かに動いているのを見た。
「……喋っている?」
「死戦期呼吸ですよ、主任教授! そんなことは有り得ません!」
オペレーション主任が即座に私に言い返した。そうだ、確かに彼女にはもう、言葉を発する力は残っていないし、すでに意識も喪失されているだろう。
だが、私には確かに見えた。しかもそれは、彼女が発見された南太平洋の島々で話された言語で、たった一言だけの言葉だったが、私には彼女が何を言いたかったのかがわかっていた。
だがその後、心電図計の音は拍動ではなく、一定音に切り替わった。
「心電図、平滑! 教授!」
「防護服着用、各員は〝ロンサム・メアリー〟の死亡確認を取れ」
研究員がモニタールームから勢い良く飛び出していったのを、私は足音だけで確認していた。彼らに私が何を言えようか。彼らは職務として〝ロンサム・メアリー〟を観測し、その最期を看取ると言う任務に忠実なだけなのだ。
メアリー。どうしてそんな、気持ちにもないことを言うんだ。君はもっと私たちを恨んで構わないんだ。私たちが、ホモ・サピエンスは絶滅したのだとたった一言切り出すだけで、君はその生涯をこんなところで過ごすことにはならなかった。なのに、なぜ君は、最期になって「ありがとう」などと言ったんだ。
四十年近く、私は君を観察し続けてきた。だが、何の一言も語らなかった君を見続けてきた私には、到底信じられない。君の最期の、たった一言の言葉がどうして「ありがとう」なんだ。それは誰に向けられた「ありがとう」なんだ。
目尻からも目頭からも、熱い涙がこぼれて頬をしとどに濡らした。
「――〝ロンサム・メアリー〟、死亡を確認しました」
モニタールームのスピーカーから聴こえる声に、私は何も返すことができなかった。ただ一人モニタールームに取り残された私は、〝神の贈り物〟によって与えられた二足歩行が齎した両手の自由を噛み締めるように、両の手のひらをきつく握り締めた。体全体が、哀しみの震顫を刻み続けていた。
「……承知した。保存準備に入れ」
死してなお、彼女に休息は許されない。これから〝ロンサム・メアリー〟は、長期間に渡って体のあらゆる部位が解剖され、調査研究されていく。彼女が本当に葬られるまでには、まだ長い年月を要するのだ。
やがて彼女を乗せたストレッチャーが観察本室を出て行くと、そこには計測器類と、彼女の死期を徒に延ばしただけの医療機械だけが残されていた。
お別れだ、メアリー。
さようなら、ホモ・サピエンス。
私は君たちの生き様を、後世のゴリラたちに語り続けていくだろう。
孤独ではなく孤高だった、最後のヒトの物語を。
ヒトとは違い、相変わらず毛むくじゃらの手の甲で涙を拭い、誰もいない観察本室に向かって、私はメアリーにお別れの挨拶をした。
だがきっと、彼女にはこう聞こえただろう。
ただ――――「ウホッ」とだけ。
宛先のない「ありがとう」 紗水あうら @samizaura
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