マーメイド・カニバリズム
聖崎日向
喰われかけた人々
この国には人魚がいるらしい。ただし、それは歌姫の象徴でも悲恋の物語でも無く、“人の肉を喰らうもの”として存在しているという。この病院に運ばれてくる患者の大半は、その主張を狂気的に、あるいは
僕が精神科医として大学病院からこの精神科病院に異動して初めて診察を受け持った患者はまだ三十代半ばの痩せぎすの女性だった。その女性は身体中の痣と目の下の隈が酷い人で、みるからにやつれているのがわかった。あの頃の僕は精神科医としても、人としても未熟であった。
その女性(仮名をKとする)が運ばれてきたのは深夜の二時過ぎだった。ウェーブの掛かった長い髪を身体に張り付けた、びしょ濡れのKは診察室でひどく取り乱していた。看護師が彼女の身体をタオルで拭いてやる間、彼女は髪を振り乱しかねない勢いで「人魚がいた、人魚がいた!」と繰り返していた。看護師と僕で何とか彼女を押さえつけた。僕と向き合ったKに僕はこう聞くことにした、「人魚はどこに居たのですか」と。彼女の答えはその時の彼女の精神状態からは考えられないほど穏やかだった。
「海の底、海の底にいたの」
虚ろな目で僕を見ながら彼女は譫言のようにそれを繰り返した。僕はふっと、彼女の腕にある圧迫痕とその近くにある引っ掻き傷が気になった。Kの身体には大なり、小なり痣や傷が見え隠れしていたがその圧迫痕が特別気になって見えたのは、それ以外の傷が人間の力による暴力でつけられたとわかる分、Kを何処かに引きずり込むよう、異様な力で握られた手形の圧迫痕と上から引きあげられた為に爪で引っ掻いたような生々しい傷跡がどこか人間のものでは無いようにうつった。僕にはその傷が人魚と関係するのかどうかを聞いてはいけないのような気がした。この病院に来る前に勤めていた大学病院の精神科にはこのような患者は運ばれてこなかったからだ。それでも彼女がどうしてこのようなことを言い続けているの知るために対話を行うことは仕方が無いように思えた。額を伝う汗が冷や汗じゃないことは二度ほど上げられた暖房が示していた。
「Kさん、どうして貴方は人魚がいるなんて思うんです」
「思うじゃない、いるのよ。奴らは。私を食べようとしたの、腕を掴んで私の肉に歯を立てようとしたの、嘘じゃない。この腕が示してるわ、ほんとうなの」
Kが腕を突きだす。僕がふっと気になった傷は彼女にとって、人魚を証明する唯一の証拠なのだろう。どこか辿たどしく語る彼女は色々な話を一方的に僕にした。一度話してしまったからなのか心理的なリミッターが外れたようだった。僕は彼女の言葉を聴き漏らさぬよう彼女の話に耳を傾けた。曰く、Kは元は北新地のキャバクラで働くいちキャバ嬢で、三十を目前に年齢を理由に店を去った。ただその時に太客だった男とは関係が続いたのだと言う。その元太客は暴力団関係者で店を辞めたKに非合法なクスリを売り始めた。覚せい剤の一種でトランス状態になれるというその快感を、一度手にしてしまったKは簡単には手放せなかった。クスリにハマりこんだその瞬間こそ、Kと男の立場が逆転した瞬間だったと言う。彼女が法外な値段のクスリを手に入れる為に選んだのはソープ嬢という道だった。月に何百万と稼いだ金はクスリに消え、生活はドンドンと困窮していった。金を稼ぐ速度とクスリを求める速度が一致しなくなった時、歯車が狂い出した。
「お金が用意できなくなって初めて彼に殴られたの」
彼女の体が痣だらけなのは、そのせいなんだと、Kは自嘲気味に笑った。やがて、ソープ嬢としてもやっていけなくなるほど心身共にボロボロとなった彼女は泣きながら男に土下座をしたのだと言う。その当時、彼女は複数の消費者金融と他ならない男の属する暴力団から金を借りていた。その金も返せず、クスリも買えず、日々暴力の元に晒された彼女には既に限界がきていたのだ。泣きながら土下座する彼女に彼は暴力団関係者の性のはけ口になるか死ぬかの二択を突きつけた。彼としても金蔓にもならない彼女はとっくに用済みだったのだろう。Kはその時、ようやく死のうと思えたという。
「死にます……もう死なせてくださいって懇願したのよ」
その願いは叶えられた。Kは男に連れられ夜の海へと運ばれた。誰も居ない、居るはずのないその砂浜は暴力団が買い上げた土地であった。反社会的組織が砂浜やプライベートビーチになり得る無人島を買い上げる例はめずらしいことでは無い。消したい人間を海に沈めるとその人間は跡形もなく消えてしまう。そういう認識が日本に複数ある反社会的組織の中では公然の秘密となっている、と以前、元暴力団所属の統合失調症患者の治療を担当している先輩の医者から聞いたことがある。恐らく人魚がKを喰らおうとしていた、という話と総合すれば暴力団の組員が海に沈めた人間は人魚が綺麗さっぱり食べてしまっていたのかもしれない。生きたまま沈める、そうするのはかつて死体を海に沈めようとした大学生が暴力団の噂を元にしたがその数日後に死体が発見され逮捕された事件が背景にあるのかもしれない。ニュースでしか知らない話だがその遺体にはいくつかの歯型があったらしい。Kもその生きたまま沈められる運命にあった。死体では発見される。だから生きたままKを沈めたのだろう。しかし、男の予想に反し、Kは生き残った。こうして、この精神科病院に運ばれてきたのはそういうことなのだと彼女は言う。海に入るよう指示され、冷たい水の中に身体を沈めていくと突然何かに足を強く掴まれたんだと言う。
「突然の事におどろいて……それでその手を払い除けようと水の中で藻掻いていると腕を強く掴まれたの……ほら……さっきも見せたでしょう……」
無我夢中だったと言う。もう一度突き出した腕に歯型は認められないからきっと喰われそうになる前に海を脱したのだろう。Kの話はそれ以上続くことは無かった。ここで終わりらしかった。
「それは大変でしたね……」
僕は話の終わったKとの当たり障りない対話で思案の時間を稼いだ。問題がいくつかあったからだ。彼女の話は他の患者の例に漏れず自らの妄想が多分に含まれている。彼女が運ばれてきたのは確かに深夜の二時過ぎで身体はびしょ濡れだったが病院へ彼女を連れてきたのは話にあった暴力団関係者の男かもしれないがえらく細身の男で、暴力をふるうような凶暴性を秘めた男に見えなかった(これはあくまで僕の彼への第一印象から来る偏見である)。シルバーフレームのメガネの位置を直しながら彼は風呂に入った彼女がいきなり「人魚に、人魚に食べられるの!」などと叫び始めたので連れてきたと言っていたのだ。実際取り押さえていて気がついていたが彼女の身体は暖かった。寒い寒いと主張する彼女の為に暖房を二度ほど上げたが搬送されてきた彼女は長時間お湯に浸かっていた為に逆上せているはずだった。あくまでも彼女の意識の中では冷たい海の中にいることになっているから寒い寒いと主張することは間違っていない(あくまでも彼女の中では)。腕の圧迫痕と引っ掻き傷は強姦の末だと解釈できる。メガネを直す時に見た手の形と痕の形がよく似ているように思えた。
思案の末、Kを入院という形で治療を試みるのが今の彼女にとっても最適なのでは無いかと、僕は結論付けた。入院手続きの為、看護師に診察室の外で待っていた男を呼び込んで貰った。僕の仮説は述べず、彼女の妄想に付き合う形で彼にKの入院を納得させた。彼はどこか納得のいかない顔を見せながらも虚ろな顔をしたKを見て最後には首を縦に振った。
診察を終え、看護師が彼女を病室へ連れていった後、男にいくつか話を聞いてみた。先程Kの語った話は全部が妄想なのかどうかを確認したかった。僕は彼女の話を掻い摘んで男に話すと彼は癖なのかズレてもいないメガネの縁を弄り、僕の目を見た。
「彼女がキャバクラを辞めたのもヤクザからクスリを買っていたのも本当です。でもそのヤクザは俺じゃない。ヤクザの男に暴行されていた彼女を僕は拾ったんです、つい先日ね」
「海の話はされてましたか」
「全く、むしろ死ぬかどうかなんて聞かれていたなんて初めて知ったくらいです」
「そうですか、ありがとうございます」
僕は軽く礼をしてKの病室から戻った看護師に話しかけた。看護師は彼女の様子について今は落ち着いて眠っている。と述べた。僕は最終的にどのような判断を下すべきか悩んだ。僕たちの話が一区切りすると男が入院について気になったらしいことについて二、三質問をした。僕と看護師で軽く答えてやっているうちに別の入院患者が騒ぎ出してしまい僕は看護師にその場を引き継ぎ、病室へ向かった。その患者は躁うつ病で先々月から入院しており、僕より一つ下の精神科医が担当をしていた。五十代の女性で、夜中に叫び出すことが多々あるのだと聞いている。ここに来て日の浅い僕はどの患者のこともまだ詳しい状態には無かった。その患者のことに関して、特筆するようなトラブルは無かった。問題があるとしたらその後だった。病室に入り眠ったはずのKが突如として
「Kさん、落ち着いてください。ここは海ではありません、地上です」
今思えばこの言葉がこの精神科病院の大半の患者を人魚の妄想に駆られた人々にしてしまったのではないかと思えてならない。統合失調症の患者は何かに監視をされている妄想に駆られているケースがあるが人魚に食べられるなんて初めてだった。だから尚更、どんな言葉が彼女を激情させるかわからなかったのだ。血塗れになった口許を看護師が拭いてやる横で僕は彼女の腕を診察した。紛れもない人間の歯型がくっきりとある。肉はまだあった。口許を拭いた看護師が処置をする為の道具を準備する。彼女は「食べないで……食べないでよ……」とさめざめ泣き始めた。
「大丈夫です、ここは地上です。もう人魚の手には届きません」
マニュアルの無い対応を繰り返すしかなかった。盗聴器を仕掛けられているという妄想に駆られた患者相手には筆談での説得から始めることがある。しかしこの場合は何が正しいのだろう。妄想に囚われ自らの腕を喰いちぎろうとする行為。血塗れの口許。虚ろな目。正しさはきっとない。そう思うのは簡単だ。
看護師が手際良く彼女の腕に包帯を巻く。泣いていることに変わりはないが僕の言葉が聞こえたのか、叫んだりすることは無かった。手当を終えた彼女に最後にもう一度聞いてみた。
「Kさん、その人魚はどこに居るんですか」
彼女は言った。
「海、海の底。きっと普段は沈んでいるんだわ」
彼女はそれきり、口を一文字に結び、窓の外を見つめるばかりだった。
僕は看護師と共に病室を出た。診察室で看護師は僕に聞いた。
「Kさん、どうしてベッドの上で人魚がいるなんて言ったんでしょう」
「それはこれから治療を続けてみないことははっきりとしたことは。でも今の段階で予想するならそうですね、沈んだからじゃないですかね」
「沈んだ?」
「ええ、彼女にとって、人魚とは沈んだ先にいるものなんじゃないかなと。だから風呂で溺れたりするとそういう幻覚を見るのかもしれません。眠っていた、というよりはそういう夢を見たのかも。海に沈む夢を見た、だから夢と現実の境が無くなってその妄想を補強するように腕を噛んだ。こういうことくらいしか今の僕には想像できないですね」
「そういえば、あの男の人も風呂に入っている時に、Kさんは叫び始めたと言っていましたね」
「ええ、そう言えばあの人はもうお帰りに?」
「はい。明日また来ると」
「そうですか」
僕は机の上に置いたカルテに目をやる。人魚に喰われる妄想に駆られた患者。そうした妄想が現実になり得たとしてそれを僕らが目にするのは本当に“喰われた時”なんじゃないか、そう考えてしまった時、外の風が窓を叩いた。
この日のことを境に僕は何人もの人魚の妄想に駆られた患者を診たが後にも先にも自分で自分を喰おうとしたのはKだけだった。Kは三年ほど保護室と病室を行ったり来たりしながら入院をし、時折やってきていたメガネの男が引き取る形で退院した。その後の消息は知らないが再入院の兆しがないことから人魚の幻想は無くなったのかもしれないし、本当に人魚に喰われたのかもしれない。それは僕の知り得ることでは無い。それは他の患者についても同じだ。今日もまた、余所の精神科からの紹介状を携えた患者がやってくる。
診察室に入ってきたのは、シルバーフレームのメガネをかけた、あの時の男だった。びしょ濡れの彼は僕を見るなりこう言った。
「先生、彼女は正しかった。ずっと、心のどこかで疑っていたけれど、彼女の話は妄想なんかじゃなかったんです。俺は人魚に足の肉を……」
額を伝う汗が冷や汗なのか、暖房のせいなのか、僕は知りたくなかった。
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