第25話 ソラ君の家庭の事情

 ハンバーガーショップを出た二人は、なんとなくそれまでの流れで、一緒に帰る。ユキは自転車を押し、徒歩のソラのスピードに合わせる。


 ユキが何気なく上を見ると、どんよりとした雲の多い空である。


 今晩も暑いなぁ。


 ここからそれぞれの家までの道のりは、住宅街の中の狭い市道を通っていくのだ。


 市道とはいっても、ここは旧東海道であり、古い家並みが続く。


 車がすれ違うのも、場所によってはギリギリだ。そんな狭い道をバスやトラックが通る時もある。


 車のヘッドライトが、二人の姿を照らし出す。


「そういえば、ソラ君」


 思いついたかのようにユキは言った。ユキのポニテの髪が生暖かい風に吹かれてゆらゆら揺れる。


「なに?」


と、一瞬、ソラはいぶかしげに訊き返す。


「前から一度、訊きたいことがあってさ」


 ユキの真面目な顔。


「どんなこと?」


「ソラ君、世界史やオカルトの話まで、すごく物知りだと思うけど、どうして?」


 ユキは単刀直入に訊いてみた。


「どうして?って言われてもなぁ……」


と言って、ソラは困ったような顔をして頭を掻いた。


「え~と、父親が歴史好きでさ、家の本棚にいっぱい歴史関係の本があったんだよ。それを僕は子どもの頃からよく読んでたかなぁ。オカルト本も父親の趣味でいっぱいあってね」


 私の父親みたいに『モー』ばかりじゃないんだろうなぁ、とユキは思った。


「お父さんって、何をされてるの?」


「ん? 普通のビジネスマンだよ」


「あっ、もしかしてリニア通勤されてるの?」


 「リニア通勤」というのは、最近の流行語の一つに数えられている。文字通り、リニア新幹線を利用しての通勤である。


 当初の予定より一年遅れて二〇二八年、品川―名古屋間に開通したリニア中央新幹線。その分の遅れを取り戻すべく突貫工事で建設された名古屋―新大阪間は当初予定より大幅に早く二〇三二年に完成した。それを機に、ここ亀島の街も徐々にではあるが変わりつつある。


 なにしろ地価が大都市圏に比べて圧倒的に安いのだ。大企業勤めのビジネスマンでも東京近郊ではなかなか一軒家を建てることは難しいが、同じ金額で亀島なら豪邸を建てることができる。


 その上、リニアの新亀島駅から東京の品川駅まで一時間一〇分で行けるのだ。時間的には、たとえば八王子から中央線で都心に通勤するのと大差ない(当然、運賃は高額になるが)。


 交通費の問題さえ解決できれば、十分に通勤圏内である。


「うん……父の勤め先は東京でさ。ここは地価も安い上に名古屋や大阪への出張の便も良い、ということで、JR亀島駅前のタワマンを買ったのはいいんだけど、リニアの駅は新亀島駅だったというオチさ。まあ、仕事が忙しすぎるのと、海外を含めて出張が多いから、ほとんど家に帰ってこないけどね」


「え~っ、駅前のタワマンて、あの一番高い三〇階建てのやつ?」


「そうだよ」


 あっ、うちからの天体観測でちょっと邪魔になる例の建物だ。あちゃ~、よりにもよって、そこかぁ。ソラ君、あなたのうちを天体観測の邪魔だと思ってゴメン。


「ソラ君ちは何階なの?」


「ん、最上階」


と、ソラはこともなげに答えた。


 すごい、地上三〇階の部屋か。


 地上二階建ての木造家屋に住んでいるユキには想像もつかない世界だ。


 ソラ君は毎日、地上三〇階から地上を見下ろしているのか。ソラ君の眼には、地上がどんなふうに見えているのだろうか。ユキは何とも言えず不思議な感じがした。


「じゃあ、普段はそこでお母さんと二人暮らしなの?」


「うん、まあね……」


 高校生のユキにとっても、ソラの生きてきた世界は自分たちのそれとは違うのだということをおぼろげながら理解できた。


 実は最近、亀島市にはソラの父親のような住民が増加しているのだ。自宅は亀島だが、勤務先は東京だったり、大阪だったり、名古屋だったり。本当に亀島市はベッドタウンだ。


 そういった人たちの子どもで地元の学校に転校してくる者も増えている。亀島高校にも年に何名か転入してくる。まあ、高校は義務教育ではないから、転入希望者を無制限に受け入れるわけにはいかないのだが。


「そういえば、ソラ君、去年は何組だったの?」


「えっ?」


と、ソラは意外そうな顔をした。


「ユキちゃん、僕は今年の四月に転入試験を受けて入ってきたんだよ」


「あっ、そうだったの?」


「知らなかった?」


 そうだ、私はソラ君のことをほとんど何も知らなかった。ただ、世界史とオカルトに強いという認識しかなかったわ。


「えっ、そうすると前の高校は東京の?」


「うん、近所の都立に通ってたんだ」


「都立だって。すご~い」


「あのね、全然すごくないから」


と言って、ソラは笑った。


「そうだなぁ……東大に毎年現役で二〇人くらい合格する程度の高校だったよ」


「やっぱり、すご~い」


「だから、すごくないってば」


「ここなら、十分にすごい」


 ユキの言葉に嘘はなかった。このあたりで一番の進学校でも毎年、東大に現役合格する生徒は一桁台なのだ。


「ソラ君、勉強できるんだ」


 ソラはわざとだろうか、少し内容のズレた返事をした。


「亀島高校だって、いい学校だよ。のんびりしててさ。大学受験のプレッシャーなんて感じないから、受験ノイローゼにもならないよ」


と言って笑った。


 そして、ソラは都立高校時代のことを話してくれた。


 授業の進度は速い、毎日の宿題課題は多い、みんな難関大学を目指して身を削る思いで勉強している。


 結果、心に余裕がない。毎年、何人かの生徒が心を病んで退学していく。もしかしたら先生も。でも、教師も生徒もたいして気にとめない。毎日、自分のことだけで精一杯。もし落伍者に関わったら、自分も落伍者になるとでも思っているよう。


「僕も学校へ行くのが嫌になってね……ちょうど父が亀島にマンションを買うというので転居してきたんだよ」


「そうだったの……」


 ユキには想像もつかない世界だった。


「そこへ行くと亀島高校はいいよ。ストレスないもん。亀島だって、いい町だよ。何にも無いけど自然は一杯あるもの」


「ソラ君ひど~い。それ、褒めてるのか、けなしてるのか、わからないよ」


「けなしてなんかないよ。過度な競争とか、物が多すぎるとか苦痛でしかない。のんびりシンプルライフ大賛成さ」


と言って、ソラはいつものように白い歯を見せた。


 ただ、亀島市の転入者増による人口増と、それに伴なう転入生組に引きずられるかたちで、亀島高校の偏差値はこのところ上昇傾向にある。昨年は実に八〇年ぶりに東大現役合格者を出した。発表の日、進路指導部の先生方は狂喜乱舞したそうだ。


 二人の帰り道が別れる交差点が近づいてきた。


「ねえ、ソラ君」


 ユキは自分の渡る側の横断歩道が青信号になっているのもかまわず、意を決して信号待ちをするソラに言った。


「今度、家に遊びに行っていい?」


 ソラは一瞬、また意外そうな顔をしたがすぐに、


「いいよ……でも」


 ユキは、ソラの「でも」という言葉に引っかかった。


「でも?」


「母のいる時じゃないとダメだよね」


「ソラ君がその方が良ければ」


「まあ、二人っきりで何かあったんじゃないかとか、後で他人に勘ぐられるのも嫌だしね。そんなことになったら、ユキちゃんだって困るでしょ」


 ソラはさらっと言ったが、ユキはちょっと顔に血が上るのを感じた。


 嫌だ、そんなこと、考えたこともなかったのに。


「それで、お母さんはいつご在宅なの?」


「それがさぁ……」


 ソラは困ったような顔をした。


「僕の母は一応、音楽家の端くれでさ、演奏旅行に出ると一ヶ月や二ヶ月の間、帰ってこないなんてことはザラなんだ。今もね」

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