ある男

「不愉快だ。そう漠然と感じたことが始まりだった」

 男はそう吐き捨て、虚ろな目を海に向けた。潮風が二人の間を通り抜けた。男の対面に座る霧谷きりや光弘みつひろは肘を着いて興味なさげに相槌を打つ。スチール製の安っぽいテーブルの上には潮風に運ばれた砂が散らばっている。そのせいで付着した腕の砂をはらいながら男がまた口を開いた。

「おれにとっては不愉快だったし、何より可哀想だと思った」

「可哀想って、だれが?」

が」

 男のパーカーのポケットから血の着いたサバイバルナイフが転げ落ちる。音を立てて落ちたそれを拾い上げたのは光弘の方だった。親指と人差し指でつまむようにして持ち上げ、テーブルへ放った。付着した血はもう乾ききっていた。

「この血って何人分?」

「さあな」

 光弘の目に涙が浮かぶ。風で舞った砂が目に入った、ただそれだけのもので、もう数を数えることさえ諦められた子供たちへの同情ではなかった。



 警視庁捜査一課の柳川やながわ蓉子ようこ刑事は書類を睨みながらあんぱんをぬくるなったお茶で流し込んだ。ここは警視庁の一室で蓉子は都内で起こっている連続殺人事件の捜査をする捜査員の一人だった。

 事件は都内数箇所、それも規則性がほぼ見つからない場所で起こり、被害者数は今日までで六人。殺害現場の規則性はないが被害者はその全てが子供であった。しかし、子供は子供でも下は三歳から上は大学生までとバラつきがあり、男女比は男が四人、女が二人と偏りがあった。被害者同士に接点は無く、無論親同士にも接点は見当たらなかった。殺害方法は市販のサバイバルナイフによる刺殺で、六人中二人は心臓を一突きされ、残りは手元が狂ったのか滅多刺しに近い形で殺されていた。解剖の結果、傷口の形状から被害者たちは同じサバイバルナイフで殺されたことがわかり、時期の偏りからも同一人物による連続殺人事件として捜査を開始した。

 蓉子が特別捜査本部に詰めて二ヶ月の月日が経つ。杳として犯人の目星がつかないことに蓉子に限らず捜査本部に詰めている皆が皆、それぞれに疲弊しイラつきを見せていた。



「可哀想だと思った」

 男は歌うように繰り返す。乾いた血の着いたナイフが風で揺れた。光弘はただ男の言葉に耳を傾ける。全てを話した男をどうやって海に沈めるかを考えているのを悟られないように。

「可哀想だと思ったんだ。全世界に恥を晒される子供が」

「全世界に? それはどうして」

「親は身勝手だからな、子供の事なんか自分の一時的な承認欲求を満たす為の道具としか思っちゃいない」

「だから殺したのか? ?」

「そうだ、おれにはそうするしかなかった。それしか子供を助けるすべをしらなかったんだ」

「なんで親を殺そうと思わなかった」

「おれの力じゃあ大人は殺せねえ、それに親をっちまえば遺された子供が可哀想だろう」

 男が砂を被ったクッキーを摘んで口へ放り込んだ。光弘の耳には聞こえないはずの砂の音がした。

 全てを話したら。そう思い聞き始めたが何まで話して全てとするかを、光弘は決めていなかった。少なくとも男はどうして子供ばかりを殺したのか。という光弘の疑問に答えている。間違っていると断じられる感情に任せて何人もの子供を殺害した。全世界に。という言い回しからしてSNSが絡んでくると見ていいのかもしれない。見知らぬ男に理不尽にも命を奪われることよりも、全世界に醜態をさらされた後も生きていくことのほうが可哀想だとうたう男の、その不可思議な倫理観に基づく話の終点を定めていないことを後悔しならがらも、既に、光弘にはこの男を生かしている理由はないように思えた。否、もう沈めてしまっていいと思った。陽はまだ沈んでいない。



 捜査本部による捜査に進展が見られたのは、捜査本部そのものが畳まれるかの瀬戸際に立っている時だった。最後に殺された被害者の親族が心的ショックから立ち直り、新たな証言をもたらした。曰く「犯人は二十代後半くらいの痩せ型の男だった」と。その証言は捜査本部を湧き立たせるには充分だった。すぐさま似顔絵が作成され、それを元とした捜査が開始された。蓉子もベタついた髪を結び直し、頬を叩き自らを奮い立たせた。



 この男が児童連続殺人の疑いで指名手配の掛かっている男なんじゃないか。と上に言われた際、光弘は少なからず疑いを持っていた。光弘には殺人鬼をお目にかかる機会がなかったからだった。しかし上に言われて接触したところ、男は全てを諦めたかのような目でそれを肯定した。

「お前はまだ生きていくつもりなのか?」

 光弘は自分で無造作に置いたサバイバルナイフに目をやりながら聞く。指名手配されている以上、この男にはあまり多くの逃げ道は残されていない。予め見せられた似顔絵と目の前の男は、同一人物と言われて納得のできる顔だった。

「さあな、決めてない」

 男は投げやりに答えた。光弘はその返答に「そうかなら決めてやる」と言いかけ、口を噤む。そこからコンマ何秒かの間を置き、「そうか」とだけ口にした。陽が沈みそうだった。



 犯人と思われる似顔絵が公開され一ヶ月が経った。蓉子たち捜査員の捜索も虚しく、似た人物の通報はあれど、依然として犯人は捕らえられていない。特別捜査本部はこの事件を未解決事件とし、近いうちに畳まれるという流れになっている。蓉子はその前に、殺されてしまった子供たちのためにも、何とかして犯人を捕まえられないかと躍起になっていた。このままでは被害者遺族の心が安らぐことは無い。



 男が砂浜に立つ。服を脱いだその背中は、やけに大きく見えた。光弘は男から彼に拳銃を向け、早いところ一歩を踏み出すよう仕向ける。

「寒いだろ、早く進んでしまえば楽になる」

「わかってる、だが最後に聞かせてくれよ」

「答えが長くなる質問は受け付けない」

「お前は、可哀想な子供だったか?」

の話だ。覚えてない」

「そうか」

 男は、無感情にそう答えた光弘の目を見ると、冷たい風に晒されながら足を進めた。男の体が海水に腰の程まで浸かると男は。光弘は男の頭が完全にみえなくなるのを確認するとスーツのポケットからスマホを取り出し、男がきちんと沈んでいったことを上に報告した。

 光弘は死んだ男が脱いだ服と靴、そして血まみれのサバイバルナイフを回収すると、その場を去った。おそらくはあと数時間後には都内にある男の自宅に警察がやってくる。通報は、光弘が部下に指示して匿名でさせていた。



 【速報です。警視庁は先ほど会見を開き、都内で発生した無差別連続殺人事件の犯人のものと思われる遺書が指名手配中だった男の自宅にて見つかったことを発表しました。詳しい情報が入り次第お伝えします】


 淡々と述べられるニュース速報は当該事件の捜査に従事していた刑事たちを暗澹たる気分にさせた。報道が言うように蓉子たちは犯人を捕まえることはできなかった。男は遺書を自宅に遺して、どこかの海へ入水自殺したらしかった。

 あの日、蓉子らが駆け付けたのは都内にあるアパートの一室で、指名手配されている男によく似た人物がアパートから出ていくのを見たという匿名の通報を受けてのことだった。古びたインターホンを押すと誰も出ず、大家に問い合わせると、朝早く家を出てから帰っていないという。通報者の見かけた時間とも一致していた。通報者は偶然にも町に張り出されていた指名手配者のポスターを見て、もしかしたらと思ったらしかった。大家にも似顔絵を見せると、「そうかもしれないが自分は彼とのやりとりなどほぼしていなった」とうろたえるように述べた。一ヶ月近くも指名手配犯と思しき人物が住んでいたかもしれない恐怖からだろう。蓉子は大家に許可を求め、男の部屋に乗り込んだ。部屋の中は、きれいというほどではないものの、決して大荒れというほどのものではなかった。床に散乱した服やゴミが目につく中、唯一の違和は「遺書」と書かれた白い封筒と傍に置かれた血まみれのサバイバルナイフだった。

 それを目にした瞬間に、蓉子にも、ペアを組んでいた刑事にも、いやな汗が背中を伝った。一瞬の静寂のあと、蓉子はすぐさま本部へ連絡をし、捜査主任官たる警部の指示のもと中身を改めた。そうして、蓉子も、ペアの刑事も、絶望の底へと落とされた。

 遺書の内容は自分が児童連続殺人事件の犯人であること、指名手配犯となり、このまま逃げ切るのは厳しいことから入水自殺をすることなどが簡潔に書かれていた。部屋には男の保険証やマイナンバーカードといった男の身元がわかるものから、男が生前使っていたパソコンまでしっかりと遺されており、すぐさま、遺書の内容の事実確認とサバイバルナイフに付着した血液の鑑定が行われた。



 服の上からではわかりずらかったが、それなりに肉のついた男だった。骨だけになっている頃合いだ。爪の先から足の先まで、何一つ(そう、眼球から内臓のひとつまで)残らない、骨だけが残る男は、いくら殺人鬼といえど、可哀想かもしれない。けれど男の倫理観が不可思議なように、光弘の感性もまた、壊れていた。



 結局、蓉子たちは犯人を捕まえることも、その犯人の死体すらも見つけることはできなかった。犯人死亡のまま、特別捜査本部は解散となった。サバイバルナイフの血液は乾いていたものの、一番最後に殺された被害者のDNAと合致し、刺し傷の形状とも一致した。遺書には動機は書かれておらず、また、男の周辺人物への聞き込みを行っても、それが判明することはなかった。蓉子たちが見つけることができたのはただ、あの部屋の持ち主であった男が、児童連続殺人事件の犯人であったことだけだった。



 遺書


 私、山臣やまおみ倫紀とものりは、都内で起きている児童連続殺人の犯人であり、指名手配されている似顔絵の人物であります。

 指名手配され、このままでは捕まってしまう、もう限界がきているのだと思いました。ですので、私は死ぬことにします。入水自殺しますので、どうか探さないでください。


2014年10月2日 山臣倫紀

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マーメイド・カニバリズム 聖崎日向 @shMint

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ